奴隷蛮行――そのメイド、特殊につき。   作:紙谷米英

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奴隷蛮行【1-4】

 メイドの桜色の唇は固く結ばれ、その美貌から一切の感情が失せていた。再度、陳列品を瞬きも忘れて精査するものの、むべなるかな、そこに彼女の求むボトルは存在しなかった。

 琥珀色の蒸留酒、ウィスキーはその産地で五種に大別される。軽い口当たりのカナディアン。緻密な風味のジャパニーズ。移民が新天地に確立したアメリカン。スモーキーな最大派閥のスコッチ。そして、ウィスキー発祥の地が誇るアイリッシュ。このアイリッシュ・ウィスキーのブランドが一つ、〈ブッシュミルズ〉の『ブラックブッシュ』こそが、ブリジットの主人のお気に入りであった。

 ブリジットは佇まいを正すと、店員に在庫を尋ねようと周囲を見回した。ひょっとすると、切らしているのは店頭在庫だけやもしれない。倉庫の備蓄を一縷の望みに、背後で割り材の補充に勤しむ店員へ声を掛けようとした。が、その背中へ声帯を震わせる寸前、ブリジットは考えを改めた。そして初めからそうする予定であった様に、ごく自然な所作で酒類の棚を後にした。先の店員を、ブリジットは一瞥だけで評価・分析していた。四十を半ば過ぎた女の左手に指輪はなく、曲がった背中には哀愁より意地の悪さが現れていた。肥えた上半身は胸と腹の境目をなくし、ただただでかい臀部がジーンズの生地を虐めている。その内面は容貌へ具に現れており、引きつった表情筋に他人を慮る余地はない。美醜でいえば明白に醜い容姿を、ジェルネイルや雑多な宝飾品で悪目立ちさせている。ブリジットの主人をして「頭お姫様勘違い売れ残りおばさん」と評されるこの手合いは、心の奥底では自身の見てくれが秀でていない現実を自覚している。彼女らは余りに必然な事実を認め難い為に、僅かでも容姿の優れた他者を妬み、嫉み、そして排斥に躍起になる。馬鹿げていると一蹴する前に、ほんの少し思い返してみよう。多くのヒトの雄が、成人後も男根で物事を考える悪癖を断てない様に、彼女らも女性ホルモンに脳が踊らされているだけの雌なのだと。そこに奴隷という階級が添加されれば、彼我の優劣をかざして悪意をぶつけられるのは必死である。英国の霊長類社会は、かくも無益と不都合に満ちていた。

 無用の敵意を回避してから一分で、ブリジットは目的に適った女性店員を発見した。長身で、栗色の髪をポニーテイルにまとめた二十代前半。ブルージーンズの尻がぷりぷり艶めかしい、男好きのする容姿である。

「失礼致します。ウィスキーの在庫は、出ている限りでしょうか?」

 腰低く切り出された声に店員は営業スマイルで振り返り、そして呆気にとられた。問い掛けてきた奴隷はあたかもフランス人形の様で、落ち着きある声音は厳かでありながら、快い親しみが滲んでいる。襟に控えめなジャボット(胸襟に着ける、三角形の布飾り)を着けている点から、淑女教育に励む令嬢とさえ見紛い、高貴たる威厳に気圧された。「わ、可愛い!」。空白の一秒間から我に返ると、店員は申し訳なさげに眉を下げた。

「ええ、そうなの、ごめんなさいね。明日には補充されると思うんだけど……」

 店員はもう一度謝罪の言葉を重ね、ブリジットは手間を取らせた謝意を述べてその場を去った。背中に掛けられた、店員の「頑張ってね」の声に、メイドは微笑み手を振る。だが店員の視界から外れると、その面持ちは急転した。蒼い瞳孔は強か収縮し、ガラス玉の如く、がらんどうに覇気を欠く。傍目には知れないが、彼女の背中を一筋の滴が伝った。

 ブリジットがこうまで狼狽するのには、確固たる理由があった。英国の常識的に、奴隷の待遇は悲惨を極める。雇用形態は文字通りの全権を握る主人に委ねられており、難民以下の暮らしを強いられる者もざらである。奴隷を端から消耗品と捉える事業主も多く、肉体的な懲罰行為が一線を越えて殺人へ発展する例は、銀河系の数だけある。この場合は通常の殺人罪ではなく、英国の資産に対する器物損壊、及び奴隷販売企業への弁済金といった罪状が適用される。悪辣な主人に手綱を握られた奴隷に、その機嫌を損ねるタブーは許されない。

 というのが、現代英国の常識である。であるのだが、目下のブリジットの焦燥は、雇用主からの懲罰に帰依するものではなかった。確かに、彼女の主人には世の一般男性より拘りの強いきらいがある。ジーンズを窮屈と言って絶対に履かず、高慢ちきに聞こえるロンドン訛りを嫌って、アメリカ英語に近い発音を好む。そのくせ、余りにストレートな物言いは下品と、曖昧模糊なやり取りで他者をしばしば混乱させる。執着は酒類にも及んでおり、マティーニにオリーブの実を沈めず、使用するジンは〈ボンベイ・サファイア〉と規定している。平時に飲むウィスキーは前述のブラックブッシュであり、地下蔵の奥に仕舞い込んだ〈レッドブレスト〉の十二年は、特別な機会にのみ自身に開栓を許す徹底振りときている。とはいえ、この男とて一日くらい好きな酒がないだけで拗ねる器ではない。軍人という職業柄、手の内のカードで事を済ませる習慣も染み付いており、自意識とは反する柔軟性も兼ね備えている。かてて加えて、彼の者は夕餉の酒などなくとも、愛しい伴侶との睦言で十二分に至福を噛み締めるのだ。些事に他人を巻き込んで激昂するのは、股間だけが肥大した幼子に他ならない。

 ――にもかかわらず、それを良しとしないのが、航空会社の重量規定より厳格と定評ある家事使用人、ブリジットの矜持である。「それでも私はメイドさん。一点の妥協の余地もあってはいけないの」。彼女の内には天使も悪魔も存在しない。そこには唯一、無欠を信条とするメイドが控えるばかりである。

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