奴隷蛮行――そのメイド、特殊につき。   作:紙谷米英

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奴隷蛮行【12】

【12】

 

 誘拐犯のひとり、ダウダルにショットガンで背中を小突かれながら、ブリジットは店のトイレへの道程を辿った。

 道すがらには、ふたつの不確定要素が待ち構えていた。手首に巻き付けた麻縄が何かの拍子に床へ落ちれば、その時点で計画はご破算となる。誘拐犯が協力者の存在に思い至れば、リタに危害が及ぶかもしれない。

 また、性根の腐った誘拐犯が足首の拘束をそのままに移動を命じたので、ブリジットはつま先で跳ねての前進を強いられた。何度も床を蹴る内に、次こそ縄が解けるのではと肝を冷やした。揺れを抑えてゆっくり移動しようものなら、後ろからどつかれるので、一心不乱に無様な跳躍に打ち込んだ。サメのひしめく海を真下に板を歩かされる心地を、ブリジットは来たる反撃の燃料に加えた。

 十メートルの直線を踏破したところで、第二の関門にぶち当たった。誘拐犯のボスを気取るカヴィルが会計カウンターを飛び出し、奴隷をトイレに連れ込もうとするダウダルに詰め寄った。籠城から二時間近く経過してなお、カヴィルは奴隷の拉致を諦めていなかった。既に警察の調べがついた奴隷を売る宛てはさておき、商品の味見を看過するつもりはなかった。

 金切り声を発するカヴィルに、ダウダルは涼しい顔で肩をすくめた。水平二連のショットガンを床に放ると、挑発的な笑みを浮かべて、カヴィルの真正面に立った。

 二メートル近い巨躯に見下ろされたカヴィルが、ショットガンを掲げて威勢を張ろうとした。「何だよ、文句あんのか」誰の目からも、及び腰になっているのは明らかだった。

「おい、うすのろ。聞いてんのか」

 不意に、ダウダルがにっこりと笑った。

 実力に差がありすぎた。ダウダルは血管の浮いた両腕でカヴィルの髪と左肩を鷲掴み、自分の方へ思い切り引き寄せた。骨と肉が衝突する、いやな音が響く。こめかみに頭突きを叩き込まれたカヴィルは、受け身の用意もなしに、背中から床に崩れ落ちた。

 頭を庇って呻くカヴィルの頭上に、大男の影が落ちる。「ご自慢の頭脳はどうした、ボス?」噛んでいたガムをカヴィルの頬に吐き捨てると、ダウダルは床のショットガンを拾い、街で一番不潔なホテルへの最終工程を奴隷に進ませた。

 遂にトイレのドアが目前に迫ると、後ろからダウダルの腕が伸びてきて、ノブを回した。外開きのドアが開くと同時に中へ押し込まれたので、転ばないようにトイレの中程までホッピング運動しなければならなかった。汚い床に口づけるのも屈辱だが、袖口に隠したナイフを見つけられる訳にはいかない。

 背後で、木製のドアが閉じた。

「ちょっと待っててな」

 トイレに入るなり、首筋を掴まれて便器に跪かされるのを覚悟していたので、その言葉はかなり意外だった。

 ダウダルはショットガンを洗面台に置くと、薄気味悪いラップを口ずさみ、新しいとガムを噛み始めた。数回噛んでから、今度はコカインの粉末を口中へ流し込んだ。コカインをガムに練り込みながら両手の指を鳴らし、全身を海藻のようにくねらせた。どうやら儀式の一種で、身も心もラリパッパの旋律に浴しているらしい。

 ダウダルが独りで盛り上がっているのを幸いと、ブリジットはその場で得られる情報に神経を研ぎ澄ませた

 トイレは三メートル四方の空間で、ドアを抜けて左手に洗面台、その奥の壁に沿って、小便用の溝が掘られている。右手に個室ふたつが並び、手前側に便器があった。奥の個室はドアが閉じていたものの、十中八九は用具入れだろうと当たりをつけた。

 奥の壁は外に面しており、天井近くで小さな換気扇が回っている。その隣の採光窓は縦幅が狭く、脱出経路には使えない。元より、そのつもりもないが。

 トイレに入った瞬間から、ブリジットは目当ての設備を見つけていた。便器の直上に、天井裏へ通じるハッチがあった。店内はどこもそうだが、積年の汚れで黄ばんでいる辺り、ずっと使われていないようだった。

「お待たせ、お嬢ちゃん」

 ヤク漬け精神統一を終えたダウダルが、ブリジットの両肩に手を置いた。耳のすぐ後ろから、廃墟然としたトイレが可愛く思えるほどの口臭が漂ってくる。

 ダウダルはブリジットを個室に押しやって跪かせると、蓋の開いた便座に頭を垂れさせた。顔の数十センチ先で、流れなかった紙がふよふよ浮いている。

 せめて閉めてー!

 心の叫びが通じるはずもない。偽装とはいえ、ブリジットは便意を理由にダウダルを呼び止めたのだ。臭いダンスフロアで、ドラッグフィーバーを見せられるためではない。

「おっといけねえ」

 ろくでもないことを思いついたのだろうと、ブリジットは聴覚だけを頼りに警戒を強めた。金属のこすれる音が聞こえると、思いがけない感覚が足首に訪れた。

 ダウダルのナイフが、ブリジットの足のいましめを切除した。

「俺様はな、自分で締まりを調節したいのよ」

 あ、左様ですか。

 最低発言を受けてのため息に、眼前の水面が揺らいだ。

 ――でも、これも僥倖。

 ダウダルの手が、ジーンズのベルトに掛けられる。

 この数秒間に、ダウダルはふたつの過ちを重ねていた。ブリジットの足を自由にしたのは言わずもがな、使用人の服飾事情に無関心なのが、運の尽きであった。うら若い性奴隷を毒牙に掛ける前に、そいつがコンバットブーツを履いているかを確認すべきだというのに。

 するり。ダウダルの見ている前で、奴隷のいましめが解けた。

 ブリジットは両腕を前に振り抜き、便座を支点に勢い足を振り上げ前転した。ジーンズを下ろそうと前屈みになったダウダルの顎をブーツの底がひと撫でし、幾本もの硬く鋭い山々が皮膚を切り裂く。状況に追いつけずにいるダウダル倒立姿勢で逆さまに見据えながら、ブリジットはなおも前転運動を続け、両足で奥の壁を蹴った。

 遅れてやってきた痛みと怒りでダウダルが腕を振りかざした先に、くそ奴隷の姿はなかった。狭い個室の中で呆気に取られる間もなく、ダウダルの視界にくすんだ緑色の放物線が降りてきた。

 直後、顎の下に激烈な力が加わり、ダウダルの両脚は地面から離れた。海老反りになって四肢をばたつかせるダウダルの巨躯を、ブリジットがその背に負っていた。左手に真鍮の懐中時計、右手にはオリーブ色の紐が巻き付けられている。

 ブリジットは全身の筋肉をばねにダウダルの頭上を跳び越し、着地と同時に懐中時計の紐を首に掛けていた。単なる紐ではない。内部に複数の芯をより合わせたパラシュート・コード二本が、ダウダルの頚部深くに食い込んでいた。

 パラコードが掌に噛みつく痛みに耐えつつ、ブリジットは懐中時計の蓋を開いた。一四二一時を示す二本の針ではなく、最も働き者の秒針の動きを見守った。

 三……

 頸動脈が閉塞すると、脳への酸素供給が滞り、結果的に窒息する。小難しいメカニズムを知らずとも、動物の本能はその重大性を憶えている。憶えているだけなので、特に助けてはくれない。

 頸静脈が閉塞すると、血液の帰り道がなくなり、血液が頭に溜まり続ける。行き場のない血液で顔が赤く染まり、毛細血管が破裂する。 ダウダルは猛り狂って、窮地を脱しようともがいた。だが、一本で二五〇キログラムを支える強度のパラコードを相手に、火事場の馬鹿の勝利はあり得ない。

 二……

 首吊り状態から逃れようと激しく暴れるほど、血中の酸素は加速度的に消費される。襲撃者にナイフを突き立てれば助かるかもしれないが、肝心の武器は、今にも脱げそうなジーンズにあった。

 一……

 薄れゆく視界の中で、ダウダルは叫んだ。声が出た気がした。

 ……ゼロ。

 最後の酸素でヒキガエルめいた鳴き声を絞り出すと、ダウダルの全身から力が抜け落ち、意識を失った。

 ブリジットは息も切れ切れに、ダウダルの身体を床に放った。力と力のぶつかり合いを経て消耗していたが、休んではいられない。脳への酸素供給が再開すれば、足下の男はすぐに目を覚ますと分かっていた。

 痛む手で懐中時計からパラコードを抜き取り、便器の脇に落ちた麻縄を使って、自分がやられたのと同じ格好にダウダルを縛り上げた。店の汚さから期待はしていなかったが、用具入れの中身は存外に充実していた。雑巾を適度な大きさに裁断して丸め、ダウダルの口に押し込み、ダクトテープで蓋をした。拘束に不足があっては困るので、ミイラを作る要領でダクトテープを全身に巻き付けた。

 ブリジットは今いちど懐中時計を開いた。ダウダルが意識を失ってから、既に二分が経っていた。統計では、四十秒もあれば覚醒するはずだった。

 ブリジットが首絞めの標的にダウダルを選んだのは、五人の中で首の筋肉が最も発達していたからであった。他の者では勢い余って首が折れたり、喉が潰れたり、そもそもトイレに連れ込むに至らない可能性があった。ゆえに頑健そうなダウダルが栄えある初の獲物に選ばれたのだが、ここに来てブリジットは計画に綻びに焦り始めた。

 二一グラムが……!

 首筋に指を当てて脈と魂を取ろうとしたその時、ダウダルの目蓋がゆっくりと開いた。何の感動もなかったが、くず殺しの咎を負わずに済んだので、ブリジットは胸を撫で下ろした。

 ダウダルは意識を取り戻すなり暴れたが、凄まじい量のダクトテープに押さえ込まれて、蛆虫の真似が関の山だった。とはいえ、こうも元気いっぱいでいられると、計画に支障をきたす恐れがあった。ドアノブにモップをつかえさせてはいるものの、他の誘拐犯には可能な限り長く、便所情事が続いていると思わせておきたかった。

「大人しくなさらないと、ご自分の唾液で窒息しますよ」

 でかい子供は態度をなお硬化させたので、ブリジットもむっとなって強硬手段を取った。ぷりぷりしながら換気扇を止め、栓をした洗面台をクレンザーで満たし、蓋を外したトイレ用洗剤にナイロンのロープを結びつけた。ロープのもう一端をダウダルの身体にテープで留め、仕上げに洗面台の縁にトイレ用洗剤を置いた。

「混ぜるな危険。外窒息と内窒息を一日に味わいたいなら、どうぞご自由に」

 そこまでしてようやく人並みに静かになったのを見届けると、ブリジットはダウダルの目と耳をテープで塞いだ。、間違いがあっても困るので換気扇を再稼働させると、ふと違和感を覚えた。

 異変に気付くのに、時間は掛からなかった。トイレに入った時に閉じていた採光窓が開け放たれていた。確認すべきかブリジットが迷っていると、外から何かが投げ込まれた。危険信号が赤々と点灯し、ブリジットは咄嗟にダウダルを盾にして床に伏せた。ところが十秒経っても何も起きないので、おずおずと身を起こし、床に落ちた物体に近づいた。

 難燃性繊維のグローブひと組がそこにあった。ほつれは見られず、新品に感じられた。警戒が不思議に変わると、外の何者かが再び物資を放り込んだ。今度はネオプレーン素材の関節保護パッドで、やはり新品だった。最後にクライミング用のロープと顔全体を覆う防塵マスクが投げ寄越されると、小さなメモが添えられているのに気付いた。

 危険を冒す者が勝利する。

 調教施設にいた頃から幾度となく聞いたSASのモットーに、上品な色合いのキスマークが施されていた。こんなことをする人物を、ブリジットはひとりしか知らない。

「恩に着ます、先輩」

 ブリジットは棚ぼたの差し入れを身に着けると、採光窓に向けて頭を下げ、無欠の使用人の職務に戻った。箒の柄で天井ハッチの開閉スイッチをつつくと、綿埃と一緒に粗末な鉄梯子が下りてきた。ハッチの奥は深い闇に包まれており、照明があるようには見えなかった。

 ブリジットはスカートを軽く翻すと、右脚に装備した自作のホルスターから、やっとで出番の訪れた相棒を抜いた。愛する主人とほぼお揃いの、シグ・ザウアーP229。スライドを僅かに引いて初弾が込められているのを確かめると、銃身の下に装着したライトを点けた。

 トイレでの出来事は、ブリジットにとって前哨線でしかなかった。確たる足取りで鉄梯子を登り、ハッチの縁からトイレのドアを見返した。板一枚を隔てた先のろくでなし共へ向けて、親指で首を切った。

 お仕置きの時間ですよ。

 鉄梯子とハッチを元に戻し、ブリジットは天井裏の闇を突き進んだ。

 

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