奴隷蛮行――そのメイド、特殊につき。   作:紙谷米英

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奴隷蛮行【1-5】

 山盛りの必需品で膨れたトートバッグを両肩に提げ、ブリジットはマークス&スペンサーを後にした。降り注ぐ陽光が方々の窓ガラスに反射しており、昼の折り返しを告げている。奴隷でごった返していた街路は、今は幼稚園児を連れた母親らに占拠されている。狭隘な歩道を、中背の母親と五歳くらいの男児が横並びに歩いていた。にわかに男の子が掛けだし、母親から十メートル離れたところで立ち止まる。子供が無邪気に振り返ると、母親はちゃんとそこで我が子を見守っている。「ちゃんと前を見なさい」。特筆に値しない、市井の一幕。誰の記憶にも残らないその光景を、ブリジットだけは心のスクラップ帳に貼り付けていた。

 ヒトのDNA構造を解明するまでもなく、子供の可愛い盛りと恭順性は共生し得ない。赤子が持つ原石の純粋さは美しい。だが同時に、穢れなき無知は己の破滅をも容易に招く。赤子はこの世に生を受けた時、母親の羊水の加護を失ったその時から、真っ白な存在ではいられなくなる。透き通った心は自らの生存本能と好奇心に弄くられ、無垢な輝きを失う。あたかもそれが人間へ至る通過儀礼である様に、無条件に受け入れるべき行いである様に、社会は「成長」「進化」の一単語で賞美する。子供という未知のハードウェアへ思慮なく突っ込んだアップデートが、いつか種にとって致命的なエラーを引き起こすとも疑わず。かくして、特定の世代を蝕むシステム障害が頻発する。国家は民への損害補償も有耶無耶に、エラーは社会の外から持ち込まれたウィルスに起因しており、ウィルスの感染源は各自の家庭環境にあると、トカゲの尻尾を切り続ける。もう胴体すら残っていないというのに。

 理想の未来をあつらえてやれなかったと悔い、母親は切に願う。もし許されるなら、我が子には何者の束縛もない自然の中で泥まみれになってほしい。幼い内にしか触れ得ぬ、生の感動に身を委ねてほしい。どうか、この子が最期まで健やかであります様に、と。創造主がヒトに与えたもうた時間は、ほんの一瞬でしかない。今日、親が当然に持つ最たる願望は、ヒトの皮を被った狂犬に食い散らかされている。純粋な赤子は外界の澱《よど》んだ悪意に染まり、霊長類の頂から四つ足の獣へ堕落する。母親は下賤な穢れを最小限に留めんと、不本意ながら我が子を透明なリードに繋ぐ。親心を解さぬ子供の糾弾を堪え忍び、尚も自らの辛苦を悟らせまいと神経をすり減らす。それこそ、ひとえに無償の愛のみが為せる業である。

 束の間、ブリジットは件の母子を物思いに眺め、自身の下腹部に触れた。その唇は固く結ばれ、睫毛が伏せられる。齢十九のブリジットには、月経がない。かつては規則的な周期が訪れていたが、十五歳で身を売られた心的外傷が原因で彼女は一切の記憶を失い、子宮の活動が停止した。自分を災厄へ陥れた仇も知れず、強制労働と恥辱に三年間の女盛りをむしり取られたのだ。『揺り籠から墓場まで』と、労働党が社会福祉の充実を謳ったイギリスはその実、少女から市民の階級のみならず、女性さえも奪掠していた。

 大人が大人気(おとなげ)を亡くした現代には、こうした少年少女は英連邦全土に溢れていた。真っ当な親の庇護なく、商品として値札を貼られた奴隷が犯罪に手を染める事例は後を絶たない。そも、奴隷事業そのものに違法が横行しているのだから、この傾向は自明であろう。彼らは童心に吸収した術を、満を持して行使しているに過ぎない。アメリカの大半の州と異なり、英国の法執行機関は自国民へ容易に銃を抜かない。だが、社会の害虫と見なされた奴隷にに対する引き鉄は極めて軽い。

 ブリジットが目蓋を開くと、既に母子の姿は消えていた。小さな吐息を漏らすと、メイドは荷を持ち直して歩き出す。人の生には、ままならない事も多い。それが、世間に奴隷の烙印を押されていては尚更である。少しばかり冷えた彼女の心に、春の陽気が差し込む。母親となる未来が絶望的なのは変えられない。だが今のブリジットには、そこらのくそ餓鬼よっか手を焼かされる主人に、奉仕する責務があった。庶民的な妻としての幸福は得られずとも、彼女はそれ以上の体験を、前向きに見出している。気落ちした面構えを拭い、メイドは人気(ひとけ)のない住宅街を進んだ。全ては、主人にとって完璧な使用人であるが為に。


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