その夜、エ・ランテル近郊の森の中に、十二人の姿があった。
統一性のない、それでいて個性に際立った装備に身を固めた風変わりな集団。
しかし冒険者特有のざっくばらんな気風を一切感じさせないその緩みなき面持ちは、さながら精強な軍隊を思わせる。
漆黒聖典。
遠く南方のスレイン法国より派遣されてきた、法国最強の部隊。全員が英雄級の力を持ち、神の遺産たる武具で身を固めた精鋭中の精鋭部隊。
非合法活動を主とし、スレイン法国の暗部を支える特殊工作部隊群の一つである彼らは歴史の表舞台に名を馳せることこそないが、事実上この世界における人間種最強の集団であることは間違いないだろう。
その漆黒聖典が全十二席中、十一席を投入し活動していることからも何か重要な任務に就いていることが伺えた。独り部隊に属さない老婆も同行しているが、部隊の中心にいることから護衛される地位にある者と思われる。
「……隊長」
「ああ」
先頭を歩いていた黒い長髪の青年に、そのすぐ後ろを歩いていた両手に盾を携える大柄で筋肉質な男が声をかける。
隊長と呼ばれた青年はそれだけで全てを了解したように相槌を打つと、歩みは止めずに顔だけ背後に向けて、後ろを歩いていた仲間の女に目をやった。
先端が人の手のような形状をする奇妙な三角帽子を目深に被り、大凡森の中を歩く格好とは言い難い、露出度の高い下着のような服装の女がその視線に気づくと、眠たげな眼で一度こくりと頷いてみせ、近くにいても聞き取れそうにない声量で何事かを呟き始める。
呟きは短く、終わると同時に女は力でも抜けたのかダラリと両腕を垂らし、倒れこそしないものの足取りは定まらずフラフラと危うげに身体を揺らし始めた。
その様子を見ながら隣を歩いていた女子高生のような格好の女が、すかさず彼女の身体を抱きとめ手を取ると、進む方向を先導し始める。
目を瞑り、手を引かれるままにフラフラと正体なく歩く女の姿は、どこか夢遊病者のようだった。
眠れる歩行者の名は“占星千里”。
ここに今、誰にも見られることのない彼女の孤独な戦いが静かに始まろうとしていた。
* * * *
御主の御業をなぞらへますれば。
深く深く潜り給う。
暗い暗い
そは尊き糸の玉。
お婆ちゃ……御師様の優しい声で滔々と詠まれるその詩歌が私は好きだった。
“占星千里”の名を説いて――私たちは星も見ないし千里も見ない、見るのはいつでも自分の内なのにね――と、悪戯っぽく微笑む笑顔が好きだった。
……ここへ潜ると、思い出すのは御師様のことばかり。
ここは精神の深き領域、夜の
むき出しの心の奥底に
……儚んでいるのだろうか。
……それとも、憎んでいるのだろうか。
……ああ、沈む、沈んでいく。
………………。
“占星千里”の名を私が拝命したとき、御師様は何故悲しげに笑っていたのだろう?
私の中にあの尊き糸の玉が見つかった時、一番喜んでくれたのは御師様だったはずなのに。
己の精神の底に尊き糸の玉を内包し、その深層まで自我を沈める才を持つ者だけが“占星千里”の名を賜る。
一つでも欠けば大成しない、だからそれは素晴らしいことなのだと御師様は言っていた。
………………。
御師様はこの領域のことを夜の海となぞらえた。
御師様の御師様は虚無になぞらえたそう。
私は……そうだな、汚泥になぞらえるのがしっくりくる。
ドロドロと粘質で、沈んでゆくのも一苦労。
まぁ、それは私のオウ・グァ・パゥがまだまだ未熟の証なのだろう。
御師様は底に沈むまでさほど時を掛けなかったのだから。
……ああ、御師様の声が聞こえます。
――愛弟子よ、あなたがこれから学ぶのは己の内にあるもう一つの世界に渡る
――それは精神の深層にある、光の届かぬ闇の世界。
――その深淵までに潜る術を、あなただけに教えましょう。
――これは神様が血によってではなく、術として授けられた奇跡の御業。
――神人のように血の濃さに左右されされない、後世に託して続いてゆく色褪せぬ奇跡です。
覚えています、御師様。
さぁ、もっと深く、深淵の奥底へと。
――あなたは深淵の底に光瞬く糸の玉を見るでしょう。
――幾つもの糸が複雑に絡み合う糸の玉。その糸の一本一本が
――解き解しなさい。完全には不可能でも、糸は解いた長さの分だけ可能性を見せてくれます。
ああ、尊き光が見える。
――でも、これだけは忘れては駄目よ。糸の光は精神を通って私たちの肉体を蝕むわ。
――より良き可能性を探るのは悪いことではない……でも、自分の命を削ってまで糸に触れ続けてはいけないわ。
――願わくは、あなたは私と同じ道を歩まぬよう。
さぁ、
私が、私の仲間たちが、人類がより良き可能性を歩めるよう。
* * * *
夜の帳が下りる森の中に、一風変わった景色が広がる地帯があった。
どのような強大な魔法が行使されたのか、かつて自然豊かなカルスト地形広がっていたはずのその一帯は、今や幾多もの巨大なクレーターが穿たれる戦場跡さながらの痛々しさに包まれており、未だに燻ぶり昇る塵煙が現状に至ってからそう時間が経っていないことを教えてくれる。
その中心で座して動かぬ全身鎧の姿が一つ――クロエルの姿があった。
背中から腰まで一本の芯が入っているような姿勢の良さで正座する彼女であるが、唯一首から上は力なく項垂れている。
二本の線のような見通し穴しか開いていないのっぺりとした
(……何やってるんすか、自分)
悔恨の念を浮かべて深いため息を付くクロエル。
酷い決着だった。怯えるシャルティアに嗜虐心を覗かせたクロエルが、彼女を押し倒して無理やり自分の血を飲ませたのが事の始まりだ。
シャルティアに血を飲ませ「血の狂乱」を発動させるのは間違った戦略ではない。敵の攻撃力を上げることに繋がるが思考能力は逆に低下するので駆け引きが必要な戦況においてはこちらの方が攻略は容易だ。
しかし、する必要があったのかと問われれば否だろう。何故なら、その段階はとうに通り越してしまっていたのだから。
シャルティアは押し倒された時点ですでに戦意を喪失している。
であればこの時決着はすでについていたと言ってよく、後はそのまま斬って捨てるもよし、或いはそこで矛を収めておけば対話の道もあったかもしれない。
しかしクロエルはそうしなかった。絶対的強者と驕っていたシャルティアの傲慢な顔が怯える乙女のそれへと変貌したのを見て、魔が差してしまった故に。
調子に乗って嫌がる彼女を押さえつけ、あまつさえ遊び心から自分の血を飲ませる行為に至ったのである。
……結果、みっともないことになった。
シャルティアの激しい絶叫と痙攣。その反応に驚いていると「血の狂乱」の影響によって本来の醜い姿に戻った彼女に逆に押し倒され、その大口で顔全体を丁寧に
あるプログラマーの気まぐれにより自分の血が過剰なまでに祝福されているとは知る由もないクロエルにとって、それは予想の範疇を大きく超えた展開である。
長く粘質な舌が顔の上を這いずる感覚に軽いパニックを起こしつつも、クロエルは滅茶苦茶に刀を振るってシャルティアを殺害。
しかし安堵も束の間、復活アイテムでも所持していたのか再起動を果たしたシャルティアにまたも押し倒され、今度は口を吸われて半狂乱になりかけた。
二度の殺害によってようやく光の粒子となって消えていくシャルティアを見送ってから、一人その場に残されたクロエルは力なく項垂れ深い深い溜息を吐くことになったのである。
それはなんとも滑稽で、無様な勝利者の姿だった。
(……これは暫く引き摺りそうっすね。あぁ…やだやだ)
目を閉じれば思い出すのはシャルティアの顔ばかり。「瞼の母」ならぬ「瞼のシャルティア」とでもいうのだろうか。まぁ、思い出されるのは上気し長い舌を垂らしながら呼吸も荒く迫ってくるヤツメウナギの顔なのだが。
ついでに言えば眼球に舌を突っ込まれるという元の世界での嫌な記憶が引きずり出されクロエルの気分は最悪だった。昔元カレ兼ストーカーだった男に、デート中目にゴミが入ったと申告した際にその蛮行に及ばれ、少女だった彼女の心に恐怖を刻み付けたものである。
反省の色もなく動機について「愛しているから」とのたまった男の笑顔は今でも忘れられない。
超人の器に一般人の精神が宿ったゆえの油断や傲慢がクロエルにもあったのだろう。
その付けを手痛いしっぺ返しという形で支払うことになったのは自業自得としか言いようがないが、分かっていても割り切れないのがやはり人間というものだった。
自分も悪かった、しかし何でこんな目に合わなくてはならない、という黒い苛立ちがクロエルの胸の内で渦巻き、そんな折に〈手負いし獣の第六感〉が新たな来訪者が近付いてくることを知らせるものだから、いい加減にしてほしい、と更に苛立ちを募らせていく。
来訪者たちの名は漆黒聖典。
クロエルと漆黒聖典の邂逅は、剣呑な空気を孕みながら始まろうとしていた。
* * * *
糸は可能性を見せてくれる。
解き解した長さの分だけ先の可能性を見せてくれる。
でも、解き解すまでもなく、摘まみ上げた糸はするりと抜けた。
それは絡まぬほどに、短い糸たち。
あれも、これも、どれも、とても短く、それ以上
ある糸は剣と血を、ある糸は黒い霧の怪物を、ある糸は引き裂かれた法国の至宝を。
全部終わる、終わってしまう。
糸が見せる可能性の記憶が、私の精神に鮮明に焼き付けられる。私自身が死ぬ光景を、何度も何度も焼き付ける。
赤黒き鋼を纏う、人の形をした鬼が私を殺しに来る。何度も何度も、殺しに来る。
――
ああ、御師様の声が聞こえる。
――避けがたい可能性を見たのなら、視点を変えて見ることです。
――点ではなく面を、あなたではなく誰かを、その先ではなく遥か先を。
覚えています、御師様……そうだ、まだ終わってはいない。まだ、変えられる筈だ。
分かったことは一つだけ、あの怒れる鬼とは戦ってはいけない。
……でも、どうすればいい? どうしたら、あの鬼の怒りを鎮められる?
……可能性を見よう、私のではなくあの鬼の。
交渉の材料になるかは分からないけれど、対話の道を絶やさぬように。
どうか私と、私の仲間たちが救われるように。
解き解そう、あの鬼の糸を。
あの鬼は、私に何を見せるだろうか?
絶望だろうか?
それとも、希望だろうか?
……尊き糸玉の優しい光が、今は
熱く、眩しく、断片的にしか見られない。
――鬼の糾弾――凍てつく蟲の異形の勇姿――砕かれる二つの宝石――涙を流しながら杖を振り上げるダークエルフの少女――死を滲ませる慟哭――
――そして、そして
* * * *
「占星千里!」
ドサリ、と何かが血に落ちる音がしその場にいる全員が振り向くと、占星千里と呼ばれた女が膝をついて鼻先を手の平で覆っている姿が目に入ってきた。
彼女の顔面は蒼白を通り越して土気色に近く、鼻を覆う指の間や目尻からポタポタと血の雫を落としており尋常ではない様子だった。
「だ、大丈夫っすかその子? 病気っすか?」
気の抜けた様子で目の前の集団、漆黒聖典に話しかけたのはクロエル。
突然の事態に虚を突かれたのか、先ほどまでの苛立ちは嘘のように晴れて今は困惑しているようだ。
それはクロエルが接近してくる漆黒聖典を待ち構え、両者が遂に合流した矢先の出来事だった。
「……うぶっ」
「千里! しっかりして、何を見たの!?」
未だ項垂れ苦悶の表情を浮かべる占星千里に対して、彼女の手を引いていた女が心配そうに寄り添い背中を摩る。また、駆け寄ってきた黒いローブに身を包む
漆黒聖典たちの表情は一様に強張り、脂汗をかいていた。
それは誰もが占星千里の能力を知るが故の焦燥だった。彼女の未来視は負担を伴う。
短い先の未来数回見るだけならまだいい。しかし連続で何度も見続けたり遥か先の未来を見ようとしたりした時、その負担は身体の異常という形で現れる。
つまり、占星千里は何度も見続けたのだ。漆黒聖典が回避しなければならない最悪の未来を。
「……すまない、見ての通りだ。あなたにお聞きしたいことがあるのだが、先に彼女を診てもいいだろうか? 時間はそう取らない」
「いや、まぁいいっすけど……なんすか、この状況」
黒い長髪の青年に声を掛けられクロエルも気の抜けたような返事を返す。
占星千里と呼ばれた女に青年が駆けよっていく背中を見送りながら、クロエルは内心で何時でも戦闘に移行できるように気を張りなおす。
連中の大凡のレベルを看破し、格下と判断してなお油断のならない相手だと彼女は警戒しているようだった。
(全員がレベル30台……長髪のおにーさんはレベル75前後ってところっすか? これは、もしかしなくてもクーちゃんの古巣……漆黒聖典って奴っすかね)
以前クレマンティーヌから提供された情報を思い出しながらクロエルは相手の正体に当たりをつける。
プレイヤーにしては中途半端なレベルにある青年を神人と仮定し、それに率いられる集団が軒並みこの世界でいう英雄級のレベルに達しているともなれば推理は容易だ。
最も、それらの推理はクレマンティーヌから提供された事前情報があってのものなので、内心クロエルは彼女に手を合わせるのだった。
ともあれ、相手が漆黒聖典ともなればクロエルが警戒するもむべなるかな。
相手はプレイヤーと関わりの深いスレイン法国の特殊部隊だ。格下とは言えユグドラシル所縁のアイテムを保有している可能性が高く油断はできない。
……というよりも、チャイナドレスを着ている老婆の姿を捉えてからというものクロエルは戦闘になれば一切の油断も容赦もするつもりはなかった。
異世界の衣類のデザインから逸脱し、しかしプレイヤー側から見れば一度は目にしたことがあるだろうその形状のドレスを着た老婆と、それを守護するような漆黒聖典の配置は彼女の想像しうる最悪の予想を想起させていた。
(なんて名前だっけ……まぁいいか。あのチャイナ服って
どうやら名前は憶えていなかったらしいが、老婆が身に纏うチャイナドレスこそが世界級アイテムだと予想するクロエル。ユグドラシルでゲームバランスを崩壊させかねないとまで言われた最上級のアイテムの登場に内心冷や汗が流れる思いだったが、できるならこの場で破壊してしまいたいと考える。
奪取したいとは考えない。手元にあっても前衛職一人の身で使う気にはならないし、なまじ残してしまったことで他のプレイヤーに奪われた時のことを考えれば危険すぎる代物だ。
戦闘になったらどう立ち回るか、クロエルが頭の中で戦略を組み上げていく中、彼女を警戒しながらも占星千里の前に立った長髪の青年――漆黒聖典の隊長は、占星千里と目線を合わせるようにしゃがみ、囁くような声で喋りかけた。
「占星千里、大丈夫か? 教えてくれ、俺たちはどう動けばいい?」
何を見た、とは隊長は問わない。
聞くまでもないし、聞いて隊の士気を下げるような真似はしない。だから、隊長は指示だけを仰ぐ。
占星千里の状態からして何通りもの未来を見続けたのは明白だ。そしてその数だけ最悪の未来が待っているのは想像に難くない。すなわち、この森で接触した
鎧の女が自分たちの探していた
やおら顔をあげた占星千里は、隊長と目を合わせると力なく首を振る。
打つ手がない、一瞬そう解釈し眩暈を起こしそうになった隊長だったが、首を振った彼女の目を見てすぐに勘違いだと悟る。その目に諦めの色はなかったのだから。
「……分かった、俺たちは動かないよ」
隊長がそう答えると彼女は満足そうに頷き、膝をついたまま力なく、四つん這いでクロエルの方へと近づいていった。
傍らにいた女が手を貸そうと近付くも、隊長に止められそれ以上は動かない。
こうして漆黒聖典の面々が見守る中、彼らの命運は占星千里に託されることになった。
* * * *
(セクシー……というかホラーっすね)
巨大な魔女の三角帽子の様なものを被った露出過多の女が四つん這いで擦り寄ってくる光景を眺めながら、クロエルは内心でそんな感想をこぼした。
格好といい容姿といい、本来であれば色気のある光景であったかもしれないがあいにく女のコンディションが悪すぎる。
土気色の肌に血の涙の跡が残る頬、未だ止まらぬ鼻血は垂れ流したままであり、さながらゾンビの行進のようだ。
迫るゾンビと後方で待機する漆黒聖典の両方を視界に入れながら、クロエルは座したまま成り行きをただ黙って見守っていた。
雰囲気から察するに戦闘ではなく対話を望んでいるのが相手側から見て取れたため、それならばとクロエルも今は矛を収めたままでいる。いつでも動けるように刀の鯉口を握りこんだまま。
「……初め、まして。私の名前……は、占星、千里。……未来を、見ます」
漸くクロエルの前まで辿り着いた彼女の自己紹介は、息も絶え絶えのものだった。
「ご丁寧にどうもっす、自分の名前はク……エルスっす。……あの、ほんとに大丈夫っすか?」
クロエルもそれに応え挨拶をする。危うく本名を言いそうになるが忘れてはいなかったようでちゃんと偽名で自己紹介を通すことができた。
「エルスス…様」
「エルス、っす!」
「あ……はい」
なんか前にもこんなやり取りをしたなとクロエルは冒険者ギルドのことを思い出して軽く肩を竦める。口調も偽った方がいいのかもしれない、やらないけども。
そんな益無いことを考えていると占星千里の方も呼吸を整えるためか何度も深呼吸を繰り返してから居住まいを正す。クロエルに合わせてか正座で対面することにしたようだ。
両者が見つめ合ったところで改めて占星千里の方から口を開く。
「エルス様、私たちに敵対の意思はありません。どうか怒りを鎮め、私たちを無事お返しください……もし叶うのであれば、私はエルス様に予言を行う準備があります」
「ふむ」
占星千里の提案にクロエルは顎に手をやってしばし黙考する。
目の前の女はどうやら未来視ができるらしい。遜った態度は恐らく自分たちが敗北する未来でも見たからではあるまいか……だとすれば元々は敵対する意思はあったんだな、とクロエルは結論付ける。
しかし、改めて敵対するのも馬鹿らしいのでクロエルは何も言わなかった。占星千里が行う予言とやらにも興味があったのも確かだ。
「了解っす。敵対する気がないのならこちらからも戦う理由はないっすね。それじゃあ予言の方を聞かせてくれるっすか」
「……感謝を」
よほど安心したのか安堵の溜息とともに肩の力を抜き、次いで少しだけよろけそうになる占星千里。
彼女の見た未来で自分はどれだけ暴れていたのだとクロエルは首を傾げるも、再び居住まいを正した彼女を見て、こちらも聞き手として態勢を整える。
「エルス様、あなたはそう遠くない未来に選択を迫られます。一つは生に、一つは死に繋がる運命の選択を」
「それは……物騒な話っすね」
「その分岐の名は、
ゾワリ、と。
占星千里の全身が泡立ち言いようのない恐怖が駆け巡った。
何があったわけでもない。ただ一瞬、ほんの一瞬だけ目の前の存在に変化が生じたような気がしたのだ。
しかし置物のように鎮座する鎧姿に異常なところは見られない。気のせいだ、と占星千里は脂汗を滲ませながら何度も自分に言い聞かせた。
「……う~ん、約束っすか。なんとも抽象的な予言っすねぇ……詳しくは教えてくれないっすか?」
「ごめんなさい、私が見た未来は断片的だったから。はっきりと分かったのは、あなたが何かの約束を守って……死んだことだけ」
「……そうっすか」
はぁ、と息を吐いてクロエルが立ち上がった。
占星千里も慌てて立ち上がろうとするが正座による足の痺れからか、ひゃあと情けない声をあげて転倒する。
鎧姿で長い時間正座していたクロエルが大丈夫なのはレベル100だからだろうか? 永遠の謎である。
突っ伏す占星千里を一瞥し、後方に待機していた漆黒聖典の面々を見やると、クロエルは漆黒聖典の隊長に向かって声を掛けた。
「話は終わりっす! 自分はこれで移動するっすけどお願いが二つあるっす、一つはそこにある洞窟。中に盗賊の死体と捕虜の生き残りがいると思うっすから捕虜を助けてほしいっす」
「分かった、助けよう! 二つ目は!」
「二つ目は……ちょっと痛い思いをするけど許してほしいっす」
「なっ?!」
言うが早いか、突如軽快な破裂音が闇夜に響きピンクの煙が辺りを包む。
「何だこの煙は?!」
「ゲホッ、ゴホッ。……目が、喉がっ」
「狼狽えるな! 今煙を払――ゴホッ!」
音と煙の正体は「煙玉」という戦闘用アイテム。これをクロエルが地面に叩きつけたのだ。
ユグドラシル産の「煙玉」は調合した素材によって用途、効果が異なる。クロエルが好んで使用した「煙玉」の効果は視界不良に留まらず、刺激性の煙幕によって目や喉にデバフを掛ける類――所謂催涙ガスに近い効果を引き起こす代物だった。
一定時間目も開けられず、一定確率で咳きこんでしまい魔法の詠唱も妨げられるとその効果は非常に嫌らしい。
そんなピンクの煙幕に包まれ皆が悶える中、クロエルだけが平然と走り出す。
デバフの効果を受けていない訳ではない。受けないように事前に目を瞑り、息を止めて走っているだけだ。
クロエルは自分の搦手に対して装備やアイテムによる対策は行わない。一対多を常としてきた彼女にとって、そんな贅沢をする余裕などある筈がなく他の戦略的要素に振るのが当たり前だった。
故に対策は全て自身のプレイヤースキルをもって補う。
今回の対策で言えば目を瞑った状態での戦闘継続がこれに当たる。ユグドラシル時代に養った…というより必死に叩き上げた空間認識能力とスキル〈明鏡止水〉による集中力の底上げ、この二つを持ってクロエルはゲーム時代に披露していた視界に頼らない大立ち回りを異世界で完璧に再現してみせた。
敵の立ち位置や地面の凹凸は把握済み。後は音の情報などで微調整を行いながら目標の位置まで走りこむだけだ。途中待っているだろう障害は峰内をもって叩き伏せる。
「ぐはっ!」
「! 今の声セドランか!? ゴホッ…返事をっ」
「ゲホッ――〈
煙に喉を焼かれたしゃがれ声が詠唱を紡ぎ周囲を衝撃波が駆け巡ると、色濃く漂っていた煙幕も吹き飛ばされて雲散霧消する。
視界が開け、目を充血させ口端から唾液を伝わせた漆黒聖典が見たのは地面に倒れる巨躯の男――セドランと、「
「くそっ、やられた!」
それは誰がついた悪態であったのか。
すでにクロエルの姿はなく、文字通り煙の如く消えた後だった。
おまけ① オウ・グァ・パゥ
~何百年か前の異世界で~
プレイヤー「スキルとか魔法じゃないの。こう自分の中にグァーと入ってズブーッと沈んで……ヨガパワーよ! ヨガパワーを鍛えるの!」
信者「ヨウガーパァー!」
~何百年か後の異世界で~
御師様「今日はオウ・グァ・パゥを学びましょうか。禅や瞑想の近しいもので習得が難しいけど、あなたならきっとやれるわ」
占星千里「はい、御師様!」
SF要素もある作品なのでミュータント的な特殊能力者が紛れててもいいなぁという捏造でした。
おまけ② 無駄骨
クロエル「一度負ける未来が見えた時点で隊長に戦わないようお願いすれば鼻血出さずにすんだんじゃないっすかね」
占星千里「えぇ……」
クロエル「や、機嫌悪いからって流石に問答無用で襲ったりしないっすよ」
別に予言なんかしなくても大丈夫だった模様。ただしカイレは剥かれる。