食堂から搬送されるA-72を、リタは恨み混じりの視線を投げると同時に、一分前まで敵対していた奴隷の身を案じてもいた。
リタの背負い投げを受けた直後、A-72の体内では驚くべきメカニズムが働いていた。外部からのストレス――床に放られた衝撃がスイッチとなり、脊髄反射で神経伝達物質・アドレナリンの分泌が促進される。大量のアドレナリンが血中を駆け巡ることで心拍数が跳ね上がり、潤沢な酸素が筋肉に供給される。人体の神秘を凝縮した天然のドーピング行為は、ヒトの奥底に眠る動物としての本能を呼び覚まし、卓越した運動機能や、強靱な胆力をその身に宿らせる。要するに、火事場の馬鹿力でパンチが強くなったり、痛みを感じなくなったりするのである。脳内麻薬の呼び名に違わず、血管収縮によるアドレナリンの鎮痛効果は市販薬の比ではなく、銃撃戦を無傷で切り抜けたはずの警察官が、同僚に指摘されて初めて自分が被弾していたのに気付き、緊張が解けた途端に血が噴き出すという類の超常的なエピソードは珍しくない。
誠に残念ながら、ヒトがアドレナリン超人でいられる時間は極めて短い。血中に放出されたアドレナリンは即座に分解酵素の餌食となり、ものの数秒でその一生に幕を下ろす。アドレナリン亡き後の人体には、その身に過ぎたる力への代償が待っている。耐えがたい脱力感と判断力の低下、そして忘れていた痛みが一気に押し寄せてくるのだ。A-72は、脳内麻薬が与えた貴重な四秒間を反撃に活かせず、遅れてやってきた激痛にノックアウトされたのである。
素人相手に有段者レベルの武力で応じたことで、リタは幾ばくかの後悔を覚えていた。相手は数で勝っていたが、それを加味してもフェアな勝負ではなかったと、頑固な騎士道精神が戦闘直後の彼女を苛んでいた。
リタが自責の念を振り切れないでいると、A-72の搬送と入れ替わるように、小さな人影が食堂に飛び入ってきた。開戦前にリタが逃がしたはずのB-20は、乱れた調理着姿のルームメイトへ一直線に駆け寄り、細い腕で抱きついた。汚れた衣類はそのままで、赤く腫らした目蓋がリタの鎖骨に押しつけられる。謝罪の言葉を繰り返してすすり泣くB-20の背中を、リタは慈しむように撫でた。
「ずっと見てたんだね、可愛いおばかさん。部屋で待ってりゃいいのにさ」
「だって、私がいなければこんなことには――」
震える唇を、リタの指が制した。
「あんたのせいじゃないよ、ブリジット。あたしは自分で選んだ道を進んでるだけ」
ブリジットを抱きつかせたまま、リタは輪状の布きれを左上腕に通し、樹脂製のクリップで留めた。
「それに、自分の命運も掛かってるしね」
自作の腕章を眺めるリタの瞳が、一抹の不安に曇った。
もし男に生まれていたら――。物心ついた時分からしつこく付きまとう逃げ口上を、リタは揉み潰した。嘘も貫き通せば真実になる、そうでしょう?
拙い出来の腕章には、一対の翼を有する剣の刺繍が施されていた。英国陸軍の精鋭部隊の徽章を、完成度はともかく、そのまま模したモチーフには、一説のスローガンが添えられていた。
「危険を冒す者が勝利する、か……」
リタの呟きに、ブリジットが怪訝そうに首をもたげる。
「何でもないの。気にしないで」
疑問符を浮かべるブリジットを、リタは力強く抱擁した。短いハグを解くと、喧嘩騒ぎから逃げそびれた奴隷たちへ視線を投げた。
「さあて、そろそろやらかしますかね!」
急に暴君の照準線に捉えられて身構えるギャラリーの前に、リタは堂々と進み出る。その場の奴隷全員が、間近で瞳を覗き込まれる錯覚に陥った。
「傾注せよ、愚鈍なる奴隷ども! 隷属と侍従、行き着く先はいずれかひとつだ! 決断の時だ、選べ!」
少女の形をかたどり、奴隷の皮を被った権威が、腕章を通した腕を高々と振りかざした。
「危険を冒す者が勝利する!」
『特務監督奴隷』略称:SASは、業績の振るわない奴隷調教施設の利益率向上を目的に試用が開始された。英国人らしく名称だけは格式張った本制度は、蓋を開ければ具体的な施策は皆無であり、奴隷たちの監督と指導を任ぜられているものの、実際に評定を下されるのは監督官であるリタ当人である、レディ・『マーガレット』・スレイヴを主人公とする等身大の人形遊びこそが、この実証実験の本質であった。
実験場、もとい上層部の道楽開催地にはバーミンガムの調教施設が選ばれた。施設の責任者は、上層部が早く人形遊びに飽きるのを願いつつ、リタをB-20の警護に就かせた。型破りな人形は、着任早々に暴力沙汰を起こして上層部を喜ばせ、役員の胃を痛めた。
ところが、実験は関係者の思惑の及ばぬ展開を繰り広げた。安直な言葉遊びの産物でしかなかった肩書きを、リタは最大限に活用した。調教課程の奴隷でありながら、一定の権限を得たリタは、数週間の内に、施設運営に欠かせぬ存在にのし上がった。商家出身のリタは調教施設を大航海時代の英国植民地に見立て、委任統治者としての職務を順風満帆にこなしていった。抜群の経営センスと歯に衣着せぬ物言い、奴隷同士のいさかいに単身で介入する勇姿に憧憬を抱き、レディ・スレイヴを目指す奴隷が続出した。向上意欲は奴隷の商品価値を底上げし、リタの特務監督奴隷着任から、バーミンガム施設の年次収益は首位を獲り続けた。
若き経営者、奴隷の頂点として確たる実績を築いたリタはその反面、使用人の本分たる家事雑用は不得手であったため、それはそれで職員を悩ませたが、その不器用を補って余りある懐刀が、敏腕奴隷に付き従っていた。B-20ことブリジットは、リタという核の傘を得たことで、無用の抑圧から解放されると、素材の持ち味を存分に発揮した。うろんな表情が生気を取り戻すと、あどけなさの残る容姿からは想像も及ばない、秘めたる色香を振りまき、ブリジットが歩いた後には花が咲くとの噂が一人歩きするほどであった。なかんずく、微笑みから垣間見える暴力的なまでの妖艶さを危険視され、一時はブリジットの直視を禁じる措置が講じられたほどである。
互いに正反対の印象を持つリタとブリジットは、しばしば太陽と月に例えられ、しかも背格好が似ているので、施設外の人間からは姉妹と誤解されたものである。施設内で密かに、この二体のファンクラブが設立されたのも、決して不思議ではない。
リタがバーミンガムへ移った二年後、商品として出荷の日を迎え、太陽と月は引き離された。当人らは知る由もないが、この二人が調教期間に裏の社交界で生んだ収益総額は、業界で五本指に記録されている。
レディ・スレイヴ自身は調教施設を去ったが、彼女の功績は高額奴隷の調教指南として今日も研究が続けられている。当時のレディ・スレイヴを知る職員にその人物像を訊くと、決まった応答が寄越される。「ありゃあ、鉄の女だったよ」