監視カメラの映像に、リチャード・クラプトンの演算装置はぺんぺん草一本と残らぬほど破壊され尽くしていた。指揮車輌内のひとりひとりに目で訴え、ブリジットに何が起きたか意見を求めた。暴漢に便所へ連れられた少女が何をされるか。不文律にも等しい展開の口外を、情報部員らは躊躇った。
いたたまれない沈黙を、最悪の人物が終わらせた。「まあ、ねちょねちょにされるでしょうね」
ニーナの心ない発言に、クラプトンがとうとうマグマを噴き上げた。厚い脂肪にカムフラージュされた強靱な筋肉をばねに指揮机を跳び越し、ニーナの両の肩に掴みかかった。
「息子の嫁が、放射性廃棄物にも劣る性病野郎に犯されるのを……おい、この、お前……ふざけるな!」
言語野が少年期にまで退行した指揮官を、ニーナが「どうどう」と鎮めに掛かる。かえって火に油を注ぐ愚行だが、どういう理屈かクラプトンの血圧は微々と下がっていった。
肩で息をするクラプトンに、ニーナは軽妙に語りかけた。「ご覧になった通り、あの子は自分から容疑者に接触しました。何らかの意図あっての行動と想定するべきです」
「なるほど、素晴らしい。便所をリングにでかい男とタイマン張って、あえなくKO負けってか。よく出来たシナリオだな!」
ニーナが唇を尖らせて応戦した。「失礼ながら、毎夜組み敷かれているのは、あなたのはずですが」
クラプトンは床に膝を突き、咆哮してスツールの座面に突っ伏した。息子夫婦の窮地を打開する建設的な談義を、他ならぬ自分の妻がぶっ壊すので、出口のない迷路に放り込まれた心地を味わっていた。誰の目からも不憫であったが、ねじくれた痴話喧嘩に業務を阻害されている情報部員こそ最たる被害者である点を忘れてはならない。
ややあって、悶絶から立ち直ったクラプトンが頭をもたげた。座面に接していた額が赤く、よく見ると血が少し滲んでいた。
「CTRは、まだ位置に就かないのか?」一縷の望みに掛けて、情報部員の吉報を待った。
「たった今、目標に向かったところです」
「ちくしょう!」
スツールに拳を叩きつける目頭に、いつしか小さなきらめきが生じていた。六十台を控えた哀れな少佐は拳を震わせ、無為の極みに達した夫婦喧嘩に幕を下ろした。
「こうなったのはニーナ、お前があの子にしょうもない宴会芸を吹き込んだのが原因だ。てめえで蒔いた種を刈ってこい。俺の家族を脅かすくそ共を殺してこい!」
「えー」とニーナが悪態をつくのに先んじて、クラプトンは指揮車輌のドアを目いっぱい開け放ち、目標の店舗を指差した。
「さっさと行け!」
クラプトンの鬼気迫る形相にニーナは苦笑し、懐から異様にすっきりした外観の拳銃を抜くと、いくらか弱まりつつある雨風に身を投じた。戯れの過ぎる腹心が地面を踏むのを待たず、クラプトンはドアを力任せに閉めた。それから僅かに残る気力で、ヘッドセットのマイクに弱気な声を吹き込んだ。
「全部署へ通達。うちの"秘書"が目標へ向かった。例によって、いないものと思え」
各方面からの応答がなされると、クラプトンは肩を落とし、重々しいため息をついた。スツールに戻ろうとして振り返ると、情報部員四人が自分に視線を向けて唖然としていたので、業務に戻るよう手振りで促した。
情報部員の関心はその実、クラプトン夫妻の痴態に呆れていたのではなく、ニーナの玩具めいた銃へ寄せられていた。二二口径のルガーMk.Ⅲは、正規軍の特殊部隊が携行する類の武器ではない。滑らかな円筒形の銃身に減音器《サプレッサー》が内蔵されたこの銃の用途は、地球上にひとつしかない。すなわち、至近距離からの暗殺である。
ニーナ・クラプトンがいつからSASにいて、何を主要な業務としているのか。そもそも英軍籍があるのか。どうとち狂えば、あんなちゃらんぽらんに懸想するのか。全てを知る者はリチャード・クラプトンただひとりである。誰もこのロシア女の経歴を知らないので、「リチャードを左遷すると、ニーナの報復を受ける」「ロシアの諜報機関から亡命してきた工作員」「男の精気を糧に数世紀を渡り歩く経国の怪物」といった与太話も、ヘリフォードの酒の肴となって久しかった。
たかが尾ひれのついた噂だった。だが、童話や聖書が道徳観を根付かせるように、子供じみた警句を軽んずれば災いを被る。この日を境に、情報部員四人はニーナ・クラプトンという女を話題に出すことはなくなった。