鋼の鬼   作:rotton_hat

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短いです。


急転

 氷雪の吹雪く場所だった。

 厚い雲が陽の光を遮り、灰色の空からは氷雪が優しく降り注ぎ、時折強風にあおられ荒々しく舞い落ちる。

 

 そんな極寒の大地に二人の男女が佇んでいた。

 一人は人、と形容するべきか。人型ではあるが巨躯の虫の異形で、対面する女を見下ろしていた。

 そして、そんな異形の者を見上げる女もまた人ではないのかもしれない。黒く長い髪を背中に流し白い着物を纏う姿は美しい女のそれであったが、覗く肌は死人のように青白い。

 

 一見すれば捕食者と餌の対比のようにも見えるが、そこに原始的な衝迫は感じられずどちらかといえば理知的な、信頼関係のようなものが感じられた。

 

 異形の下あごが左右に開き女に向けて何事かを語り掛け、女はその言葉を聞き届けると軽く俯き瞼を閉じる。

 その拍子に、目元に溜まっていた涙が一筋の線となって頬を伝い、途中で氷の粒となって地面へ落ちた。

 

 それを見ていた異形は、怪物とは思えぬ優しい手つきで彼女の顎を取ると、その親指を伸ばして薄氷となった涙の軌跡を優しく拭う。

 

 女が気丈に顔を上げ異形の複眼を見つめると、離れていく手を名残惜しんでから恭しく頭を下げる。

 

 異形は何も語らず、背を向け去っていく。

 女は何時までも、何時までも顔を上げることはなかった。

 

 

 * * * * *

 

 

 赤き灼熱の世界に一人の悪魔が佇んでいた。

 この知恵のある悪魔は常に何事かの策謀を巡らせており、その英知を己の主に献上することを誇りとしていた。

 

 悪魔が目下考えていることは、ここ最近のうちに降って湧いた敵の処遇についてだった。

 中々に手ごわい獲物でありそうだが当の悪魔はそれほど憂慮していない。敵が単身であることは判明しているのでどうとでもできる。そう考えている。

 

 油断するつもりはない。要は、詰めどころを見誤なければいいだけの話しだ。

 今は身を隠すだけの物資があるのだろう。しかし個人で賄える量など高が知れている。全てが尽きて顔を出したところをゆっくりと真綿で首を締めるように攻め立ててやればいい。

 

 悪魔の属する勢力には使い捨てにできる駒はいくらでもいるのだ。敵は人間種。食事、睡眠、排泄時などに間断なく嗾けるだけで早々に音を上げることだろう。なんなら、その時点でこちらの拠点の位置情報をそれとなく流してしまってもいい。

 疲弊し、自棄になった愚か者は進んで虎の咢に飛び込むのではあるまいか。こちらの拠点に誘い込めさえすれば殺すのは勿論のこと生け捕りにするもの容易かろう。

 

 敵の生皮はきっと上質だ。それを素材にスクロールでも作ればきっと良いものができるに違いない。

 相手は女なのだから、孕ませてその赤子も使うものいいだろう。

 

 悪魔の思考は、悍ましくも当然の帰結と言える。

 この悪魔にとって己の仲間以外の存在など平等に価値はなかった。その価値のない者が、悪魔が主と認めた者の手を煩わせ、あまつさえ怒らせたともなれば一切の許容も慈悲もかけるはずもない。

 だから、悪魔は悪魔らしく敵に接するのだ。陰湿に、芸術的な感性をもって。

 

 仲間を害する者をこの悪魔は許さない。

 仲間を害し、その主を悲しませ、怒らせる者をこの悪魔は許さない。

 

 だからこそ、仲間の裏切りも決して許さない。

 

 

 ……何時からだろうか。悪魔の心の中に疑心の念が灯って消えなくなったのは?

 己の心に問いかけるまでもない、知恵の悪魔は全てを正確に覚えている。あれは敵の存在が明確になった日のこと、仲間たちと主の座す玉座に集った日のことだ。

 

 その者は集った仲間の中で特に親しき友だった。たまの休日に、二人で酒を交わしたことも少なくはない。

 

 だからこそ、感じ取れる違和感があった。

 武人足りたいと願う彼の者が、敵の出現を前に猛るでもなく沈黙を保っていたことに。

 審議の中で、仲間の吸血鬼の旨を代弁するかのようで、まるでここにはいない誰かを遠回しに弁護していたように感じたことに。

 

 友を信じたいとは思う。

 しかし、一度灯った疑念の炎は今なお悪魔の胸に燻り続けている。

 

『緊急招集。第四、第八階層を除く階層守護者各員、玉座の間に集いなさい』

 

 悪魔の頭の中に突如女の声が響いた。

 それは悪魔の属する地位の統括の職にある女の声だった。声の調子から言って、あまりいい意味での招集ではないなと悪魔は確信する。

 

 得てして良くないときの予感というものは的中するものだ。

 だからと言って、願うことくらいは許してほしいと悪魔は思う。

 

 ――友よ、君はそこに居るのかい?

 

 玉座の間へ向かう悪魔の足取りは重かった。

 

 

 * * * * *

 

 

 頃合いか、とクロエルは思った。

 

(……うん。ツアーさん以外には結局見つかることなく終わったっすね。もう、十分っす)

 

 戦支度を初めてそれなりの日々が過ぎた。

 やれることは全てやり終えた。後はなるようになるだろう。

 

 敵の目を避けるための魔法スクロールにはまだ余裕があるが、いたずらに消耗し無為な時間を過ごすつもりはクロエルには毛頭なかった。

 後は戦うだけだ。その後、死ぬか生き残るかは彼女の奮闘次第だろう。

 

(もしかして、と思ったんすけどねぇ)

 

 何かに少し落胆した様子でクロエルは腰を下ろすと、足を投げ出してだらしなく座る。彼女は現在アゼルリシア山脈を北に降りた山の麓。西にリ・ボウロロール領、東にリ・ブルムラルーシュ領、二つの貴族領に挟まれた中央の平野に腰を落ち着けていた。

 

 過去を振り返りながらクロエルは独り黄昏る。

 シャルティアのある言葉、占星千里の予言から、もしかしたら、と思うことがあった。

 しかし、彼女を見つける者は未だなし。

 

(……もういいっすね)

 

 何にせよ、やることは変わらない。

 追加詠唱は行わずに探知、調査系魔法の妨害効果が消えた時点で彼女は姿を現すつもりだ。後やることと言ったら強制転移魔法や戦闘開始直後の超位魔法対策に魔法反射(カウンター・マジック)系スクロールをすぐ使えるように幾つか準備しておくことくらいだろう。

 

(あっは。すごいドキドキしてるっす)

 

 高揚か……それとも、恐怖だろうか?

 あと十分ほどで妨害の魔法は効力を失う。その時、何が起きるだろう?

 

 見逃してほしいとも思う。しかしそれ以上に、早く決着をつけたいとも思う。

 万が一、相手が慈悲を見せ見逃してくれたとしても、そんなものはクロエルには耐えられない。何時気が変わり、再び牙をむくかもしれない脅威を前にして日々を過ごす――そんな見えない重圧に囚われた日常など真っ平御免だった。

 

 だから、戦おう。相手がどれだけの脅威だったとしても、決して勝てない敵であったとしても。

 

(たとえ死んでも、二度と戦いたくないと思わせれば自分の勝ち)

 

 だから、戦おう。たとえ肢体が捥げようとも、抗う力があるその内は。

 それが本能であるかのように、純粋な虫のように、命潰えるその瞬間まで徹底的に。

 

(……ん?)

 

 ふと、視界の先に変化が生じた。

 それは空間に対する魔法の干渉だった。クロエルが見つめる少し先で、光の粒子が寄り集まり何者かを召喚しようとしている。

 彼女の妨害魔法の効果は継続中、魔法を破られた感触はない。ならば、別の方法でこの座標に転移してきたとしか思えない。

 

 クロエルの胸が、戦とは別の理由で高鳴った。

 期待はしたくない。でも、もしかしたらと思うことがあった。

 

 やがて光の中から現れたのは巨躯の異形だった。

 ライトブルーの外皮に覆われた虫の異形、後ろ脚のみで直立しており、足というよりは腕の役割を果たしている右の前脚、中脚の二つで一本のハルバートの柄を握っている。

 

 それはクロエルも見たことがない異形だった。

 

 それはクロエルが見たこともない異形のはずだった。

 

 しかし――

 

「……コキュートス?」

 

 ――知らぬはずの異形の名を、彼女は確かに口にするのだった。

 

 


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