逆行した進藤ヒカルが今度は悪役(仮)を目指すようです。【完結】 作:A。
それは自宅のリビングでヒカルが珍しく昼食後にテレビを適当にかけながら、ぼーっとしていた時の話だ。あかりが作ると意気込んでいた日で、今日も今日とて家に来て色々と仕込んでいた食材を使って手料理を作っていた。
そして、ちゃっかり明日美も便乗して、食べに来ていたらしく一緒に食事を楽しんでいたのだ。
ソファーに三人仲良く並んで座りながら、食後のお茶──勿論、これもあかりが淹れている──を飲んでいた。ちなみに、真ん中はヒカルが陣取っているので両手に花状態である。
「聞いてよ、ヒカル。前の対局の時、塔矢相手にかなりイイ線まで行ったの! これは次回にでも勝てるに違いないと思う訳」
「ふーん。良かったじゃん」
「でしょ。でさ、最近どうかな? ヒカルの家に通う様になって、だいぶ経ったけど、ヒカルからみて何かない?」
「何かってなんだよ」
「ほ、ほら。何か成長したなーとか打ち回しが上達したなーとか……」
「んー。調子に乗るのは早すぎると思うぜ。今日だって、かなり甘い手とかが多かったしな」
「もー! ちょっとくらい褒めてくれてもいいじゃん」
「褒めるぅ? 明日美はもちっと頑張れよ」
「ちぇ。はーい。わかりましたー」
「心がこもってねーよ。やり直しー」
不貞腐れた様子で返事をする明日美にヒカルは苦笑した。確かに明日美の伸び代はかなりあると言えるだろう。プロ試験に合格してからも、時間を見つけてはコマメにヒカルの自宅に通っては勉強しているだけのことはあるのだ。
熱心にヒカルが指摘したり教えたことを素直に吸収しようと努力をしていることもあり、棋力は伸びたと断言しても全く過言ではない。
逆行前の同時期の明日美を知っていることもあり、比較するとかなり違うと言えるだろう。しかし、ここで褒めたら確実に有頂天になり調子に乗るに違いない。
また、ヒカルとしてもイマイチ素直に褒めるのは照れくさい。つい、考えていることとは裏腹な言葉が口をついて出てしまったのだ。
そんな二人をあかりはクスクスと笑って見ている。明日美はヒカルの言葉が不服らしく頬を膨らませて拗ねてますアピールをしていたのだ。
ヒカルはすかさず膨らませている頬に指を突き刺してやった。柔らかい感触が指に伝わってきて、空気が抜けていく。その様子を見ていて何となしに、今度拗ねたりした時には頬でも引っ張ってやろうかなーなんてことを考える。
「ヒカル。今日のご飯、どうだったかな?」
今度はあかりから声をかけられた。返答を待っている様子なのだが、少し緊張しているらしい。体が固くなっているのが傍から見てよくわかる。
「んー。今日もうまかった」
「本当? 良かったぁ!」
その一言で劇的な変化が現れた。今までの様子から一転して、パアアアッと花が飛んでいそうな雰囲気で満面の笑顔を見せているあかりにヒカルも和むものを感じる。
「あー! もう、本当にヒカルはあかりちゃんに甘いんだから」
「甘いかァ? 単純に事実を言ったまでだろ」
「私にはあんなこと言っといて……」
「じゃあ、あかりのメシが不味かったとでも言う気かよ?」
「そうじゃないけどさァ。私にももう少し優しくしてくれても……」
明日美がそう発言した時だった。あかりが少し食い気味に反応を返した。
「そんなことないよ!」
「え?」
「私は……私は明日美ちゃんが羨ましいもん」
「羨ましい?」
思わずオウム返しで尋ねた明日美にあかりがコクリと頷いてみせた。
「だって、碁の勉強のためだけど、ずっとヒカルと一緒に居られるし……。それに、ヒカルが大事にしている囲碁の世界が分かるっていうのは羨ましいよ。私も囲碁をやっていれば良かった」
「べ、別にそんな……ずっと一緒だなんて……」
明日美が変なところで照れながらも言葉を続ける。
「それに、碁を始めるのに早いも遅いもないよ! せっかくだし、あかりちゃんも始めてみたらどうかな?」
「え……」
あかりが戸惑ったかの様にヒカルの方を見る。
「碁を始めるならそれでも良いと思うけど、俺は教えたりしねぇから」
「「え?」」
二人の声がハモる。そんなに意外な発言だっただろうか? と思いつつもヒカルは言葉を重ねた。
「明日美は特例。元々は弟子にするつもりはなかった。俺は今、誰かに碁を教えるだけの余裕がねぇの。これからが、正念場だからな」
「…………」
「それに……」
「?」
「碁をしなくたって、あかりはあかりだろ。幼馴染っていうことに変わりはねーよ。だから、またメシでも作りに来いよ」
「う、うん!」
あかりは何がそんなに嬉しいのか目を輝かせてしきりに頷いている。その一方で明日美がジトーっとした眼差しをこちらに向けていて、思わずたじろぐ。
「な、なんだよ。何か文句あるのかよ?」
「なーにが、『またメシでも作りに来いよ』なんだか。亭主関白のつもりですかー? あかりちゃんから前に聞いたんだけど、もう来なくていいって言ったことがあったらしいじゃん。ちょっと都合良すぎじゃない?」
「別に。ただ……」
「?」
「何か、最近。かーさんのメシよりも、あかりのメシの方が好みの味なんだよな。うまいし、碁の調子もちょっとあがる気がするんだよ」
「…………」
「………?」
「ぷっ。ヒカルってば、完全にあかりちゃんに餌付けされてるー! 笑えるんだけど!」
「え、餌付け?」
「完璧に胃袋掴まれてんじゃん」
明日美がヒカルを指さしながら爆笑しているのが、非常に腹立たしい。当のあかりはというと顔を真っ赤にしているのが見えたが、今の問題は明日美である。
頭に軽くチョップを入れてみたのだが、益々ニヤニヤされるだけだった。解せない。暫く、明日美のニヤニヤ笑いが収まるのを待つしかないようだ。
そして、漸く笑いが収まった様子の明日美だったものの、今度は急に真顔になっているので、ヒカルは訝しげな顔になった。どうしたのだろうか? そう思うも、どうやら真剣な顔をしてあかりの方を見ている様だ。
「あかりちゃん」
「なに?」
「私、料理は全然出来ないけど、負けないから!」
「! わ、私だって。碁は全然出来ないけど、負けないから!」
「お前ら、俺を挟んで訳わかんない会話すんなよな……」
突然、何やら通じ合う女子の会話は分からない。ヒカルは居心地の悪さを誤魔化す様に出されているお茶を一口含んだ。
そのタイミングだった──……
『アマチュアながら、囲碁の世界で大活躍。棋聖戦を連戦連勝! 未だに快進撃を続けているあの進藤ヒカルさんですが、まさかの感動秘話が明らかになりました。この間の、問題発言から一転。衝撃の事実が明らかに!』
テレビから突如流れてきた言葉に口に含んでいたお茶を吹き出したのだった。おまけに変な場所に入ったらしく苦しい。ゲホゲホとむせながらも、テレビを見る。両隣の二人も驚いた表情で画面に目が釘付けである。
「え? ヒカル、今度はなにをやらかしたの? なに、感動秘話って?」
「いやっ、俺だって知らねーよ。何なんだよ、これ」
「何かヒカルが良い事したってことじゃないの?」
「あかり、何言ってんだよ。んな、感動秘話って程のことなんて……って、あ」
「え、ガチで心当たりあるの?」
「いや……でも……」
確かに前にグッズの売り上げを寄付したことがあるのは確かだ。ただ、あれは下心ありきだ。囲碁を普及させるために、少しでも碁盤があれば触れるきっかけ位にはなるだろうという考えの下の行為でしかない。
それも、匿名だから自分の名前なんて記入はしていなかったので、分かるハズがない。分かりっこないハズなのだが……。
テレビをみると、どうやら別番組の生放送での出来事を改めて放送しているらしい。映像が、ドンドン流れていく度に、ヒカルの顔面が蒼白となるのが分かった。
「え、これ本当にヒカルの話? 本当にグッズの売上寄付してたの?」
「…………」
「寄付するなら、全然私利私欲のためじゃ、ないよね」
「…………」
「あ、このコメンテーター。ヒカルのことボロクソに言ってた癖に、あっさり発言翻してる。サイテー」
「…………」
「これで、ヒカルのことが悪く言われることもないよね。良かった」
「…………」
話しかけられているのはわかっていたが、全く何も頭に入ってこないのが分かる。最悪だ……。ヒカルは思わず頭を抱えた。
こうしてその生放送をきっかけに、世間の反応が一変した。テレビでヒカルを悪く言っていたコメンテーターを始めとして、学校でも刺々しい視線や、ぶつけられる悪口の類もなくなった。
ギャップが素敵だと訳の分からないファンが増え、グッズも、前よりも増して飛ぶように売れているらしい。テレビではしきりに、あの時の映像を使って、『あんなことを言っていたのに、本当は寄付していた優しい少年』だと持ち上げてくるのだ。
また、あの生放送という状況も含めたドラマチックな展開がウケているらしく、飽きずに繰り返し特集が組まれている状況だからたまらない。
前はクレームばかりだった学校や棋院への電話が、再び称賛する内容に変化しているだけではないのだ。この美談をより盛り上げたいとばかりにヒカルへの取材が再び激増した。
以前であるなら、囲碁界を盛り上げるため、発展させる一貫として取材も受けていたのだが、このあまりの状況にヒカルは拒否し続けている。
あれだけ批判しているときは好き勝手して書いておいて、状況が変わったからと好意的に擦り寄ってこられたら心情的に嫌に決まっているからだ。
そもそも、例えいくら嫌だとしても、取材を受けて否定出来れば良いのだが、まさかの専門家まで番組で引っ張ってきて筆跡の鑑定までされてしまったのだから、決定的である。もうヒカルにはどうしようもなかった。
そしてそんな日々が続いた時、ヒカルは思うのだ。
(もう自分ではどうしようもねェし、悪役を無理に目指す必要ってあるのかな……)
◇◆◆◇
ヒカルがいくら悩んでいても棋聖戦のスケジュールは待ってくれない。Bリーグの優勝者倉田厚との対局。悶々と余所事ばかりに気をとられていたら、負けてしまう。
雑念を必死で振り払い、ヒカルは対局へと挑んだ。ひたすら、対局に集中しようと追い込んだこともあり、気が付けば、盤面は終局を迎えていた。
気を抜いた訳ではないものの、無事に一勝を拾えたことにとてつもない安堵を感じる。今まで、目標に向かって前進していたのにも関わらず、それが揺らいでしまったことで、こんなにもメンタルがブレると思わなかったのだ。
無言で盤面を見つめていた倉田がポツリと言葉を零す。
「いい碁だった」
「え……」
「いい碁だったと思う。俺は全力でぶつかった。今回は俺の負けだけど、今度打つときは俺が勝つからな」
「……いや、今度も負けねーし」
「ったく、ホント生意気なやつ。今度、メシでも行こう。進藤、ラーメン奢れよな」
「は? 普通、逆だろ。倉田さんの方が大人なんだから味噌ラーメン奢ってよ」
「何言ってんだよ。グッズで荒稼ぎしてるんだから、少しくらいいだろ」
そう言って倉田はヒカルの頭をぐちゃぐちゃに撫でた。「やめろよ」と言ったものの、むしろ酷くなった。そして、どこかスッキリした顔をしている倉田と裏腹にヒカルの心はぐちゃぐちゃだった。全然笑えない。
そのモヤモヤとした気持ちは自宅に戻ってから爆発した。
「何なんだよ! あの対局は! 腑抜けているにも程があるだろ!」
ベッドに枕を叩きつけながらヒカルは叫んだ。下から母親が「うるさい! ご近所迷惑でしょう」という言葉が聞こえて来たかもしれないが、それどころではなかった。
押し寄せてくるモヤモヤを処理しきれない。衝動のままに、枕を強く投げつけた。
「何より倉田さんに失礼すぎる……全然、碁に集中出来なかった。俺、最低だ……」
それにも関わらず、倉田さんはヒカルの碁を褒めてくれていた。それが無性にやるせなかったのだ。とにかく感情の整理をしたくとも、今は佐為がいない。一人ぼっちなのだ。
(逆行前だって、ずっとどうにか一人でやってこれた。だから、これからも一人でやっていくしかない……)
ベッドの上に座り込みながら、ヒカルは項垂れる。そんな時、不意に部屋にノックの音が聞こえてきた。