奴隷蛮行――そのメイド、特殊につき。   作:紙谷米英

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奴隷迎合【2-4】

 通常、英国人に傘を携行する習慣はない。観光客向けの理由としては、産業革命期に片手が塞がるのを嫌ったという仮説が如何にもそれらしいが、化けの皮の下には「変態だから」と、チープながらもっともな真実が転がっている。そもそも前出の説が通るなら、産業革命以前のイギリスにろくな食文化があった可能性を認める証左となる。無論こんなものは戯言で、産業革命時の使用人急需でフランス人が料理人に招かれるまで、この島民は茹で卵にまさる料理を知らなかった。一説には、十九世紀のジャガイモ飢饉に見舞われたアイルランドへの食糧支援を大英帝国が拒んだのは、自国に秀でる食文化を嫉妬した為とも伝えられている。全く以て、嘘と誠の分別も付かぬ者が英国の土を踏むべきではない。

 閑話休題、雨に限った話ではないが、英国人はその価値観を多民族とまるで異にする。山がちなウェールズ近辺の気象変化は特に頻々で、地元民は霧雨を冷房にビールを飲み、長雨の夜を穏やかに語り合い、土砂降りをBGMに踊り狂う。如何なる降水量においても、彼らは雨天を愉しむ気概を備えている――それが、心のダムの容量を超えるまでは。上空の乱雲が地上に娯楽を提供する思慮を持ち合わせず、自然の猛威に個人のダムが決壊する未来に、人々は畏怖した。そしてそれは、五分前のブリジットが先んじて見越した筋書であった。

 何度目かの時刻確認に開かれた懐中時計が、一二三〇時を刻む。ブリジットが真鍮の殻を閉じると同時、彼女の直前の少年が会計を終えた。両目が落ち窪む、明らかに未成年と見えるその手に、煙草の巻紙が握られていた。――可哀想に。奴隷の憐憫は、自分より上位の存在へ寄せられたものではなかった。会計カウンターの奥、店員のタトゥーまみれ腕が横柄に手招きする。――もし、あんなのが旦那様だったら……。ぞっとしない仮定を否定し、メイドは感情のブレーカーを落として前進し、カウンターの抉れた天板にウィスキーの壜を置いた。天板の端から一歩、物理的な距離が置かれていた。それまでの無気力から一転、稀有な来訪者に気付くと、店員は鼻孔を耳たぶに空けたのと同じくらい拡げて口笛を吹き鳴らす。高域の不快音に、メイドの精神がダメージを受ける。

「おいおい、こいつはぶったまげたな」

 店員は両目を半月に、高級性奴隷を舐め回した。卑俗な値踏みもすげなく、ブリジットは事前に構えた長財布の小銭を手繰る。オイルを塗り込んだ黒革の縁から、既に女王ふたりが双眸を覗かせている。「札入れと別に持つ、硬貨の収納容器。手際に長けた者の他に持つべきではく、さる者は概して要さない」。このメイドの辞書が収録する、小銭入れの記述である。彼女の定めるところの財布とは、品物の売買において貨幣の迅速な提示を使途とする用具であり、間違っても店舗従業員と他の消費者の寿命を浪費させるお荷物ではない。持論の証明に、その手にあるのは色気からっきしの男物である。多感な年頃に性意識を捨てられるのは、己に確固たる自負がある故であった。もっとも彼女の場合、自国の経済構造に人格を歪められたところが大きいのだが。

 店員はスツールを脇へ蹴やり、ねっとりと不敵な笑みでスキャナーを手に取った。LEDの赤いレーザー光がバーコードを読み取り、くすんだ緑色の数列がディスプレイに浮かぶ。

「いかしたチョイスだな。けど女の子にゃきついだろ?」

 ウィスキーをいじくる店員の茶々に、メイドはただ小首を傾げるばかりであった。変態が性奴隷に期待する応答に代えて、第一級の使用人は手振りでその注意を下方へ導く。艶めかしい所作に魅せられた淫欲の目が、白い指が示す先で釘付けになる。位置を元のままの会計皿に、小計額ちょうどの現金が顕現していた。それも、紙幣と硬貨全てが、女王陛下のあらせられる表向きに。

「……すげえな嬢ちゃん。手品師かよ?」

 超常体験に軽いそら恐ろしさを覚えたものの、店員は眼前の性奴隷になお惹かれた。興奮した息遣いに、タンクトップの胸元でサメのタトゥーが躍る。――うわあ、ミスったぁ……。ブリジットは会計からの離脱を急き、その場限りの釈明に労を惜しんだ稚拙を悔いた。最低限の分別も備えぬけだもの相手に、女王の蔑視が通じる道理はなかったのだ。

 店員は奴隷から片時も目を離さず、会計皿の現金をレジの抽斗(ひきだし)へひっくり返す。見開かれた両目が、上玉の獲物を標的にぎらついていた。普段は受け取るレシートの受理を断り、会計を終えたブリジットの左手がウィスキーの壜へ伸びる。指先が琥珀色に触れる寸前、壜がカウンターの奥へ逃げた。見上げると、ウィスキーを奪取した男が悪戯っぽく舌を鳴らしていた。感情の予備電源作動を阻止し、ブリジットは語気穏やかに語り掛けた。

「ごめんなさい、務めがありますので……」

「忘れもんだぜ」

 言うなり男は背後のラックから小箱をもぎ取り、奴隷の前へ放った。カウンターを滑る紙箱に、その筋で世界市場の二五パーセントを占める、〈デュレックス〉のロゴが光る。自らの内で波立つものを殺ぎつつ、ブリジットは『可愛いメイドさん』に徹した。愛と安全を謳う紙箱――極太のコンドームをそっと押し返し、渾身のジョークを紡ぐ。

「あいにく、フランスに知人はおりませんでして……」

「あんだって?」

 相手の知性に合わせたつもりの言葉遊びも、ポーランドの不法移民には受けなかった。――こんなの一生の恥じゃない! ブリジットは無駄知恵を働かせた浅慮に恨み節を奏じ、男が顔の横で揺らすウィスキーを一瞥した。ガラス壜に映る光景に、他の会計客の姿は認められない。ブリジットと店員を除き、店内は天候を無為に見守る野次馬が出入口にたむろするばかりである。会計済のウィスキーを人質に取られ、メイドは窮地に立たされていた。


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