逆行した進藤ヒカルが今度は悪役(仮)を目指すようです。【完結】 作:A。
塔矢アキラをメッセンジャーとして進藤ヒカルからもたらされたとある一枚の用紙──そこに記載されている囲碁の問題(本当は棋譜)によって、塔矢門下生達は荒れに荒れていた。
そもそも、以前から『進藤ヒカル』という少年の話題はたまに登場していたのだ。一番最初は名人から伝えられた碁の難問。それを皮切りに発覚した、塔矢名人の息子たる塔矢アキラが同い年の──碁会所で名簿に記載されていることから名前が分かった──子供に負けたという事実。
一連の流れから、アキラが負けた碁について皆で検討することになり、明らかになった事実は大いに周囲を驚かせた。
塔矢アキラは一般の大会には一切出場をしていない。それはアキラが他の子のやる気をなくしてしまう程の実力だと名人が判断してのことだ。
つまりは、それだけ期待をかけているということであり、何より子供にも関わらず、強いという証明でもあった。将来を期待され、いつプロ入りをするのかと望まれてきたのだ。
にも関わらずそんな存在が負けた。それも僅差などというレベルではなく、明確に──それも圧倒的なまでの実力の差というものがあったのだから、塔矢門下の驚き方は相当なものだった。
そして、充分に対局を検討をした後に出した結論として、あの名人から伝えられた碁の難問を所持していたことから、相当なトッププロレベルの実力の師匠が居るに違いないという答えを出したのだった。
ところが、その師匠に該当する人物がプロの中で、棋風から幾ら考えても思い至らないということで更に混乱を招いていたりする。閑話休題。
次いで発覚したのが囲碁のテレビ番組の一件だった。これは芦原弘幸が発見したらしく、大騒ぎしながら研究会の時に話題にされていた。
『あの塔矢アキラを負かした子供が登場していた囲碁の特別番組』『アマチュアの子供なのに桑原本因坊を打ち破る程の実力者』
当初は、塔矢一門といえど嘘まではいかなくとも──芦原が持ってきた話というのが信憑性を疑われる原因の一つになっていたかもしれないが──かなり誇張されている話だと思われていたのだ。
しかし、緒方精次もとある子供が桑原本因坊を負かしたという情報を持って登場したことから場の空気は一変した。
ハッキリ言って、冗談だろうと叫んだ者も居たし嘘だろうと信じない者も多い。普段は静かで落ち着いた空気の中で行われていた研究会だったにも関わらず、至るところで大混乱が発生しており、大騒ぎになってしまった。
そんな中、塔矢親子だけが落ち着き払っていたのだ。騒ぐのに疲れきった面々が、名人とその息子に目を向けると、二人はそれぞれ感想を述べた。
「進藤ヒカル君なら本当に成し遂げても不思議じゃないかな。うん、本当にそれだけ対局した彼は底なしに強かったんだ」
「以前の碁の難問。あれは彼の師匠のものではなく、彼自身が作成したものなのだろう。子供と決して侮れないその実力。……それ程の打ち手なら、遅かれ早かれいずれは我々プロの前に現れることになる」
重々しいその名人の気迫と言葉に皆が、その言葉を胸に刻みつけたのだ。
そして、三度目に彼の名前が登場したのは『ヒカルの碁』というテレビ番組が開始された時だった。流石にこの頃になると、塔矢門下生は彼の名前を完全に覚えていたため、新聞のテレビ欄や、テレビ雑誌から『進藤ヒカル』という名前を見つけて、話題に上っていた。
かといって、その番組は囲碁の初級編や中級編に関する内容だったため、中には見ない人も多かったのだが、実際に視聴していた芦原が「えええっ。見てないんですか? あんなに面白いのにィ? あ。あと、ものっすごく碁の勉強になるんですよ?」と発言。緒方にすかさず「お前はプロだろうが! 逆に教える側だろう」とツッコミを入れられていた。
そして、後日。芦原がビデオテープに録画していたため、それを『進藤ヒカルvs桑原本因坊の対局の解説編』と緒方に見せた所、見事にドハマリ。芦原のドヤ顔に対して、反論できずプルプルする緒方の姿が見られていた様である。
そうして、現在。──実に四度目の『進藤ヒカル』についての話題が登場しようとしていた。
研究会のために集まった面々を見据えながら、塔矢行洋が言葉を告げた。
「今日は皆に、アキラが見て欲しいものがあるそうだ。私も実は何か知らないんだが、何やら重要なことらしい。少しばかり時間を貰えないだろうか?」
その言葉に皆は珍しいと思ったものの、肯定の返事が返ってくる。そして許可が下りたため、アキラが皆の前に置いていた碁盤に座って黒と白の両方の碁筒を手繰り寄せた。その面持ちはとても緊張しているもので、手が微かに震えすらみせている。
その異様な様子に皆が心配そうな顔をしながら碁盤に近寄り、やがて場が静まり返る。──それは正に嵐の前の静けさであった。
無言で石を手にしたアキラが盤面に打ち付けていく。最初は興味本位に覗いていただけの塔矢門下の面々が、急激に変化していく。次第に硬直するのは当たり前。顔を赤くしたり青くしたり、驚愕に目を見開くどころか顎を落とす者まで出始めた。しかし、誰もに共通するのは手に汗を握り、次の一手を見守り始めるということだ。
そして、息を詰めていた時間が漸く終りを見せる頃──アキラが全ての石を置き終わった瞬間。
「白ッ!! 白は一体誰なんですか?!」
「これッ、いつの対局なんですか?」
「嘘だろ……本気の名人が負けるなんて信じられない……」
「馬鹿な。この白……一体何者なんだ……?」
「トッププロでこんな打ち方する人が思いつかないぞ!!」
場は見事に阿鼻叫喚に陥っていた。それぞれが言葉を叫んだり、頭を抱えたりなど多種多様なリアクションを取っている。そんな中、塔矢行洋一人が無言のまま微動だにせず、碁盤の近くに座していた。
そうして、どれほど時間が経過しただろうか。決して長くはないものの、短い時間ではない時が過ぎ、周囲は漸く落ち着きを取り戻した。そして塔矢行洋が口を開く。
「私は……この対局を打ったことはない」
──途端、場が凍りついた。暫く無言が場を支配したものの、我に返ったものが思い思いに言葉を口にする。
「そ、んな馬鹿な」
「え……?」
「は」
「嘘だろ……?」
「ありえん」
出された声はどれも掠れていたり、小声のものばかりだったが、誰しもが動揺して狼狽えていたことは間違いなかった。
「この対局で『黒が再逆転出来る部分がある』」
そんな中、塔矢アキラが皆に言い聞かせる様に敢えてゆっくりとした言葉で語りかける。
「これは僕たち『塔矢門下』への挑戦状。お父さんの力を借りずに解いてみせろというのが、『進藤ヒカル』からの挑戦状なんだ」
しかし、アキラの有無を言わせない迫力はとても子供とは思えないものがあった。立て続けに放たれた言葉の威力はそれだけ凄まじいものがあったのだ。
「これは棋譜じゃない。僕も本当は信じられないけど……作られた問題なんだ」
誰しもが驚き言葉を口に出せない中、名人──塔矢行洋だけが唯一静かに闘志を漲らせていた。
「この際、『進藤ヒカル』──彼が何者かは問うまい。ただ、これほどまでに私を本気で研究してくれたことは、想像を絶するまでの努力があったことだろう。この本気に応えない訳にはいかない。……そうは思わないかね?」
塔矢門下生は誰ひとり口を開かずに無言のままだった。しかし、その目が誰しもが雄弁に物語っている。
──『この挑戦、全力で受けて立つ』と。
塔矢アキラが、最後に答え合わせの時に進藤ヒカルが家に来てくれると付け足したものの、既に各々が考えに耽っており、言葉は届いていない様だった。
ちなみに緒方などは「首を洗って待っているんだな……」などと不穏な言葉を呟いており、芦原をドン引きさせている。
そして、その日は夜遅くまで塔矢邸の明かりが灯り、研究会で活発な意見が飛び交う。
……余談だが、塔矢行洋の手を借りてはいけないということで、微妙に仲間ハズレの名人だけが少し残念そうにしていた。
本来はトモダチの家に遊びに行くのを断っただけの話だったんだぜ、コレ。