逆行した進藤ヒカルが今度は悪役(仮)を目指すようです。【完結】 作:A。
倉田厚は朝になった途端、いてもたってもいられずに大慌てで日本棋院へと向かっていた。
日本棋院の営業時間は10時からなのだが、とてもではないがジッとしているだけの余裕がない。もしかしたら、中には入れなくても周囲に人がいて何か知ることが出来るかも知れない。そんな思いを胸に道中を必死で急いでいたのだった。
入口に到着しても、人影は見当たらない。もしかしてと思い、自動ドアに近づくと動く。ドアが開くと同時に勢いよく中へと飛び込んだ。
すると、そこには倉田と同じ考えに至ったのであろう、本来であるなら手合いがないため棋院へ来る必要のないプロと院生などの棋士達も大勢ロビーでたむろして、しきりに情報を交換している光景が目に飛び込んできた。
ちなみに、そこの職員達は本来であるなら止めるところな筈が、ひっきりなしにかかってくる電話での対応に追われているのと、職員自身も詳細を求めて棋士達と会話をしており、ロビーは人が増える一方である。
なにせ囲碁界の歴史を大きく動かす瞬間の出来事があったのだから。
────極々一般のアマチュアである男子中学生が、プロの四冠を保持する名人を負かしたのだ。
ガヤガヤと賑やかな人ごみの中をかき分け、目的のグループを探す。しかし、そこには多くの人物たちに取り巻かれる状況があった。
それも当然のことだ。倉田が探していたのは名人が有する塔矢門下生達なのだった。
「あっ、ちょっとどいてね」
「わっ」
「んー通るから道開けてー」
「っとと」
普通であれば様子をみて諦めるか、もしくはその取り巻いている外側に位置することになるだろうが、倉田は違った。
遠慮なく大きめな体をグイグイと割り込ませて、輪の中心部へと向かったのだ。
人混みをかき分けて漸く到達した場所に立っていたのは同期の芦原弘幸と緒方精次だった。顔なじみの同期がいるなら話は早い。倉田は顔を見るなり、ド直球に尋ねた。
「おい、芦原。塔矢名人ってば、一体どうしちゃったんだよ?」
「あっ、倉田。お前もニュースを見て?」
「そうに決まっているだろっ。もう俺、びっくりしすぎて、今日の朝飯はご飯一膳しか食えなかったんだからなっ」
「いや、普通に食ってるじゃん。てか、普段からそれくらいの量にしといた方がいいんじゃないか?」
「はーっ。全く。こんな時に何コント紛いな会話しているんだ、芦原」
「えー……いやだって緒方さん。真面目な話かと思いきや、これじゃあ突っ込みは必須じゃないですかー……」
「知るか」
今までは張り詰めていた空気も倉田の登場で緩まったようだった。すると、遠くから日本棋院の職員が声をかけてきた。
「今回は緊急特例にて入口を一時的に開放していましたが既に施錠しました。皆さんはこのままロビーに集まっているよりも、これから大きめの部屋を開放しますから別室で情報交換をなさってください。おそらくですが、本来の営業時間が開始されればアマチュアの人たちや報道陣が大挙して押し寄せてくることが想定されます。パニックを避けるためにも、本来は解散が望ましくはあるのですが……収まりがつかないと思いますので、せめてそちらでお願いします。営業時間前ですら既に電話は酷い有様です。これ以上の騒動が続けば職員はパンクして日本棋院が機能停止に陥る恐れすらあるのです……」
現段階ですら戦々恐々としている職員を前にして我儘を言い出す連中は誰一人としていないようだ。ぞろぞろと大人しく移動している。
普段は大会に使用する大部屋へ移動した面々は、思い思いの場所に立ち止まる。自然と芦原と緒方に注目が集まった。
「あー……えーっと、そんなに見られたら照れちゃいますね」
「馬鹿。そんなこと言っている場合か」
芦原は大勢の人に見られていることを意識しまくり、気まずさからコメントをしていたが、緒方はこのバカには構う必要は無いと即座に判断をしていた。緒方は大きく息を吸うと話し出す。
「皆さん! 本来であれば名人が直接説明をするべきでしょうが、このタイミングで日本棋院に顔を出せば、余計な混乱を招くだけであると判断され、代わりに俺が伝言を任されました」
「えっ、緒方さん。俺は??」
その一言で大きなざわめきが起こり、芦原の抗議はあっさりとかき消された。
「現役のプロである……それも四冠保持者が、アマチュアの子供に負けるということで騒ぎになり、迷惑をかけてしまったことを謝罪させて欲しいとのことです」
「まさか伝言とはそれだけかのぅ? 緒方君」
「えぇ。その通りです」
緒方がキッパリと断言をすると、桑原本因坊が笑い出す。
「ふひゃひゃひゃ。全くこれだけの人間に心配をかけよってからに……。それがたった一言だけとは、身勝手なやつよの」
「フン。行洋の奴はなァ、わかっとる奴はわかっとると思うが……意外と身勝手なところがある。いつもはプロとして取り繕っている部分はあるがな。その証拠に、騒ぎになって迷惑をかけることに対しては謝罪をしても、プロが……それもタイトルホルダーがアマチュアに負けるという本来あってはならないことに対することについては謝罪したりしないんだろうさ。なにせ、悪いとは思ってない。本気だった対局の結果だったからだ。テメェの力が及ばなかっただけで仕方ないと思っている。四冠としての重圧を以ってしても、その結論だった。これが身勝手じゃなくてなんて言うんだ。そうだろう? そういうやつなんだ。アイツはな……」
森下九段が話に割り込み、解説をした。ライバル宣言をしているだけによく塔矢行洋という人物を見ている人間からの言葉は説得力のあるものだ。
「ただし、勿論プロとしての矜持も責任もある。だがな、それ以上に奴は対局を楽しんで全力で戦っていた。結果、敗れる形になりはしたが、恥じるべきことは何一つない対局だ。あの対局をみたがそれは断言できるぜ。単に進藤ヒカルはそれだけの強さを持っている大物だったってだけの話だ。それが偶然アマチュアだったってことだろう。……到底信じられねェ話ではあるが」
「これで未だプロ試験を受けていないのか……末恐ろしいなんてモンじゃねェな。チッ、全く嫌になるぜ」
森下の言葉に、忌々しそうに舌打ちまでしながら座間王座は小声でぼやいた。
「ひゃっひゃっひゃ。ワシとしては名人が四冠保持者として責任を取って引退と言い出しても不思議ではないと思ったが……小僧との約束はそれだけ魅力的だったかの?」
「(チッ、食えないジジイめ……)テレビでも放送されていましたが、進藤ヒカルは七大タイトルを全部狙っているそうですよ。それに対して、塔矢門下は彼を追いかけ碁のプロとして待ち構える所存です。名人は進藤に四冠を保持するどころか、他のタイトルも狙っていくと宣言しましたから、辞める訳にはいかないかと」
「はーっ。全くもって名人は先陣を切って美味しい所を持っていくことに定評があるね、こりゃ。大騒ぎを聞きつけてやってきたらこれだ。ずるいったらないね、情報は共有ってどころか、抜けがけときてる。うかうかしてられないったらないよ」
緒方が言葉を付け加えると、一柳棋聖が茶化したが途端に周囲がピリッとした空気になる。優勝者だからこそのエキシビジョンマッチであり、抜けがけでも何でもない公開対局であったのだが、突っ込むものはいなかった。理不尽であるのだが、進藤ヒカルと対局してみたいという欲求が強すぎるあまり、あっさり約束を取り付けるのはずるいという意識が先に出るのだ。
主に森下九段、桑原本因坊、座間王座、一柳棋聖が互に目線を交わしながら牽制をしている。絶対にタイトルの座は譲らないし、奪い取ってみせるという気迫を感じさせた。
その圧力たるや、周囲に居た院生達や他のプロを軒並み寄せ付けないものであり、激戦区からジワジワと距離を取ったくらいだ。
しかし、そんな中。牽制ばかりの展開に飽きたのか桑原が緒方にちょっかいをかけだした。茶目っ気たっぷりにウィンクなどをぶちかまして、告げる。
「とはいえ、ワシの方が小僧との繋がりがある分、アドバンテージがあるとみて間違いないじゃろうな。どうじゃ、羨ましかろう? のォ、緒方くん」
「こちらは直接訪ねて来て貰ったことがあります。更に、塔矢門下生の実力を鑑みて、秘蔵の特別製である棋譜の問題を提示されたこともありますが」
「どーだかの。物は言い様じゃて。ライバルとみなしているのは塔矢門下生だけの一方通行の可能性があるぞ。現に名人がいい例じゃ。あやつ、自分だけが小僧の見ているものを一緒に見られる理解者になれると言わんばかりのムーブをかましよって……」
桑原と緒方が、いかに進藤ヒカルの情報と自分との関連性があるのか誇示し合っていると、予想外にも緊張感のない声が飛び込んできた。ずっと、珍しくも大人しく成り行きを見守っていた倉田だ。
「えっ、なになに? 皆して、進藤ヒカルって知り合いなの? 接点ありまくりな口ぶりじゃんか! 実際の所はどうなんですか?」
「実際は……─」
倉田の問いかけに緒方が応じようとした瞬間だった。外から内へと一気に喧騒が飛び込んでくるのが耳に入った。
「ちょうど10時です。棋院が開く時間帯ですね」
座間が荒ぶる内心を押し隠して、時刻を告げる。
「いつの間にか随分と時間が経過しちまったようだが、ちょうど外の連中が入ってきたってことなんだろうさ。いやね、流石に外来が許されている範囲外にあるここの奥の部屋まで到達することはまずないとは思うがね。けど、だからって油断は良くないと思うよ。なにせ今回の件は我々碁打ちにとってもそうでない者にとっても大事件だ。特に塔矢門下からは是が非でも話を聞きたいと思うに違いない。我々は話を聞けたことだし、日本棋院の人に頼んで、裏口から出ていった方が良いと思うんだがねェ」
一柳が心配そうに告げると、緒方と芦原は顔を見合わせた。他のタイトルホルダーの面々もこの意見には同意見らしく無言ではあるものの頷きを見せている。
「記者の天野君も言っておったのじゃが、これからの囲碁界は新しい波が来るのォ」
「波なんて生易しいものじゃないでしょうに」
桑原の言葉に間髪を容れず座間が返す。それに笑いながら、桑原は続けた。
「波じゃよ。ワシらはこれからの新たな時代の波に流されぬ様、必死にしがみついているだけではなく、乗り越えていく必要があるのでな。どちらにせよ、各々が大きな決断と選択を迫られることは間違いないようじゃが……」
最後に格好よく言葉を纏めている桑原の話を真剣な顔をして聞くふりをしながら、倉田は自分がかなり出遅れていることをヒシヒシと感じていた。
思いっきり取り残された感がある上に、おいてけぼり感が凄い。内心でダラダラ冷や汗を流しながら、直ぐに進藤ヒカルの情報を昨夜と今朝のテレビで報道されていた以外も入手しようと奮闘するのであった。