奴隷蛮行――そのメイド、特殊につき。   作:紙谷米英

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奴隷蛮行【2-2】

 ヘリフォードの街外れ、寂れた住宅地から更に隔絶された一角にその物体、もとい平屋は佇んでいる。『サヴェジ日用品店』は、一辺が約二十メートルの正方形に近い敷地面積を有する、灰色のプレハブ建築である。屋上の貯水タンクは元の色が窺えぬまでに腐食しており、廃墟然とした概観が市民の不安を煽る。商業施設を名乗るには汚れすぎた壁が三辺を構成し、窓は殆どない。正面出入口のある一辺はガラス張りであるものの、方角は北向きで、表面は鳥の糞便と羽虫の死骸に塗り潰されている。加えて、隣接する建造物群が元より少ない日照を阻害しており、建材の樹冠が文字通りのコンクリートジャングルを形成していた。

 店内は外見以上に陰気が籠もり、蛍光灯の半数が黄ばんで明滅している。出入口の脇に立つアルバニア人の用心棒はハーフパンツ姿で、警備企業の社員証さえ下げてはいない。リノリウムのタイル床が欠け、商品を陳列する什器の並びは勿論、渡された棚板まで全てが傾き歪んでいる。棚卸はおろか在庫調査さえ疎かな商品が厚く埃を被り、三号前の〈サン〉誌がヌード見開きを破り去られて放置されていた。とどめとばかりに、メーカー不詳のコンドームや「おとなのおもちゃ」が、子供の目線の高さで悪趣味な乱痴気騒ぎを繰り広げていた。この汚濁の数少ない強みといえば、商品価格の異様な安さと、廃番商品がいつまでも取り残されている点くらいである。

 客層には不登校の学生や筋金入りのホームレス、消耗して瞳の濁った奴隷と、内装に見合った不景気が主要素を占めている。内壁に丸いものが点々と見られるのは、打ちっ放しのコンクリートだからではない。未だ完成を見ないこの芸術は、客が噛み捨てたガムでしつらえたのだ。こんな荒廃振りにもかかわらず、店に閉店の兆しは皆無であった。

 給料日前の労働者さえ利用を躊躇うサヴェジ日用品店の経営は、カビによる肺炎のリスクを冒してでも訪れる常連に維持されていた。厚化粧が崩れた起き抜けの娼婦。髪を掻きむしって舌打ちするビジネススーツの男性。パーカーのフードを目深に、呼吸浅く周囲へ警戒を向ける女――。彼らは出入口の対角線上、店舗の最奥に設置されたレジカウンターに列を成し、三々五々の面持ちで会計順を待っていた。レジを打つのはタトゥーとピアスだらけの東欧系の男で、スツールに腰掛けて骨董品のレジスターをのらりくらり操作している。遅々と進まぬ会計に、ビジネスマンが足踏みで催促するも、店員はつゆほども作業の手を早めず大袈裟に欠伸してみせた。その間にも、会計の待機人数は増え続ける。やっとで娼婦の小計額を表示すると、小汚いレジで物言わぬやり取りが交わされた。目の下にくまの浮かぶ娼婦は会計皿に代金を置くと、それと別に紙幣数枚を皿の下に差し入れた。店員は何食わぬ顔で、娼婦へ釣り銭とレシートを差し向ける。娼婦は購入品をカウンターからひったくると、鼻息荒く会計の列から外れていった。その手に、随分と分厚いレシートを握り締めて。

 自分の会計順が来るや、ヒステリー会社員はエナジードリンクの缶をカウンターに叩き付けた。逆の手には、二十ポンド札の束が震えている。店員は男の逼迫した様子をせせら笑い、揉みくちゃの女王を受け取る。タトゥーで真っ青な指先がゆっくりと、不必要に入念に紙幣を勘定する。店員はここでも茶目っ気を発揮し、わざと計数を間違えて客を苛立たせた。残酷なまでに冗長な会計を終えると、印字の欠けたレシートが会社員へ差し向けられる。会社員は店員から紙片をもぎ取るなり、そのまま床へ放る。その指先に、ビニールの小袋がつままれていた。店員が、レシートの下に潜ませていたのだ。額に脂汗を噴出させ、男は充血した目で喘く。「トイレ貸せ、早く!」

 「ご自由に」と店員が手振りするのも見届けず、男は右手の角にある洗面所のドアを勢い跳ね開け、トイレの個室へ消えていった。

 洗面所のドアが半開きで揺れている以外に、サヴェジ日用品点の様子に変化はなかった。男の発狂に関心を抱く者は誰ひとりとおらず、店内にはレジスターの怠惰な電子音が木霊し、物陰で子供が菓子を服の裏に潜ませる。会計順の回ってきたパーカーの女が、懐から抜き出したメモ用紙と紙幣を店員に掴ませる。冷笑を浮かべた店員が膝元から、会社員へ渡したのと別種の小袋をカウンターに置く……。店は今日も、不気味なプログラムに則って(あきない)を続けていた。

 やっぱり、来るんじゃなかったかな――。

 近隣から"えんがちょ"の烙印を押される店の日常風景を目の当たりに、小柄な少女は唇を噛んだ。控えめなフリルに縁取られた両肩が、がっくりと落ちる。土嚢と見紛う買い物袋の重み、それはブリジットにとって苦ではなかった。

 感情の抜け落ちた目が、虚空をさまよう。その右手に、未会計のウィスキーの壜が握られていた。アイリッシュ・ウィスキーがひとつ、『ブラック・ブッシュ』。ブリジットをこの場に招いた、ただひとつの所以である。

 メイドは身近の危険を走査しつつ、会計列へと歩を進める。可憐であり堂々たる足取りは、明るみを厭う落伍者の巣窟にあるまじき威風をまとう。この日、はぐれ者の行き着く奈落に、ブリジットは身を投じた。


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