薄ら寒い日用品店に、小さなくしゃみが木霊する。今日これまで何度も聞こえた音だったが、ブリジットの口から発せられるのは、これが初めてだった。
「あたしはもう大丈夫だから、もう離れなよ」
リタが尻をずらして、雨に濡れた身体を旧友から離そうとした。泣き腫らした目蓋には、まだ赤みが残っていた。
「悪寒はないから心配しないで。それに、まだ冷たいじゃない」
おずおずと距離を取ろうとするリタを、ブリジットも尻移動で追いかける。縄で不自由な手で、リタのエプロンドレスを掴む。
「一緒に暖まろう?」
ふたりの尻が再び密接し、根負けしたリタはブリジットの肩に寄りかかった。
数分前に泣き止むまで、リタは調教施設を出てからの経緯をブリジットに話した。ウェールズでの奴隷即売会に出品されるはずだったリタは、ひとりだけ別の車に乗せられて、あるホテルのスイートへ連れられた。カーディフで食品加工業を経営する中年夫婦が、その部屋で待っていた。それが、リタについた買い手だった。
運転手つきのメルセデスで新たな主人の住み処へ向かう途中、それまで押しとどめていた感情が涙腺から溢れた。隣に座る婦人がリタをそっと抱き寄せて、うちに来てくれてありがとうと囁いた。主人もまた、温かい手でリタの手を包み、彼女を家族として受け入れる意志を伝えた。
夫婦は若くして起業し、事業の発展に心血を注いだ。過労がたたり、ガンを患った婦人は二十代後半で子宮を全摘出していた。企業から四十年、信頼の置ける後身や幹部が揃い、経営が盤石になったのを見届け、夫婦は失った時間を取り戻そうとした。奴隷の購入は最善の手段ではなかったが、幼い孤児を引き取るには歳を取り過ぎていた。世論が奴隷制度の完全撤廃に傾倒しつつある時勢を信じ、彼らは奴隷雇用を斡旋するエージェントに希望を告げた。「とにかく面倒くさい子を引き取らせてほしい」と。エージェントの返答はこうだった。「ご希望に添える品がございます。その奴隷はレディ・スレイヴの別名で呼ばれ――」かくしてリタは、バラス家の家事使用人かつ未来の息女として迎え入れられた。
リタは愛娘も同然の扱いを受けると同時に、一代で企業を成長させた夫婦のスパルタ教育を課せられた。広い邸宅のあらゆる場所で、リタは夫婦と口論を生じ、主人の秘書兼執事に監督される日々がやってきた。そうして主人から経営学を直接に指導されていた今日この日、リタは勉強机を蹴り倒し、開いていた窓から表の植え込みへ身を投げ、邸宅を脱走した。走りながら一度だけ振り返り、主人が窓の奥で唖然としていたのが心地よかった。植え込みの中に事前に隠していた財布があったので、一日かそこら新鮮な空気を吸って、互いにほとぼりが冷めた頃に戻るつもりだった。事件が起こったせいで、冷めすぎてしまった。