逆行した進藤ヒカルが今度は悪役(仮)を目指すようです。【完結】 作:A。
ヒカルは珍しく緊張した面持ちで会場に向かっていた。傍らには奈瀬明日美も一緒にいる。
「進藤、珍しいね。緊張しているの?」
「んー。まぁ、ちょっとな。今回対局するのってレアケースだし。中々、こんな機会はないかもって考えるとな」
「キリッと真面目な顔していると、普段よりも三割増で格好よく見えるよ?」
「るせー」
奈瀬の冗談に適当な返事をぶつけると、思考を対局へと切り替える。今回は単なる公開対局ではないと思って挑むべきなのだろう。
もちろん、スポンサー側の意向としては、知名度のある進藤ヒカルが優勝者と対局させることで、大会の更なる盛り上がりを期待してのことだろうと思う。しかし、この対局がタダで済むものではないとヒカルはどこかで理解をしていた。
関係者入口で手続きを済ませ、会場に入る。今はまだ他にお客さんは入っていない。スタッフが慌ただしく歩き回る中、ステージ上の碁盤を見つめる。
「…………」
「………進藤。何を考えているの?」
「あぁ、ちょっとな」
らしくもなく深く考え込みそうになっている思考に終止符を打つと、控え室の方向へと向かうのだった。
◇◆◆◇
『会場の皆様。テレビの前の皆様。こんにちは。今日この日は一体どんな日になるでしょうか? 予想がつかない展開が待っているかもしれません』
司会をしている男性がマイクを片手にテンションを上げて話している。
『第14期NCC杯トーナメント初の試みです! トーナメントの優勝者と、あの天才少年として有名な進藤ヒカル君がこの場で対局をいたします』
すると、会場が大きく沸いた。そこかしこから拍手や歓声があがっている。それに司会の男性は満足そうに頷くと、言葉を続ける。
『大盤解説は村瀬九段。聞き手は吉永二段です。読み上げは……─』
そうして説明が終わっていよいよ対局となるのだ。今回のヒカルの対戦相手となる人物──NCC杯を制したのは名人の『塔矢行洋』だった。
逆行前にも佐為が消えてしまった後だが、何度か引退した塔矢行洋とは対局する機会が巡って来たことがある。
その時は、佐為ではなくヒカルが対局するという行為に罪悪感を抱く時もあったものの、碁打ちとして心躍るひと時を過ごすことができたのだ。
一人の碁打ちとして、塔矢名人を追い求めていた佐為の気持ちが痛い位に理解が出来て切ない気持ちになる時もあった。
しかし、今ではそれも含めて糧としてきたのだ。今日ここで対局することに対して、怖気づいたり負い目に感じるということは一切ない。
全力で対局するということに迷いはなかった。逆行してきてから心配していたことの一つとして高段者との対局が出来ないということがあげられるが、それも桑原本因坊がちょくちょく打ちに来てくれているということで解決している。
今日のコンディションは抜群。この上なく調子がよかった。
ステージの上に設置されている和室のセット。その座椅子に腰掛けながら塔矢行洋と対峙をする。
向かって座っているだけなのに、気迫がビリビリと伝わって来るのだ。どうやら早く打ちたいという気持ちは同じらしい。
司会者がこちらにマイクを向けてくる。
『どうですか? 進藤ヒカル君。緊張していますか?』
「別に。それよりも、やるからには俺勝つよ」
『意気込みは充分な様子です。塔矢名人、如何ですか?』
「……油断せず、彼に対しては全力で当たらせて貰うつもりです」
『おおっと、名人も本気宣言です。この対局は荒れそうな予感がしますね』
会場の盛り上がりとは逆に、進藤ヒカルと塔矢行洋は静かに闘志を漲らせていた。場面が進行していき、ついに対局が開始されることになる。
進藤ヒカルが白。塔矢名人が黒。
序盤は一見穏やかそうな進行だったものの、所々でヒカルの新手や新定石が散見する展開となった。そこで詰まったのが大盤解説だ。
解説しようと努力はするのだが、現在打っている意味が自分でも分からずモゴモゴと口を動かす場面すら見られた。そのせいで聞き手すら戸惑いをみせているくらいだ。観客席で対局を見ていた緒方は爪を噛む。
「全く、何をやっているんだ。あの程度であれば、俺ですら解説できるぞ。勉強不足なんじゃないか?」
「まぁまぁ、緒方さん。落ち着いて下さいよ」
例のごとく、芦原に止められているというお約束であったが。
「ですけど、緒方さん。この一手。相手を厚くしてしまうから良くないんじゃないですか?」
「確かにな。序盤早々に打つのは、そう考えてしまうのが普通だ。だが、進藤ヒカルは並じゃない。悔しいがヤツは天才なんだ」
「はぁ……」
「これは理解が及べば、誰も彼もが右倣えで間違いなく打つ。コイツは大型難解定石なんだよ。難解ではある。あるんだが……アマですら、ここの変化だけ覚えておくだけで、誰と打っても対応出来るという優れものだ」
「……マジですか?」
「大マジだ」
「…………」
「……ちっ。あんな程度の低い大盤解説なんて見てられるか。俺が代わった方がマシだぞ」
そんな緒方を他所に盤面は進んでいく。ヒカルは時に謎の手や、インパクトのある手を打っては周囲を驚かせている。中には色々な要素が絡んだ難しい変化になることも多く、難解定石の部類もみられていた。
時には少し特殊とみられる打ち方をしていたものもあったが、主要定石と見紛う程の使い勝手の良さを発揮していた。基本形だけでもいくつか勉強するだけで随分と違うだろう。しきりに村瀬九段が感心して唸っている。
それも現在、当たり前として不利になるため打ってはいけない手とされている手も平然と打っていた。村瀬九段がそれを指摘するものの、そこまで白が悪くならないという事実が発覚し、絶句。
唖然としている顔がアップでテレビに映るアクシデントを含め、会場が大いに戸惑う姿もみられた。ただ、従来の変化とはかなり違ってくる部分が多く、如何にレベルが高い打ち方をしているのかというのが見て取れる。
更にはテレビの『ヒカルの碁』によって、使える手として認知されてきている手も多い。かつてはそこまで変化がなかった定石が、例によってかなり変化の多い定石へと変化をみせているのだ。
進藤ヒカルの打つ手は初めて見た時、相当驚く。が、どれも有力な手法が多く、村瀬九段はしきりに戸惑うか感嘆しきりかのどちらかになっていた。
『うーむ。これは唸るしかないですね、ないですよ。どうしてここに打つ発想を長い囲碁の歴史上で今まで見つけられなかったか不思議ですらあります』
驚くべきなのは塔矢行洋が終始押されているという事実だ。らしくない手などは一切なく。名人らしさを発揮しているものの、進藤ヒカルの打ち方に間違いなく翻弄されている。
序盤で形勢が傾いた後、後々までそれが大きく響いているのだ。名人から苦しそうに繰り出される一手を難なく躱したヒカルは反撃の一手を仕向ける。
ヒカルにはそこに打つというのが予めわかっていた。名人の打つ癖は逆行前に凄く勉強していたので、自然と予測出来るようにもなっていたのだ。
「…………ありません」
「ありがとうございました」
結果は、中押し勝ちでヒカルの勝ちとなった。会場中が驚きでざわめいている。しかし、そんな中。対局が終了して我に返ったヒカルが思わずポツリと呟く。
「なんで?」
「?」
「どうして?」
「?」
名人も会場の人々も対局に勝っている筈にも関わらず、ちっとも嬉しそうにせずに呆然と呟くヒカルに自然と注目した。
「名人はもっと強い、筈だろ……?」
「……すまない。進藤君、これが今の私の全力なのだよ」
ヒカルにとって名人は佐為と共に最強の棋士の象徴の様なものだった。逆行前は佐為のライバルとして。佐為が消えてしまった後も、引退はしていたものの、世界中を飛び回り素晴らしい戦績と棋譜を残してきたのだ。たまに対局をして貰えた時も、圧倒的な棋力を間違いなく有していた。
それが……そんな絶対的な強い存在として君臨していた『塔矢行洋』が、こんなにあっさりと進藤ヒカルに負けるなんてことがある訳がない。進藤ヒカルはポカンと完全に惚けていた。
「私は確かに負けた。だが、これは間違いなく塔矢行洋の碁だ」
「…………」
「そして、進藤君。キミが幾度となく私の幻影との対局をイメージしてくれたにも関わらず、それに打ち勝てなかった自分が非常に情けなく思う。今の私ではキミが見ている高みには到達出来ていない」
「そ、それは……」
「だから、待っていて欲しい」
「え……?」
「私も、塔矢門下一同も全力で進藤君。キミを追いかけよう。だから、少しの間。待っていてくれないだろうか?」
「……なら」
「ん?」
「少しだけなら待ってる。じゃねーと俺がさっさとプロになってさ。七大タイトルぜ─────んぶ掻っ攫うからな!」
「それは困る。ここだけの話。私は少なくとも四冠は保持する気でいるし、他のタイトルも狙っているんだ」
そうして二人は顔を見合わせると屈託なく笑い合うのであった。未だに『四冠棋士である塔矢行洋』が『アマチュアの天才少年』に負けたという事実を飲み込めずに混乱している周囲を完全に置いてけぼりにして。