逆行した進藤ヒカルが今度は悪役(仮)を目指すようです。【完結】 作:A。
●奈瀬明日美side
──プロ試験予選初日。
いよいよプロ試験がスタートする。私はゴクリと唾を飲み込んだ。昨日はなるべくしっかりと睡眠を取れというヒカルの言葉に従って、お風呂にゆっくり入浴して早めにベッドへと潜り込んでいた。
そして当日は緊張をほぐす為に、ヒカルの自宅に早朝からお邪魔して早碁を一局打ったのだ。
というか、本当にこの約三ヶ月間。学校を除きどれだけヒカルの自宅にお邪魔してばっかりだったことか……。時には気を遣ったヒカルのお母さんがお昼ご飯や、夕食をだしてくれたりもして、一緒に食べさせて貰うことも少なくなかった。
時々、あかりちゃんというヒカルの幼馴染からの差し入れもあったが、もうそれは美味しくて感動レベルだ。ヒカルは会わないって連絡したのにとか文句を言っていたが、はっきり言って断るのは勿体無いと思った。
ちょっと、二人が仲良く話しててモヤモヤしたのはここだけの秘密である。
そして、自分の自宅に帰っても碁の勉強勉強だ。その日得たことをひたすら復習し、明日進藤に聞きたいことをまとめるのだ。
そういえば、私のお母さんも相当に恐縮して、お礼の電話や手土産なんかも持たせられたりしたんだよね。だけど、進藤のご両親には迷惑をかけてばっかりで悪かったけど、私からしてみたら本当は泊まり込みで勉強させて欲しいくらいだった。
(この時ばかりは自分が女だってことが悔やまれるよ。男だったら進藤だって気にせずに泊まらせてくれたと思うのにな……って、あ。進藤じゃないんだっけ)
ヒカルにあんなことを言われるなんて思ってもみなかった。まさか名前で呼ばれるなんて……。その代わりに進藤は自分もヒカルでいいと言っていたけど、ビックリしてしまった。やり取りを思い出して少し照れる。
そして、名前を呼び捨てにされた時。ヒカルは身内認定くらいの気持ちかもしれないが、私は違った。──おもいっきり意識してしまったのだ。
(もしかしたら、私はヒカルの事が好きなのかも……!)
考えれば考えるだけ、胸がドキドキしてしまう。
そもそもヒカルが卑怯なのだ。とても口が悪いし、厳しいことしか言わないし、特に対局なんかだと容赦しない。だけど、時折見える優しさが、凄く身にしみるのだ。
なんというギャップ責めなんだと言ってやりたい。
特に今日の朝なんかもそうだ。プロ試験の初日ということがあるせいなのか、ヒカルは励ますように色々と声をかけてくれている。
突然、強引に師匠になって欲しいという有り得ない
なにせ、まず同年代で師匠ってだけで驚きである。幾らヒカルにだってその発想は無かったと思う。なのに、少しでもいいからプロ試験の間に鍛えて欲しいだなんて図々しいにも程があるというものだ。
ヒカルは無責任な奴ではなかった。むしろ、どこまでも真面目にそんな突拍子もない発言に対して考えてくれている。
それに私の土下座を、あんなに真剣になって怒ってまで止めてくれた。
更に、口が悪くて生意気なことばっかり言うくせに即答で申し出を断ったりしなかったのだ。普通、即座に断ると思う。
困った素振りはあったものの、口に出して言わなかったのは私のことを気遣ったに他ならない。
追い詰められていた自分のことを思いやってくれたのだ。
そして、どこまでも誠実に私の言った言葉を受け止めてくれている。適当に返事をすることも適当に相手をすることもできただろうにそれをしなかった。
真剣に思考を巡らせてくれたのだ。師匠という柄じゃないと断言しながらも、心配をして沢山の忠告をしてくれた。
自分に対して期待しないこと。棋力があがる保証もなく、時間の無駄になる可能性だってあること。やめるならいまのうちだということなどだ。
それにヒカルにだってやりとげなくてはいけないことがあるのに──私が時間を割いて邪魔するだけだというのにも関わらず──結局は折れてくれて『今回だけ手助けをしてやるので、それまでに何とかしろ』と聞いた時には本当はどうしようもなくその優しさに泣きたかった。
それに、今回だけ手助けしてやるってことは、一回で合格しろって言っているようなものだ。そのことが、更に私の涙腺を刺激する。
一番驚いたのはあれだけの力量を持っていながら、どこまでも謙虚だったこと。性格と矛盾し過ぎてるんじゃないかと思ったけど、アレは本当だった。
教える側にだって簡単に立てる実力があるのに、そんな考えはなく、自身を未熟だと考えている。本来なら調子に乗って「教えるのなんてチョロイし」とか言い出しそうなイメージだったのに、それをあっさりといとも簡単に裏切られたのだ。
目が語る。まだまだ学ぶべきことが山ほどあると断言していたヒカルは本気でそう考えているということが分かったのだ。
だからこそ、実力だけではなくて、他のところにも学ぶべき点がいくつもあると考えた。私はヒカルに頼んだことをこの上ない正解だと信じている。
このプロ試験に至るまで、やってきたことは決して無駄ではない。むしろ、自分に新しい視点が見えるまでに押し上げてくれたのはヒカルのお陰なのだ。
ヒカルは自分がネット碁で『five』というアカウントを持って対局しているという秘密さえ、私のために共有してくれたのだ。──プロ試験まで時間がないという理由で。
私にも『five』の軽い噂は耳に入っていたのだ。絶対に秘密にしようと誓う。
間近で、何局も何局も斬新で新しい発想の手を見た。自分なんて、永遠に思いつかないんじゃないだろうかっていうのだって幾つもあった。
それを惜しげもなく、解説してくれて一つでも多くを身につけろと教えてくれるヒカルには感謝しかなかった。
だから、その感謝に少しでも報いるためにも、絶対にプロ試験を勝ち抜くと明日美は心から決心をしていたのだ。
そうやって、組み合わせの抽選を行っている最中。膝の上の拳を握り締めて、私は今までの回想をしていた。一回だけギュッと瞼をつむり、ゆっくりと開く。
(大丈夫、落ち着いてる。──…行ける!)
自分が揺らがずに勝てるイメージが不思議と出来ていた。油断もしていない。これなら、落ち着いて打てそうだった。
やや話が
荒削りだけど打つ手に変化がみられている。読みが深くなった。考え方が違う。見えている視点が違う。毎週集まる院生だからこそ、その変化に気づきやすかったのかもしれない。
「どーしたんだよ、奈瀬。随分と調子いいみてーじゃん」
「和谷、ありがとう。けど、本当? 本当にそう思う?」
「ぅわっ、奈瀬。そんなに素直とか気味悪いぜ。どうしちゃったんだよ。普段なら『でしょ!今日は調子良く打てたんだ』くらい、言うじゃねーか」
「ハハハ。奈瀬のモノマネ似てないな」
「ひでーぜ。伊角さん」
「けど、和谷の言うとおりだと思う。普段なら私、そう言ってた」
「奈瀬……?」
訝しげに見てくる和谷に私は真っ直ぐに目を見返して告げた。
「私、目標が出来たの」
「奈瀬、プロ試験じゃないのか?」
伊角くんの言葉に頷きを返す。
「うん、違う。そりゃあ、もちろんプロ試験もだけどさ。それとはちょっと違ってどうしても目指したいものが……ちょっとでも追いかけたい背中があるの。そこまで意地でも頑張るつもり!」
宣言をすると二人は少し驚いた顔をしたが、直ぐに微笑んで頑張れよ!と応援をしてくれた。
「けどさ。奈瀬、ここの打ち方とかアレに似てるよな?」
「アレって?」
和谷の言葉に疑問を口にすると、ポケットから折りたたんだ棋譜を取り出して広げた。
「あの例の碁の問題だよ。これの……こことかかな。この流れからの打ち込みとかちょっと似てる印象受けたんだけど、さては奈瀬。相当この棋譜、勉強したんだろ」
「あー……まァね」
「やっぱり!」
和谷が嬉しそうに納得をみせているものの、実は違う。ホントは、その棋譜の問題を作った本人から直々の手ほどきをうけていますーなんてとても口に出せやしない。
もしも言ったなら、絶対にズルいズルいと大ブーイングを喰らうに決まっている。それも院生中からだ。ちょっとだけ自分はズルいかもしれないと思ったものの、こればっかりは行動した者勝ちである。
自分だけが彼の正体を知っていることに少し優越感を覚えてしまう、私もいた。そして、そのまま話は今回の棋譜の話題に移ったのだった。
ただ、唯一。伊角くんだけは、和谷の言葉に同意をすることもなく、微笑ましそうに私を見ていたことから、もしかするとあの問題の作者──ヒカルに色々教えて貰っていることを察していたのかもしれない。
閑話休題。組み合わせの抽選が終わり、対局者が次々と決まっていく。私の初戦の相手は外来での受験者らしい。お願いしますと頭を下げながら、意識を切り替えた。
碁石をパチリと盤上に指しながらも、気持ちがどんどんと高ぶるのを感じる。
(絶対に、絶対に今回のプロ試験、合格してみせるんだから……!)
そうして見事初戦を勝利した私は、終わってから直ぐに喜々として飛び跳ねながら、ヒカルに携帯で連絡をすることが出来た。その後も調子を落とすことなく、何と三連勝を収め、一ヶ月後のプロ試験本戦へと歩みを進めたのだった。