あわや中年男の吐瀉物を引っ被ろうかという間際に、トレンチコートの女がクラプトンの身をぐいと引き寄せた。黄色と黒がごた混ぜになったゲル状の物質が、氾濫した路面にほとばしる。バグウェルの一部だったものは、ゆらゆらとクラプトンの前を横切り、やがて近くの排水溝へと呑み込まれていった。即席の生物兵器が無力化されたのを見届けると、女はクラプトンから離れ、自分が掴んで乱したコートのしわを伸ばしてやった。女の身繕いが終わると、クラプトンは交渉に戻った。
「……えー、今の無礼は水に流すとしよう。実際に流れたしな。さて、お話を続けて宜しいかな?」
バグウェルは返事をするどころではなかった。妻の不倫への拒絶反応に、徹底的な胃洗浄で対処しているかのようだった。
相手が交渉の場に着くまで――バグウェルがゲロを吐き終えるのにどれだけ掛かるだろうかとクラプトンが思案していると、女がすっと前に進み出た。四つん這いでげえげえやるバグウェルに大股で迫ると、革手袋をはめた右手でその後頭部を掴んだ。バグウェルが状況を察する間もなく、女は足下の洪水にバグウェルの顔を沈めた。ただでさえ詰まっていた気道に雨水が流れ込み、バグウェルはしゃにむに暴れたが、女を振りほどくことは叶わなかった。
「おい、もういいだろう」
クラプトンの制止で、女はバグウェルの頭を引き上げた。女があまりに乱暴に扱ったため、ぶちぶちという音と一緒に、バグウェルの後頭部から数百本の縮れ毛がもぎ取られた。溺死しかけたショックと頭皮の痛みにバグウェルが泣き叫ぶのも素知らぬ風に、女は手袋に絡みついた毛髪を払い落とした。
「加減しろよ、死んじまうぞ」
クラプトンの不服にも、女は動じなかった。
「そう悪いことではないでしょう? 街の寄生虫が減るんですから」
クラプトンは手を額に天を仰ぎ、当初の目的に立ち戻った。この女と言い合ったところで時間を浪費するだけなのは、経験から知っていた。
クラプトンは膝を折り、グロッキーにへたり込むバグウェルと再び向き合った。
「もう勘弁してくれ……」
たっぷり十秒間の水責めに心を折られ、巡査部長はうつろな瞳から涙をこぼしていた。
「部下の乱暴を詫びるよ。もっとも、あんたが最初から良い返事をしていれば、こんな目に遭うこともなかったんだが。
さあて、仕切り直しといこう。あんたの奥さんは、汗だくで働くあんたを欺き、どこぞの野郎と仲良ししてた訳だ。一度や二度じゃない。あのじじいとは、五年も親しくやってると調べがついている」
クラプトンの供述が続く内に、死にかけのバグウェルの中で火種が生まれた。火種はじわじわと育ち、暗い緑色の炎を揺らめかせた。
「このまま警察を続けていても、ろくなキャリアは望めない。それに、気付いているはずだ。あんたを好いている人間は、この街のどこにもいない。誰からも好かれていないのを常に自覚しながら、それでも正義の警察官の猿芝居に興じられるか?」
バグウェルは首をもたげて、クラプトンを睨みつけた。目の前の嫌みたらしい軍人への厭悪もあったが、それ以上の感情に支配されていた。
「憎むべき相手は分かったな? 目には目を……奥さんと同じように、あんたが第二の人生を始めるのを咎めるやつはいない。本当は好きでもない仕事を何十年も勤めたその根性は、正直いって平伏するよ」
「無駄口は要らない。何をくれるかだけ言え」
最早、法の護り手としてのバグウェルは存在しなかった。反逆者たる妻への憎悪に燃える両の眼が、ひとつの欲望にたぎっていた。
「さっきの映像はもちろん、奥さんの過去五年間の行動記録すべて。立て籠もり事件の指揮権と引換だ。データの受け渡しについては、追って報せる。心配するな、約束は守る。
第二の人生を始めるのに、けちな退職金じゃあ足りないだろう? 幸い、例の間男は某国の大使館勤めだ。訴訟を起こすか、それとも
口角を邪悪に歪ませて、バグウェルは頷いた。