逆行した進藤ヒカルが今度は悪役(仮)を目指すようです。【完結】 作:A。
『囲碁さろん』で奈瀬とヒカルは二人で対局をしていた。どちらも真剣な眼差しで碁石を打っていたものの、途中でヒカルの動きがピタリと静止した。
「奈瀬、最近どうしたんだよ?」
「えっ? 何が?」
「……打ち込みが浅い。諦めが早い」
「…………」
「奈瀬らしくないだろ。どうしたんだよ?」
ヒカルはそう問うたものの、理由を良く知っていた。──それは紛うことなき進藤ヒカルの影響だ。
子供というのは純粋で近くにいる人の良くも悪くも影響を受けやすい。もちろん、ヒカルの傍にいる奈瀬も例外ではない。
かなり一緒に居ては囲碁を教えたり、打っているのを見せたり、テレビのアシスタントをやってもらったりしてきた。
そのため、棋力自体は上昇傾向にあるといっても過言ではない。真剣に、熱心にヒカルの一手一手を学ぼうとする姿勢はとても良いものだ。
しかし問題が一つ。ヒカルが強すぎたことだ。
昔の佐為との対局でヒカルが経験したことと同じ現象が起きていた。そう──奈瀬は恐れているのだ。盤上で切り込むヒカルの一手を。
なまじっか、間近でヒカルの対局を見ていたり、奈瀬の棋力が上がってきたことが災いとなっていた。よりヒカルの強さや凄さを目の当たりにして、切っ先を微妙に怯む様になってしまったのだ。
解決の方法は簡単。見極めてギリギリまで踏み込めばいい。しかし、これが難しいのだ。
無言でいるのを察するに、奈瀬にも心当たりがあるらしい。
「…………」
「…………はぁ」
途端にビクリと肩を竦める奈瀬に、ヒカルは一つ提案をした。
「奈瀬、この後も時間ある?」
「え、うん。大丈夫だけど……」
「だったら行くぞ! わりー。今日はこの辺にしとく」
ヒカルは周囲にそう叫ぶと途端にヤジが飛ぶ。
「おー! デートかよ生意気な」
「やるじゃねぇか!」
「ここからは若い者同士で、ってか?」
「ヒューヒュー」
「るせー! デートだよ悪いか?!」
「し、進藤……」
ヒカルが言い返した途端にドッと余計に周囲は盛り上がった。奈瀬は堪らず赤面しており、それの様子を見て益々ヤジが飛ぶ。
ヒカルは舌打ちを一つすると、奈瀬の手を握ってその場を後にした。
◇◆◆◇
「ねぇ、ヒカル。どこに行くの?」
「んーいいトコ」
「えっ」
「行けば分かるって」
そう言いながら、ヒカルは迷いなく奈瀬を誘導するとバスへと乗り込んだ。しかし、不思議なことに迷いがないという割には記憶を探っている動きが目立ち「えーっと確か、次の次がああだから……あそこで降りる筈……」と発言するなど、あやふやな部分があるという矛盾があった。
そのため、奈瀬は呆れるやらどこか不安になるやらで忙しい。それはバス停に到着してからも続く。
「えっと。本屋の角を曲がった先に……たぶんコンビニがあって……そっち方面に曲がった先だったんだよなァ……」
「ねえったら、進藤。そんなんで大丈夫なの?」
「うん。へーきへーき方向はあってるから……お! やっぱ大正解。看板みっけ!」
そう言いながらヒカルが駆け寄った先には『3F 柳』の置き看板。他にも韓国語や碁盤のマークが目に入り、奈瀬は目を見開く。
「進藤が言ってたのって、この碁会所?」
「へへっ。ちょっと普通の碁会所とは一味違うんだぜ」
そう言うとヒカルはカバンからヘアカラースプレーを取り出すと、道端の隅で自分の髪の色を変え始めた。
「これでよしっ」
「本当に説明がない……」
「だってさ、言ったらつまんねーだろ?」
「全く」
こうして支度を終えた二人は連れ立ってビルの階段を上ったのだった。ヒカルが代表してガラス戸と扉を引く。すると、その先には見慣れた碁会所の光景だったものの、雰囲気の違う空間が広がっていたのだ。
この『柳』という碁会所の多くのお客は日本人ではない。客層としては韓国人が多かったのだ。
その光景を見て、なんとなく入って行きにくい奈瀬とは違い、ヒカルはズカズカと気にせず乗り込んでいく。その後ろに心細さから引っ付いた。
「どうぞ、いらっしゃい」
席亭である
「ここって二人で幾ら?」
「日本人の子供が碁会所というのは珍しいですね。金額は……─」
言われた金額をヒカルが二人分支払い──奈瀬は遠慮したもののヒカルが押し切った──対局相手を探し始める。
「ここでは院生ってのは別に明かさなくてもいいから自由に打ってみろよ」
「自由に……」
「そう。だけど、相手は韓国の人が多いから普通の碁会所より皆レベルが高い。気合い入れてかねーと幾ら院生だからって言っても、あっさり負けると思うぜ」
「う……」
「今の奈瀬に不足してるのは経験値。今は院生もあるかもしれねーけど、色んな人と打って自信をつけること!」
「分かった! やってみる」
「おう。その意気」
小声でヒソヒソとやり取りをする。ヒカルはふと、逆行前にここへ来たことを思い出していた。あの時は伊角さんと和谷と共に院生だぞ! と名乗りを上げながら団体戦を碁会所のお客相手に挑んでいたのは良い思い出だ。
懐かしさについ浸りそうな気持ちを抑えて、周囲を見渡すと予想以上に注目をされている様子で二人は少し驚いた。
「ははは。先ほども言いましたが、日本人の子供がこの碁会所に来たものだから、皆気にしているのでしょう」
「ふーん」
「ど、どうしよう」
席亭の柳が気をつかって皆に声を掛けようか提案するのをヒカルが断った。それに対して、どうするのかと目で問うてきたため、ヒカルはウィンクを一つすると、大きく息を吸った。
『こんにちは 皆さん よろしくお願いする こっちの女の子 奈瀬と言う 対局します』
カタコトだったものの立派な韓国語だ。周囲の大人たちは目を見開いて驚きながらも拍手をした。途端に表情も和らぎ、場の空気が暖かいものへと変化をみせる。
「す、すごい。進藤って韓国語ができるんだ……」
「ってもカタコトしか無理。ホントはもっと上達したいんだけど中々」
「ちょうど良いですよ。キミは打たないのなら、他の人に韓国語を習えば良い」
「あ、なるほど! それ、良い考えじゃん。ってな訳で、奈瀬。行ってこいよ!」
柳の提案に飛びついたヒカルは、あっさりと戸惑う奈瀬の背中を押した。緊張しながら日本語で挨拶をしながら常連客に案内された椅子に腰掛ける。
そんな様子を横目で見ながら、ヒカルは柳へと向かい合う。
「彼女が心配ではないのですか?」
「んーけど、ここに居る皆も奈瀬も碁打ちだからさ。言葉が通じなくても碁で通じるものがあると思うんだ」
「そうですか」
そう言って、柳はヒカルのためにカウンター付近に椅子を用意してくれた。それに腰掛けて雑談をしつつ、韓国語の勉強だ。リスニングと単語を文章にしていく練習を繰り返す。
発音は意外とイイ線を行っているとお墨付きをもらえたので、ヒカルは嬉しくてガッツポーズをしてしまったくらいだ。
奈瀬の方もチラチラ窺ってはいたものの、今ではすっかり馴染んでいる様子で、真剣な表情で碁盤に石を打ち込んでいた。
──そんな時だった。
入口のドアが開いたかと思えば、まさかの懐かしい顔がある。あまりのことにヒカルは声をあげそうになり、大慌てで我慢をしたのだった。
そこには帽子を被ったおかっぱ頭の少年がいたのだ。──
『叔父さん、こんにちは。せっかくだから顔を出してみたよ』
『秀英よくきたね』
『気晴らしになるし、ここのお客さんと打つのは勉強になるから』
このタイミングで近くに座り込んでいるヒカルに気がついたらしい。
『叔父さん、コイツは?』
『今、あそこで打っている彼女の連れだよ。韓国語を勉強しているらしい』
『初めまして』
『……どーも。韓国語、結構ウマイんじゃない?』
『まーね!』
『彼は私の甥っ子で、洪秀英。囲碁が得意でね、韓国の研究生入りが確実と言われている』
そこまで柳は紹介すると、ふとヒカルに尋ねた。
「そういえば、キミは碁はするのですか?」
「もちろん」
「それなら、せっかくだから秀英に打ってもらうといい」
「んー俺はそれでもいいけど、どうせなら奈瀬の方がいいと思うけど」
「あぁ、残念ながら他のお客との対局が始まってしまったみたいだね」
「そっか、なら打って貰おうかな」
ヒカルが承諾すると、柳が秀英と会話をし始める。どうやら打つ様に伝えてくれているらしい。
『置石は三子くらい? 指導碁なら打ってやるよ』
『ダメ 却下 つまんない』
『互先で打つつもりなのか? 秀英は強い、直ぐにやられてしまう』
『それでもいい』
頑ななヒカルに柳はため息をつく。秀英は別にどちらでも良いものの、そんなの直ぐに片付けてやると言わんばかりの顔つきをしている。
ヒカルは秀英の一度は挫折してしまう未来を知ってるのだ。そのため、少しどうしようか考え込む。それから漸く対局のため席に着くのであった。