【13】
リチャード・クラプトンは三回分の胃薬の錠剤を口へ放り込むと、ダブルのスコッチで一気に飲み下した。勤務中どころか人質救出作戦のまっただ中であったが、指揮車輌に彼を糾弾する者はいなかった。
ショットグラスから溢れる寸前までスコッチを注ぎ、クラプトンは重い口で切り出した。「弁明くらいは訊いてやろう。おめおめと手ぶらで戻ってきた理由を」
指揮机に肘を突くクラプトンの真正面で、ニーナはトレンチコートに付いた雨粒を拭っていた。
「ブリジットの操の無事は確認されました。喫緊の危険が去った以上、私が出る幕ではないかと」
空になったショットグラスが、指揮机に叩きつけられる。車内のどこかで、機材の山が崩れた。
「思い違いだったら謝るが、俺はくそを皆殺しにしろと命じたはずだ」
ニーナは臆した風もなく、首を横に振った。「あいにく、遮光窓からの侵入はままなりませんでしたので。この胸が引っ掛かるので」言いながら、両手で豊かな胸を持ち上げてみせると、ほんの一瞬ではあったが、ゆさゆさと音のする方へ、一番若手の情報部員は視線を奪われた。
「こちらをご覧いただけたら、不安も和らぐかと」
ニーナはコートのポケットからタブレット端末取り出し、少し操作してからクラプトンの方へ滑らせた。端末を手に取る気力もなく、クラプトンはしかめ面で液晶画面を睨んだ。
ほの暗い室内を、やや高いアングルから撮影した映像だった。画面の下の方に、何やら蠢く影があった。
「こいつは?」
クラプトンが正体不明の存在を指差すと、淡泊な解答が寄越された。「ブリジットでお楽しみを試みた男です。名はマーカス・ダウダル、生年月日は――」
クラプトンが、つまらない時間稼ぎに割り込む。「そのブリジットはどこだ」対面のニーナに、ずいと身を乗り出した。「どこにいる」
「皆目、検討もつきませんね」ニーナはずっと左上に目線を逃がし、口笛を吹いた。
お話にならないニーナを捨て置き、クラプトンは店舗の見取図を再確認した。ものの数秒で、望んだ情報が得られた。
「天井裏か」
時を同じく、晴れ間の覗き始めた雨空の下に、サヴェジ日用品店へ向けて全力疾走するふたつの人影があった。横並びで走る二人組の間で、大きなダッフルバッグが揺れている。両者ともオリーブドラブのカバーオールに身を包み、メディアを嫌って黒の目出し帽で顔を隠していた。
二人組は店の外壁に到達すると、ダッフルバッグを地面に下ろして荷解きを始めた。ひとりが複数本に分割されたポールを連結する間に、ヘルメットを被る相棒は樹脂製の縄梯子をバッグから引き出した。最上部に設けられた輪に、カラビナを介して金属の鉤を装着した。鉤は二股に分かれており、先端付近がゴムに覆われていた。これは滑り止めだけでなく、鉤が構造物に触れる際の消音材として機能する。
二メートルほどまで延ばされたポールの先に鉤を取り付け、店の屋上に届くまでさらにポールを繋ぎ足した。ポールが壁を叩いて音を立てるへまのないよう、ずっと力を込めていなければならなかった
男ふたりの共同作業の末に、鉤が屋上の縁を捉えた。強く引っ張っても外れないか検めてから、ひとりずつ縄梯子を登った。
五メートルの登攀が、ひどく長く感じられた。不安定な足場で自身と数十キロの装備を引き上げる男ふたりを、いたずらな強風が煽った。荒れ具合からして、建物が定期検査を受けているとは考えられず、鉤が掴むコンクリートが砕ける光景が、ふたりの脳裏をよぎった。
だが、彼らはプロフェッショナルだった。泣き言ひとつ叩かず縄梯子を登り終え、ブーツに屋上を踏ませた。二人の男は困難と恐怖に打ち勝った。たとえ、目出し帽の下でべそをかきそうになっていても。
相棒が縄梯子を巻き上げる後ろで、SAS隊員がひとり、ダニエル・パーソンズはヘルメット下のヘッドセットに語りかけた。
「アルファ、こちらロメオ。目標に到達」
すぐに指揮車輌からの応答があった。〈ロメオ、了解〉
近辺に高い樹木はなく、建物正面を見下ろすと、さっきブリーフィングに訪れた指揮車輌が目と鼻の先にあった。足下にいるのが装備の潤沢なテロリストなら、こんな布陣はしない。屋上から擲弾を一発撃ち込むだけで、指揮官と作戦本部が潰滅してしまう。SASが警察まがいを演じているのを今更ながら滑稽に思い、ダニエルは苦笑した。
縄梯子の回収を終えた相棒と合流して、ダニエルは通気ダクトを辿り、複数ある整備ハッチのひとつを前に屈んだ。一生掛かっても、末端のドラッグディーラーの思考には至れないと理解した。ブリーフィングで確認したダクトの仕様書によれば、ハッチには親指大の南京錠が付属していた。いざ実物に会ってみると、自分の拳より大きい、廃館の門扉に掛けられるべき鉄塊がハッチを守っていた。それも、単純なピンシリンダーではなく、ピッキングが困難なディンプルシリンダー錠だった。ダニエルは潔く、自らの未熟を認めた。ハッチの整備状況も含めて、考えが甘かった。
「……ヒンジと留め金、どっちにする」
ダニエルの傍らのロメオ・ツーこと、パーセルはボルトカッターの準備を済ませていた。
「留め金だな」
他に冗談でも言おうか考えたが、目の前のそれを超えるユーモアはなかった。ボルトカッターの刃がハッチの留め金にあてがわれた瞬間、赤錆にまみれた掛け金が根元からもげた。砦のような錠が屋上を叩き、虚しげな金属音で鳴いた。
売人はカネの使いどころを誤っていた。整備ハッチはダニエルが生まれるずっと前の代物で、一面が錆に覆われていた。疲労と腐食も進みが激しく、板の形を保っているのが奇跡に等しかった。
ハッチを引き剥がしたロメオチームを、数十年分の埃が堆積した通気ダクトが出迎えた。人ひとりが余裕で這っていけるはずだったダクトは、下半分が各種の埃とゴミで埋め尽くされていた。仕様書があてにならないと思い知らされた今や、ダクトが天井裏に通じている保証もなかった。
「ここを通るのか?」病原菌の温床に臆したパーセルが、相棒に意見を求めた。
「いや、その必要はない」
ダニエルはその場にバックパック下ろし、軍用ラップトップと〈ペリカン〉の小型コンテナを取り出した。コンテナを開くと、小さな機械が緩衝材に包まれていた。トンボとクマンバチを合体させた見てくれのそれを、ダニエルはパーセルの手に乗せた。
「偵察ドローン?」
「ビンゴ、それも自作のな。今回の件で試用許可が出たんだ」
ラップトップに専用の操縦ソフトを立ち上げながら、ダニエルの語りは続く。「カメラは日本製だから、画質は期待していいぞ。第二世代だけど、暗視装置も搭載してる。静音性も折り紙付きさ。昼寝してる彼女の真上を何度も飛ばしたからな。コントローラーは――」
肺を絞ったようなため息が、ダニエルの独壇場に水を差した。
ダニエルは真っ先にパーセルを疑ったが、音はすぐ耳元で発せられていた。
〈アルファより全部署へ通達する〉
「中隊長の声だ」
数秒前まで白熱していたダニエルが頷く。
〈すまない、先に謝っておく。作戦目標に変更があった〉
指揮官の煮え切らない声音に、ロメオチームは互いに顔を見合わせた。
「帰投命令か?」
「まさか」
ダニエルはクラプトンの次男坊の事情を知っているので、その父親が息子の恋人を見捨てるはずはないと考えた。
やや間を置いて、クラプトンの命令が下された。
〈現時点より、本作戦は当初からの人質の救出、ならびに敵性人物の排除に加えて――〉
帰投命令ではないと知って、ダニエルは安堵しかけた。
〈――発狂したメイドの捕獲を最大の目標とする〉
中隊長の発言に、通信網の至るところから疑問の声が上がった。クラプトンはそれら全てに聞く耳を持たず、別の指示を送った。
〈ロメオ、CTRは中止だ。早急に店舗へ突入し、天井裏にいるメイドを連れ戻してくれ〉
前触れなく自分に飛んできた剛速球に、ダニエルはたじろいだ。その次にはボウリングの球が控えていた。
〈捕獲対象は拳銃とナイフで武装している。だが、いいか、絶対に傷つけるな!〉
中隊長の泡を食った言動の原因に思い当たり、ダニエルはマイクに唾を飛ばした。
「待って下さい。捕獲対象はその……"あの子"なんですか?」
クラプトンの返事は簡潔だったが、それゆえに明快だった。〈頼んだぞ!〉
通信が一方的に切られ、耳元に静寂が戻ってきた。
日の目を失った機材たちを悄然と見下ろすダニエルに、パーセルが再び尋ねた。
「ここを通るのか?」