『魔女の祝福』
とある辺境の国に武勇を尊ぶ騎士がいた。
騎士は妻の懐妊を知ると、産まれてくる我が子に強大な力を求め、密かに呼び寄せた魔女に眠る妻の胎へと祝福を刻ませた。
果たして赤子は望の力を授かり産まれてくるが、生涯を幽閉されて過ごしたという――
――開かれたメッセージウィンドウの最後にそんな文章が綴られていた。
クロエルが初めてユグドラシルの世界に立った時、最初に目にしたのが「おめでとうございます! あなたは魔女の祝福を獲得しました!」というメッセージウィンドウだった。
何だ何だと取り合えずメッセージをスクロールしながら読み進めていくと「魔女の祝福」に関する詳細であったり、それに付随するフレーバーテキストが掲載されていた。要約するとキャラクター作成時に抽選によって授けられる貴重なスキルの一つであるらしく、宝くじに当選したようなものらしい。
効果としては確かに強力の一言に尽きた。
なにせ常時発動型のステータスボーナスである。特にHP、物理攻撃力、素早さの伸びがよく近接戦闘職垂涎のこのスキルには当初クロエルも大いに喜んだ。ユクドラシルの種族は大きく分けて「人間種」、「亜人種」、「異形種」の3つがあり、ざっくり言えば人間種が一番弱く異形種が一番強い。しかし人間種と違い異形種などは職業レベル以外にも種族レベルというものを含めて最大100レベルになるようにレベルを割り振らなくてはならないので一長一短ではある。
クロエルは人間種のダークエルフだ。人間種でありながら魔女の祝福のおかげで異形種並みに高いステータスを誇り、尚且つレベルの全てを職業レベルに割り振れることで戦略の幅も広いときている。これを強力と言わずしてなんと言うのだろう。
…そう、メリットの面だけで言えばそれは確かに破格の性能を持ったスキルだった。
しかし
クロエルはモンスターと戦闘することですぐに魔女の祝福の本領を思い知ることになる。
まず、皮膚が裂けた。
モンスターから攻撃を受けたわけではない、彼女が自分の武器を振った瞬間、背中から右肩に至るまでの皮膚が一直線にベリッと裂けたのである。裂傷のダメージに続けて血も噴き出し出血ダメージが加わった結果、まず負けることのないチュートリアルのモンスターに惨敗を喫する羽目になった。
初の死亡を体験してゲーム開始地点に復活した彼女は、喜び勇んだ矢先の敗北に戸惑いながら、先ほどのダメージは何だと自分の右肩を見やり――現実世界で肌が粟立つのを感じた。
傷跡が、残っている。
どうして、と慌てて患部に支給品の治癒薬を振りかけて、傷跡が綺麗に消えたのを見てほっと安堵の息を吐く。それと同時に、クロエルの中である疑念がムクムクと膨らんでいくのを感じた。先ほどのダメージは魔女の祝福に起因するものなのではないか、と。メッセージテキストには書かれていない効果だったが、メリットとデメリットでゲームのバランスをとる、それがユグドラシルだと事前の情報で彼女は知っていたのだから。
後に何度も検証を行うことで魔女の祝福のデメリット部分が大まかに見えてきた。
まず、戦闘行為に限らず激しい運動をすれば皮膚が裂け、少ないダメージと共に出血ダメージもプラスされる。HPの少ない低レベル帯はこのデメリットに足を引っ張られ何度死亡したのか分からない。裂傷ダメージを受ける部位は身体をどう動かしたかは関係なく完全にランダムに決定するようだった。頭部などが裂けたときは血が目に入って視界を塞ぐなどの副次効果をもたらした。
次に、激しい運動をすることでできたこの裂傷ダメージの傷跡は消えない。敵から受けた傷は治るにも関わらず、こちらの傷は治癒薬を使わない限りは永遠に残ってしまうようだった。放置しておくと傷跡が至る所に広がり最終的にはゾンビの様な姿になってしまうので、これには外装に拘りを持って制作していたクロエルも参ってしまった。
しかも検証を重ねた結果、この傷跡は治療せず残しておいた方がいいことが判明してクロエルを益々悩ませることになる。一度傷跡が残った箇所は皮膚が丈夫にでもなるのか再び裂ける可能性が下がるのだ。新品のきれいな肌で戦っていると次々と裂傷、出血ダメージが重ね掛けされるのでとてもではないが戦いにならない。つまりは、ゾンビのような姿で行動している方が戦闘に支障はない。悩みに悩んだ末、クロエルは涙を呑んで綺麗な外装を捨てることにした。
さて、傷跡を残す方針でプレイしていくとなると今度は治癒薬や治癒魔法を受けられなくなってくる。傷跡が消える行為がNGになったことで自然と回復縛りのプレイスタイルを強いられるようになった。ただし自然治癒に関しては問題ないらしく、回復は自然治癒力を上昇させるアイテムや魔法に限って使うことができたのは救いだった。ちなみに敵対プレイヤー達はそんなクロエルの状態を知った上で治癒薬を彼女に向ってポイポイ投げたり治癒魔法飛ばしたりと嫌がらせ行為に励む。ゾンビ姿から回復させた方がクロエルを攻略しやすいからだ。HPは回復するけど治癒薬や治癒魔法を嫌って逃げ惑うなんちゃってアンデットが誕生した瞬間である。
そんなこんなで紆余曲折もありながら、クロエルは魔女の祝福――彼女の中ではすでに魔女の呪いに改名されていたが――と上手に付き合いながら成長していった。一対多を想定したソロプレイ用のスキルと自然治癒力の上がるスキルを重点的に獲得し、並み居るPKプレイヤーやモンスターを千切っては投げ千切っては投げしていく内にレベルも100に到達、何時しか「狂犬」なんて不名誉な二つ名を頂戴するまでのPKKプレイヤーへと変貌を遂げたのである。
* * * *
(…できればこっちの世界では狂犬呼ばわりされないように振舞いたいっすね)
「んー? どったのエルちゃん」
「ああ、なんでもないっす」
クロエルがクレマンティーヌにゾンビフェイスを晒した後、二人は「永久の桜花」の下に座って情報交換を行っていた。最初こそ堅かったクレマンティーヌの口調が砕けているのはクロエルからの要望であり、今ではエルちゃんと気安く呼ぶようになっていた。クロちゃんではないのはクロエルがクレマンティーヌに着けたあだ名のクーちゃんと若干被るからだ。ちなみにクレマンティーヌの下着はクロエルが提供した紺色のショートパンツに履き替えられている。
先に情報を提示したのはクロエルからだった。
流石に別の世界から転移してきたとは言えないので真実を織り交ぜつつ嘘の背景を作って自己紹介を始めたのだ。「詳しくは言えないっすけど」と前置きしてクロエルは自分がこことは別の大陸の住人であること、魔女の呪いによって生傷が絶えないこと、地面に転がっている二人は自分を殺すために追いかけてきた刺客であること、必死になって逃げまわった末に辿り着いたのでこちらの大陸のことを全く知らないことなどを即興で語ってみせた。詳細は語らなかったがクレマンティーヌはそれで一応の納得をしたらしく、今度はこちらがといった感じでバックパックからこの大陸の地図を取り出し地面に広げると現在地や周辺国の名前や特徴などを挙げっていった。
クロエルは興味深そうにクレマンティーヌの解説を聴きながら地図に書かれた文字を指でなぞる。
「ふむ、やっぱこっちの文字は分んないっすね。言葉は通じるのに不思議っす。って言うかこの森ダークエルフの領地なんすか! 自分が行ったら歓迎されるっすかね?」
「あーエルちゃんってダークエルフなんだっけ。…でもやめといた方がいいかなー。こっちのダークエルフって閉鎖的でよそ者嫌いーって理由で森の奥に引っ込んでる連中ばっかだから。それに、エルちゃんって顔の傷もそうだけど強すぎるからすごく警戒されると思うなー…今もされてるんじゃないかな?」
「哨戒っすか。派手にチャンバラして音出したっすからねぇ…当然自分の知覚範囲外から監視スキルでも使って覗いてそうっすね。ああ、こっちではスキルって言わなかったっすね」
生エルフを拝めないことを残念に思いつつも、クロエルは続けてクレマンティーヌに気になることを質問していく。歴史の事、文化の事、流通貨幣の価値に物価、武技に魔法、強いとされる人物の情報等質問は多岐に渡る。クロエルだけが一方的に質問して情報を得るこの状況は不公平にも見えるが、当のクレマンティーヌは気にしていない様子だった。先に実力差を見せつけたのと下着を提供したのが良かったのかもしれない。
打てば響くように答えを返してくれるクレマンティーヌの知識にクロエルは舌を巻く思いだった。聞けばクレマンティーヌはスレイン法国の特殊部隊に所属していたこともありそれに見合う戦闘能力と教養を身に着けているとのことだった。「戦闘面の自信はさっきエルちゃんに粉々にされちゃったけどねー」とクレマンティーヌは笑う。
「エルちゃんはさー、もうちょっと自分の強さを自覚した方がいいと思うよー?」
そう言われてクロエルは困ったように腕を組む。そう、質問をしていて理解したがどうもこの世界の生物はユグドラシルの世界の生物より格段に弱いらしい。レベルが低い上に現実の世界らしくモンスターは地面からポコポコPOPする訳ではない。数を減らせば再度揃うまで相応の時間が掛かる。よって効率の良いレベル上げなど望むべくもなく、故に人も育たない。
クレマンティーヌ自身が人類の中では最強の一角だと聞いた時にはクロエルも驚いた。冗談で言っているのではなく自分とまともに戦えるのが数えるほどしかいないとその名前を挙げていき、彼女を以てして強いと認めているのは六大神の血を引く先祖返りの神人という存在のみだと締めくくった所でどうやら本当の話らしいとクロエルも信じることにした。
(強いモンスターや人間を定期的に殺す機会がなければ技量はまだしもレベルを上げるなんて夢のまた夢っすか。クーちゃんは実戦豊富そうな特殊部隊出身らしいし…なんか殺しも好きそうだから、それで人類最強になったっすかね)
猫のような愛らしさでニンマリと微笑むクレマンティーヌを見ながらクロエルはブルリと肩を震わせた。一見間延びしたお気楽な口調で喋る彼女だが、会話の節々に狂気が垣間見えるのだ。戦闘に関しての話をしているときは特にそうだ。
(家猫の愛らしさと肉食獣の危険さを組み合わせたハイブリット…クーちゃんはさながらサーバルキャットっすね!)
本人の知らぬ間によく分らない評価を下されるクレマンティーヌだった。なんだろう、レベルが上がればライオンにでも昇格するのだろうか。
「強さのことについては、了解っす。しかし、これからどうするっすかねー。できればクーちゃんに付いていってエ・ランテルまでは同行したいすけど…そこで改めてお礼がしたいっす」
苦しいかな、と内心思いつつもクロエルは駄目元の提案をする。クロエルとしてはクレマンティーヌのことが好きなのだが逆の立場で見れば別だろう。初めての接触からも分かる通りクレマンティーヌはクロエルのことを強者として恐れているし、それを承知の上で彼女を足止めして一方的にこの大陸の情報を引きずり出してもいる。これで旅にまで同行するとなったらクレマンティーヌのストレスは相当のものだろう。だから、エ・ランテルまでの道程を共にしてくれたら暗に報酬を渡すと言い含めて、依頼という体でクロエルはクレマンティーヌを勧誘した。もし引き受けてくれれば本当にいい報酬を渡すつもりだし、断られればすっぱりと諦めるつもりだった。
クレマンティーヌの顔からすっと笑顔が消えてクロエルをじっと見つめた。細められた目は値踏みするかのようで、クロエルは沙汰を言い渡されるのを待つ罪人のような居たたまれなさでその視線に耐える。
「…別にいいよー、うん。エルちゃんのことは興味あるしね。でもでも、エルちゃんが正規のルートで都市に入るのはちょーっと難しいんじゃないかなー」
やがて笑顔になったクレマンティーヌのまさかの快諾にクロエルはホッとするも、続く言葉に確かに、と頭を悩ませる。
まず一つ目はお金の問題。エ・ランテルに限らず都市というものには必ず検問所が設置されており通行許可書ないし高い通行料を支払わなければ都市に入ることはできない。しかしお金に関して言えば流通貨幣こそ持っていないもののユグドラシルの金貨で充分立て替え可能だと思うのでクロエルはそこまで心配していない。
(あ、でもユグドラシルの貨幣って流通させない方がいいんすかね。多分だけどこっち世界の神様って同じプレイヤーの気がするんすよね…下手にそこから存在が知れてマークされるのは面倒くさいっす)
となれば適当なマジックアイテムを担保にしてクレマンティーヌから借金をした方がよさそうだなとクロエルは考え直す。なんというか、クレマンティーヌにおんぶに抱っこの状態がまだ続くと思うとクロエルは彼女に頭が上がらなくなってきた。
さて、二つ目の問題はクロエルの種族とその顔である。リ・エスティーゼ王国は今でこそスレイン法国に見限られているが、昔は仲が良かったと時代もあったと聞く。スレイン法国は人間至上主義のきらいから他種族に対して厳しいお国柄であり、リ・エスティーゼ王国もそれに影響を受けていたとすればダークエルフのクロエルは歓迎されない可能性も出てくるのだ。
検問所の兵士は犯罪者の侵入を未然に防ぐため、通行人の素顔の確認をする義務がある。フルフェイスの兜の仮面部分の開閉だけで顔の確認が取れればいいが、兜を脱ぐ必要があった場合はクロエルの長い耳が晒されて、すぐにダークエルフだと気付かれてしまうだろう。いや、それ以前に傷のない場所を探す方が難しいほどに傷跡だらけのスカーフェイスを見て検問所の兵士は何を思うだろうか。ゾンビだと思われて剣を向けられるかもしれないし、拷問趣味の変態貴族から逃げ出した奴隷のダークエルフと勘違いされて牢に入れられるかもしれない。そんなのはどっちもごめんだとクロエルは思う。
変装しようにもクロエルは
「こっちの大陸にきて早々不法入国は気が引けるので、やっぱり検問所を通って堂々と入国するっすよ。お金については…度々申し訳ないんすけどクーちゃん、何かマジックアイテムを担保にするので貸してほしいっす。種族のことで何か言われるようなら
「ん? エルちゃんって信仰系魔法詠唱者ってわけでもないよね。どうやって傷を治すのさ?」
「どうやってって、ポーション使って治すに決まってるっす」
クロエルは無限の背負い袋から最上級治癒薬を一本取り出すとクレマンティーヌの前で掲げて見せる。治癒薬嫌いのなんちゃってアンデットが何故そんなものを持っているかというと、理由は至極単純で死体が残ったままのマインティス神と龍♂狩りの無限の背負い袋を拝借したからである。ユグドラシルとは違い死体が残れば簡単に身包みを剥ぐことができるので驚くほどの収穫になった。
(死体、結局消えなかったっすね…異世界に転移したからリスポーン地点が消失したってことっすか。これがクランやギルドの拠点ごと転移してたら話は違ったんすかね?)
復活アイテムの在庫はあるので蘇生させることもできたがそれはしなかった。もうゲームではなくなってしまったこの世界で、自分と同等の力を持った敵対プレイヤーを復活させるようなリスクをクロエルは犯さない。古い付き合いでも敵は敵、とクロエルは割り切っていた。
「クーちゃん、このポーションをハンカチかなんかに数滴たらして自分の顔をポンポン叩いてほしいっす。うまくいくか分からないけど多分顔の傷が消えると思うっす」
最上級治癒薬は強力な回復アイテムなので飲んで使用するなど論外だ。飲んだら最後、体中の傷跡が全部消えてゾンビからダークエルフに進化してしまうだろう。いや、元々ダークエルフだけど。
ちなみにクロエルが自分でやらずにクレマンティーヌに頼んだのは、掌に最上級治癒薬が染み込むのを恐れたためだ。手が綺麗になって後々戦闘中にでも皮膚が裂けた日には、血で滑って刀がすっぽ抜けかねない。クロエルはここまで来たらクレマンティーヌにとことん甘えようと半ば開き直っていた。
「これって…神の血? 嘘でしょ?」
「神の血? そんな御大層な人の血液じゃなくてただのポーションっすよ」
「…あのねーエルちゃん」
手渡された最上級治癒薬に目を丸くして驚いていたクレマンティーヌは、矯めつ眇めつ見た後にクロエルの反応を見て呆れた様子で異世界の、この大陸の治癒薬の説明を始めた。
曰く、この大陸に置いて治癒薬の色は青いということ。
曰く、治癒薬は時間と共に劣化するので<
曰く、伝説で語れる治癒薬は神の血を示す、と言い伝えられているということ。
「多分本物じゃないかなー、これ。あんましこっちの人に見せるのはお勧めしないかな?」
「おぉぅ…」
取り出したハンカチに慎重に最上級治癒薬を垂らすクレマンティーヌを見ながらクロエルは懊悩する。消耗品一つとっても現地で問題になりかねないとなると手持ちの品を売買して金策に走るなんてことはとてもじゃないができない。さっさとエ・ランテルに入って常識を身に着け、ついでに職も探さないとまともに生活するのも難しいとクロエルは確信した。
思案している間にクレマンティーヌの準備ができたのか、丸めたハンカチをこちらに向けているに気付きクロエルは慌てて兜を脱ぐと顔を差し出した。
「うんじゃ、いきますよー……すご、これが神の血の力なの?」
ハンカチで叩いた箇所が見る見るうちに再生していく光景にクレマンティーヌは息をのむ。傷跡が急速に消えていく感覚がむず痒いのか、クロエルは眉を顰め口をへの字に曲げながら耐えているが、その顔は最早苦悶するゾンビの顔ではなく美しいダークエルフの女性のものへと変貌していた。見た目は20歳前後。凛と整った褐色の顔立ちは、しかし細く柔らかに下がる目尻と左頬にある涙ボクロのせいか、冷たさよりも柔和な印象を持たせている。髪型は強いウェーブが掛かった跳ねっけのある髪が首の中ほどまで伸びており、色は少し紫がかった白。驚くことに先ほどまでは頭部をも覆っていた傷のせいで殆ど髪が残っていなかったのだが、治癒薬を染み込ませたハンカチを押し付けた結果、時間もかけずに綺麗に生え揃ってしまった。
神の血の効果に声も出ないという感じで、口をパクパクと開け閉めしながらクレマンティーヌはクロエルの本来の顔を凝視する。
(ふふん、美しかろう美しかろう。伊達にキャラメイクに時間とお金をつぎ込んでないっす! ゾンビ顔に慣れちゃってたけど、やっぱこういう反応は嬉しいっすね!)
どや、といった感じでクレマンティーヌに笑顔を返すクロエル。いや、クレマンティーヌが驚いていたのは治癒薬の効果に対してだったのだが。しかしそれを指摘する野暮な人間はここには居ないので誰も不幸にならず幸せなものである。
「いやー顔だけだけど久々の卵肌っす…いつまで持つだろ…あ、ポーションの残りはクーちゃんが使っていいっすよ。自分と違ってクーちゃんは傷跡を残すメリットなんかないですし、あるなら女の子だし消しちゃった方がいいっす」
「へ? ……いいの?」
「いいっす、いいっす」
クロエルの快諾に、普段のお気楽そうな雰囲気が成りを潜め、少し緊張した面持ちのクレマンティーヌがハンカチとは別の手に持つ最上級治療薬を心持強く握りしめた。少し戸惑ったように、やがて何かに思いを馳せているかのように、ゆっくりとクレマンティーヌの顔から表情が抜けてゆき、心ここに在らずといった様子で手に握られた最上級治癒薬を眺めている。
使わないのかな、とクロエルが首を傾げつつ黙って事の成り行きを見守っていると、やおらクレマンティーヌの手が持ち上がり、治癒薬の瓶に口を付けると中にある赤い液体を静かに嚥下し始めた。
(そういえばクーちゃんビギニアーマーだからよく分かるけど目に見えた大きな外傷なんて付いてないんすよね。もしかして必要なかったけど好意を無碍にできずに飲んでるとかそんな感じっすか)
余計なことしたかなとクロエルは少し落ち込んだが、次の瞬間クレマンティーヌの様子を見てギョッとして目を剥いた。クレマンティーヌが自分の臍の下あたりを両手で抑え、静かに涙を流していたからだ。
「どど、どーしたっすかクーちゃん?! お腹痛いっすか! もしかしてポーション劣化してたっすか!? 申し訳ねーっす!」
「……んーん。何でもないよ、エルちゃん」
涙を零しながらお腹をさするクレマンティーヌの表情は、笑顔だ。余計な感情を含まない、クロエルと会ってから初めて見せた、ただただ純粋で、穏やかな笑顔。
意味が分からずあわあわとクロエルが慌てふためく様子を横目に、クレマンティーヌは自分の腹部に視線を落とすと消え入りそうな小さな声でポツリと呟く。
「そ、何でもないよ。ただ、嬉しかっただけ」
その言葉だけは、慌てるクロエルの耳に届くことはなかったけれど。
* * * *
「いやー、ビックリさせちゃった? ごめんねー、もう大丈夫だから」
「…はぁ、詳しくは聞かないっすよ。とりあえず準備はこんなもんっすかね、後はぶっつけ本番でなんとかするとして、先ずはアベ…アベ…丘陵っすか」
「アベリオン丘陵ね。それにしてもいいの? こんないい指輪貰っちゃってさー」
「プレゼントじゃなくて借金の担保なんすけど…まぁ、エ・ランテルに無事辿り着けたら報酬にしても構わないっすよ。勿論お金は別で返すっす」
あれから落ち着いた二人は旅の準備を進めていた。
クロエルは治った顔を改めて兜で覆い、クレマンティーヌは右手の人差し指に新たな黄緑色の指輪をはめている。指輪はクロエルがクレマンティーヌにお金を借りる代わりに渡したもので、装備すれば持久力が上がる効果を持っていた。担保といいながらも実際のところは丘陵越えを見越して役に立つアイテムを手渡したという方が強い。丘陵とあって標高こそ高くはないが、幾つもの小山を上り下りすることを考えれば見た目以上に厳しい道程になるだろう。
天候も良く変わると聞いたのでついでに保温機能のあるローブも貸し出している。ビキニアーマー姿でよくこんな場所を通る気になったものだとクロエルは内心呆れていたが、先の一件以来なぜかクレマンティーヌの警戒心が軟化し自然に振舞うことが多くなったのを見て、余計なことは言わずにおくことにした。
マインティス神、龍♂狩り二人の死体の処理に関してはクレマンティーヌが大いに役立ってくれた。得意だから、という理由で喜々として死体の隠蔽に取り掛かり、戦いの痕跡まできれいさっぱり消してしまったのはさすが元特殊部隊と言ったところか。監視しているだろうダークエルフ達が後々死体を掘り返すのではとクロエルは危惧したがクレマンティーヌ曰く、厄介ごとに進んで手を出すような連中ではないとのことでそこは信じるしかない。
いよいよ出発の準備を終えるとクロエルは「永久の桜花」のそばに寄っていき、その巨大な桜の幹にそっと手を添えた。
(…お別れっすね)
クロエルの頭の中にユグドラシル時代の思い出がさざ波のごとく去来して消えていく。苦しい時も、楽しい時もただそこにあり、彼女の預けた背を黙って支え、癒しの光で包み込んでくれた唯一の存在。自分の帰る場所であり、ささやかな安寧を与えてくれた物言わぬ相棒。
クロエルの目に不意に涙が滲んで視界が霞む。当たり前のようにあり続けた、ゲームのデータにしか過ぎなかった筈のこの大樹が、実際に手で触れ、別れが迫っていると実感すると、こんなにも自分にとって掛け替えのない存在だったのかと気付かされる。
(…やめやめ、湿っぽいのはなしっす。エルフは長寿! お互い時間はいっぱいあるわけだしまた会いにくればいいだけっす。世界を見て、腰を落ち着けたらまた会いに来るっすよ)
兜で顔が隠れていて良かったクロエルは思う。クレマンティーヌからしてみれば異国の木を見て涙を流すなんて異常に見えるだろうから。そのクレマンティーヌはクロエルの隣になって同じように桜の幹に手を触れていた。
「不思議な木だよねー。淡く光ってるしさ、ダークエルフの森にこんな神聖なものがあったなんて知らなかったよ」
自分が持ってきましたとは流石に言えずクロエルはクレマンティーヌに話を合わす。多少の自慢も含めてどうもこの木の光には体を癒す力があるようだと返せばクレマンティーヌが感心して見せるのでクロエルは何だか誇らしい気持ちになった。
「…さて、名残惜しいっすけどそろそろ出発するっすか」
「はーい。んふふ、エルちゃんから貰った指輪とローブがあれば丘陵越えはよゆーだね」
「だからそれはあくまで担保…ええい、持ってけ泥棒っす!」
「いよっ、エルちゃん太っ腹!」
旅立ちか、とクロエルは笑顔のクレマンティーヌを見ながらこれからの事を思う。
自分は、還れるのだろうか。そも、還りたいと思っているのだろうか。
正直、自身の心が分からない。何も始まっていないのだから。ならば、この世界を見て回ればやがて答えは出るのだろうか? リアルで何者でもなかった、ただの有象無象の一人に過ぎない小娘が、全てが異なるこの世界で歩き出すことができるだろうか。
ふと、不安に押しつぶされそうなリアルのクロエルの背中を、ユグドラシルのクロエルがポンッと押してくれた気がした。まるで自分は歩き回りたいぞ、だからお前も覚悟を決めろと叱咤激励しているような気がして、クロエルの心に勇気が湧いてくる。
(そうっす、なるようになるっす。だから、今は楽しむっす!)
こうして二人はエ・ランテルへ向かって歩き出すことになる。
最後に今一度振り返ると「永久の桜花」は風に枝葉を揺らして花弁を舞い散らせていた。それがまるで旅立つ子らに手を振って送り出しているように見え、クロエルは目を細めてから一歩、また一歩と力強く踏み出した。
暖かな光の中から夜の丘陵へと、ユグドラシルから異世界へと巣立つ若鳥を、巨大な桜はいつまでも光を湛え祝福し続けていた。
* * * *
ダーク・エルフ国のモニュメントの一つに「神聖樹」という巨大な大樹がある。
その大樹は傷や病を癒す奇跡の光を常に湛え、桃色の美しい花を絶えることなく咲き誇らせていると云う。
ある日突然に森の中に現れたというその美しい大樹にダークエルフ達は魅入られ、愛し、森の外れから自分たちの国の中心へと植え替えることで国の象徴として崇めるようになった。
「永久の桜花」から「神聖樹」へと名前を変えた大樹は、悠久の時をその国で過ごしダークエルフ達を見守り続けたという。
クレマンティーヌは洋梨の傷が残っていたという設定にしました。
ダークエルフ大勝利。