奴隷蛮行――そのメイド、特殊につき。   作:紙谷米英

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奴隷蛮行【2-3】

 この日、ヘリフォードじゅうの他の人間と同様に、ブリジットもまた不運の渦中にあった。ここに至るまでの一時間、彼女は目標物資の確保に方々の商店を巡り、行く先々で「在庫切れ」の苦渋を舐めた。どの店舗も他のウィスキーの在庫は潤沢であったが、唯一ブラック・ブッシュだけが忽然と雲隠れしていた。現地で"プロブレム"と称される大英帝国とアイルランドの確執は根深いものの、二一世紀においてはほぼ安定しており、経済活動に急な影響が及ぶべくもない。いたずらに禁酒法を再現する神の見えざる手に、ブリジットは無表情の裏で敵意を抱いた。

 数件目に訪れたリカー・ショップでは、徒労を重ねるメイドを気の毒に思った店主が〈グレンリベット〉を格安で譲ってくれた。ブリジットは恐縮しつつ店主の厚意にあずかったものの、嬉しい誤算でさらに重くなった買い物袋を担ぎ直すと、ブラック・ブッシュの探訪に速歩を繰り出した。

 読んで字の如く、アイリッシュ・ウィスキーはアイルランド国内で蒸留されたウィスキーと定義されている。如何に豊かな風味と滑らかな後味を保証されていても、十八年物のスコッチなどでブリジットの目的意識は揺らがなかった。化粧箱入りのスコッチは彼女が帰路に就く切符、ひいては目標未達成の免罪符とはなり得ない。なぜか? それは彼女が"特殊"であるからに他ならない。

 ブリジットが会計列の最後尾に着いた時、列には五人の先客がいた。会計客がテムズ川のヘドロよろしく滞留する様は、ひと昔前の銀行を彷彿させた。その身が奉仕精神の石英原石を磨き抜いた水晶玉たるブリジットには、堕落した店員の心理を解する術がなかった。バーコードスキャナーの緩慢な電子音を意識の外に、彼女は夕餉の段取りを脳内で演習しつつ、退屈しのぎに自らの癖っ毛に触れる。と、爪先が金糸に触れるが早いか、水仕事慣れした指が異変を検知した。ブリジットは唇をひと舐めすると、意識的に落としていた呼吸を復旧させて、すんと鼻を鳴らした。浮遊する諸々の化学物質が、小さな鼻腔に導かれる。色とりどりの菌類が、培地を求めて健康な粘膜に殺到した。――うっ、カビくさぁ……。腐臭に歪んだ鼻筋を整え、ブリジットは確信めいた懸念に出入口へ振り返った。脳裏をよぎった災厄が、既に具現化していた。イングランド南部の上空を、突発した雨雲が領空侵犯していた。不定形の侵略者はたちどころにカワセミの羽根の如き蒼天を塗り潰し、暗影をヘリフォードの街に落とす。ブリジットをおいて店内に晴天の死を感知した者はおらず、店先の用心棒もスマートフォンの画面に釘付けであった。かねてより大衆の関心を惹くのは、超自然的な人工の刺激である。この用心棒が空模様より女優の新着流出ポルノにご執心なのを、果たして誰が責められようか。

 ブリジットは早朝の天気予報を思い出そうと試み、そしてすぐに取り止めた。気象予報士は本日の晴天を確約したが、現に頭上では澱んだ黒雲が育ち続けている。何にせよ、和やかな白昼は過去のものとなった。暗雲が幾重にも波打って要塞を築き、城郭の拡張が急スピードで進む。渦巻く気流に窓ガラスが震え、用心棒がようやく肌色の画面の外に注意を向けた。店内でも次第に気象状況の認知が広まり、ガラス窓に野次馬が群がる。錆びた窓枠が縁取る終末の光景に、吹き溜まりの住人はおしなべて間抜け面を晒した。最早そこに、彼女が歩んだヘリフォードはなかった。日頃の不信心も顧みず神に祈る客から、暴風雨を危ぶむ声が上がる。どれだけの規模なのか。自宅の窓は割れないか。屋根が雨漏りしないか。そもそも無事に帰れるのか。人々は種々雑多の不安、天を仰ぐばかりであった。

 ブリジットは努めて冷静を保ち、エプロンのポケットから山吹色の平滑な円盤を取り出した。メイドの掌中に、真鍮の懐中時計が収まっていた。矜持を重んじる使用人は、時刻確認にスマートフォンなど使わない。音もなく開かれた上蓋の内で、日本製のムーヴメントが一二二五時を指している。蓋の裏に、一対の翼を有する剣が彫刻されている。ブリジットは左目で文字盤を捉えたまま、右目を屋外へ向けた。

 ――まあ、降られても問題はない……かな。

 天候と折り合い付けると、開く時に同じく静かに時計の蓋を閉じ、業務計画の見直しに着手した。どう足掻こうと、じきに雨は降る。主人の帰宅まで時間的余裕は十分にあり、着替えが残る業務に支障をきたす恐れはない。食事の下ごしらえは前日に済ませており、便器は銀食器に進化するまで磨き上げた。欧州では珍しい、トイレと別個の風呂場も、職務を終えた主人の身を清める――ブリジットが素手で撫でこすってやる――ために、不要なまでに浄化した。それもこれも、主人への愛ゆえである。

 自らの忠犬ぶりを誇るあまり緩みかけた頬を、メイドは慌てて取り繕った。己の未熟を戒めていると、先の会社員がハンカチを手に洗面所から出てきた。その佇まいは一転、乱れた頭髪を後ろに撫でつけ、背筋はしゃんと伸び、落ち着いた足取りで人好きのする微笑さえ浮かべる変貌であった。それこそ、ヒトの尋常から外れる程に。口笛を吹き鳴らす男は急変した空合いを気にも留めず、軽やかな身のこなしで店を後にした。夕飯の準備とは別に、ブリジットは早急にこの場を離れる決意を新たにした。


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