逆行した進藤ヒカルが今度は悪役(仮)を目指すようです。【完結】 作:A。
週刊碁の記者の天野は眉間の皺を指で伸ばすと大きく伸びをした。
「ぐ……っ。もうこんな時間か……」
編集部ではそこかしこに人間が転がっている。斯く言う天野もその内の一人になりそうだが、ギリギリ理性を保っている状況だ。
なにせ、昨日は本当に怒涛の一日だったのだから。徹夜明けの眠気眼でぼーっとしている頭を振りかぶりながら、思いを馳せる。
とにもかくにも昨日は信じがたい出来事がおこった。前人未到の偉業ともいえるのかもしれない。
そのせいで囲碁界は揺れた。それも大きく。
────『極々一般のアマチュアである男子中学生が、プロの四冠を保持する名人を負かす』
センセーショナルな大事件だ。ちなみに天野は発狂した。そんな常識を考えるのならば到底信じられない出来事が事実だというニュースが日本を駆け巡るのは思った以上に早かった。それは進藤ヒカルがメディアからそれだけ注目を浴びている囲碁の天才少年ということの証左だ。
しかし、それにしたってイベントに集まっていたメディアの数は多かった。下手をするとタイトル戦の時よりも。チラリとその光景を思い浮かべて少し苦い思いを天野は抱いた。
今までの囲碁界は停滞、もしくは世界と比較して随分と劣っていると言われてきたからだ。注目度がそれを如実に表しているかのようで……。
しかし、ここの所。話題に事欠かない。進藤ヒカル少年が次々と燃料を投下してばかりいるので、囲碁界は世間で非常にホットなトレンドの一つにカテゴリーされつつある。この大事件でピークに達してしまったかもしれないが。
とにもかくにもそれは夢の様なとても素晴らしい出来事であった。本来ならば取り扱われない小さな囲碁界の出来事も今ではニュースにされている。一般の人たちの興味関心がそれだけあるのだ。
そうすると、囲碁を始めてみようという人間もドンドン増えている。現に、調査していた書類にも右肩上がりの良い数値がバッチリと現れていて、ここ数日天野はニヤニヤしっぱなしだった。
すると世間では様々な現象がみられた。囲碁部員が増えたり新設される小さな出来事だけではない。囲碁教室の開催が全国的に各地で増えると共に、碁会所が新しくできたり、囲碁関連の書籍の売上が大幅に上昇し始めていた。
週刊碁の売上まで爆発的に急上昇したのには驚きと共に編集部は沸いた。中には非常に珍しいことに給料として金一封が出るとまで決まった時には進藤ヒカルを拝む仕草までする人間すらいたくらいだ。
更に副次効果として、棋士達のやる気が違う。取材する対象の人物の枠が増え、院生にもスポットライトを浴びたり、新人棋士から中堅。ベテランに至るまで幅広く取材範囲が及んだのだ。
やはり人間は注目されているとなると張り切ってしまう。棋士達の服装も適当な服からテレビに映るときのことを考えて新しく新調するものが相次いだ。
こんなことが軒並み起こっていた中、コレである。大騒ぎなんてものではない。騒動が騒動を呼び、連鎖的に爆発していくのではないかというのが編集部の見立てだ。
────それだけエキシビジョンマッチで魅せられた歴史的瞬間というものは価値があるのだ。
あの出来事から一時的に世間の話題が囲碁一色だった。いつもならこの時間帯にテレビに碁盤が映るのはまずないであろうに、報じられている映像をみて、囲碁界の行く先を憂いている者の中には、感極まる者も少なくない。
報道では概ね進藤ヒカルには好意的であった。
中には『イベント仕様の対局で持ち時間が少なかったから』『周囲がうるさくて集中が出来なかったから』『決勝の後、休息を取ったとはいえ名人が連戦だったため』というものや、名人に失礼にあたる酷い話では『名人は今回本気ではなかった』『油断をしていた』『あくまでもエキシビジョンマッチなので相手を気にかけていた部分が少なからずあったに違いない』などというものもあったが。
しかし、天才が輪をかけて天才であるということは、報道が過熱したことにより、これ以上ないくらいに広がりを見せた。
『孤高の天才』──進藤ヒカルの評価はここに極まった。
アマチュアの子供にも関わらず、圧倒的なまでの誰にも到達出来ない高みにいるため、名人との対局で勝ちに驚いたり嬉ぶよりも、戸惑いをみせた少年。
名人はもっと強い筈なのになんで? という純粋なまでの疑問は天才が故の一種の痛ましさすら感じさせた。
単純に強さにあぐらをかいて調子に乗っている傲慢な少年というイメージが一気に払拭されたのだ。世間は進藤ヒカルの強さを素直に受け入れ賞賛している。
彼に続けや続けとばかりに便乗するもの。次の天才として台頭したいと目論むもの。色々な思惑が飛び交っているが、囲碁がブームという土台はこれ以上ないくらいに整えられていた。
これからの行動しだいで囲碁界の未来が決まる。慎重にしたいところだが、大胆に動いていかないとついていけなくなりそうだとも思い、天野はその難しさから頭をボリボリと掻きむしった。
ちなみに、天野が編集部に缶詰なのには理由がある。そうでなければ他の連中同様に何を置いても日本棋院に押しかけ、情報収集に躍起になっていただろう。勿論、後ほど必ず行くつもりだが、少しタイミングをズラす程度の余裕が出来ているのだ。
それはなぜか?
──実は名人にちょっとした贔屓をして貰ったからなのだ。
この時ばかりは、週刊碁で真面目に記者をやっていたことを神に感謝した。なんと、名人は週刊碁のためだけに特別にコメントを用意してくれていたのだ。独占の記事を書ける。この重みに答えるべく、天野は必死に筆を握っていたという訳だ。
その言葉の内容を聞いた時は、天野は納得した。下手な記者に扱わせては要らぬ誤解を生むだけになるだろう、と。
『進藤ヒカル君はずるいと思う。なにせ進藤ヒカル君と対局をしないで済むのだから。それと同時に、私は幸運だ。他ならぬ進藤ヒカル君と対局出来るのだから』
この言葉の内容の意味を履き違える訳には絶対にいかない。
負けた時、彼の言葉に自分の実力不足を痛感した時、そしてそれを口に出すとき、名人は一人の碁打ちとして内心悔しくて悔しくて堪らなかっただろう。しかし、プロとして四冠を保持するタイトルホルダーとして表に出す訳にはいかない。
そんな名人のコメントなのだ。どんな想いだったのか天野は必死で想像するしかないが、あの名人が例えお茶目だとしても本気だとしても『ずるい』などというワードを出すのだからよっぽどのことだ。
今度は大きくため息をつく。
あの対局の時に解説役をしていた村瀬九段は、噂だと自信を無くして引きこもっているらしい。進藤ヒカルの打つ手の真意がわからない。なんの手かわからない。度重なる解説のやり直し。プロなのに、それも九段にも関わらず、恥じ入るばかりだったという。もしかするとロクに眠れないなんてこともありうる。
天野が秘密裏に電話を受け塔矢行洋からコメントを貰った際に、そのことを告げると、とても感謝された。
(塔矢名人は直接連絡を取ってみると言っていた。それで、村瀬九段が持ち直せたらよいのだが……)
進藤ヒカルの影響力の大きさを思い浮かべて、再びため息をついた。今回のイベントで彼が飲んでいたお茶や、つまんでいたお菓子までもがブームになってしまったのには笑うしかない。軒並み売り切れどころか、生産が追いつかない程のレベルらしい。
どちらの会社も進藤ヒカルには凄く感謝をしており、足を向けて寝られないとテレビのインタビューで答えていたのだ。
そこまで考えを巡らせて、天野は流石に休憩を挟むべく大きく伸びをした。凝り固まっている背中が伸ばされ、小さくパキリと音を鳴らした。
席を立ち、フラフラと隅に置かれたソファーへと向かう。既に倒れこむように寝ている人間もいるが、叩き起こしてでも交代させようと決め、天野は床を踏みしめて進むのであった。
◇◆◆◇
進藤ヒカルは思いっきりうろたえていた。
そもそもの発端はエキシビジョンマッチの対局の影響から、うかうか表にであるくことなど絶対にできないため、ずっと自宅にいたことだ。
奈瀬からも磯部からも、おめでとうと電話を受けたが、名人に勝ったという事実は衝撃的すぎて受け止めるのに時間が必要だと何度も繰り返し述べられる。
んな、同じことを何度も言わなくてもわかるってというヒカルの言葉は届かなくて、早々に諦めた。対局の解説をして欲しいとも懇願されたが、お互いに会おうとしても、二人共マスコミが凄いらしい。碁会所にいくこともできず、ダラダラ過ごしていたが、ヒカルは早々に飽きた。
そこで、どうやって調べたのやら家の前まで詰めかけてきている報道陣が流石に諦めて帰るタイミングを見計らって、コンビニまで気晴らしに出ることにしたのだ。
もしこれで帰ったフリをして実は隠れていたとかで捕まっても、それはヒカルの自業自得である。そのときは諦めてカメラの被写体になるか、コメントするか、悪態をついて拒否するか、逃げるかのどれかの選択肢になるだろう。
ところがヒカルの覚悟をよそに外出はあっさりと達成出来た。コンビニでは店員が流石に気づいていた様子で、かなりジロジロと不躾なまでに見られたが流石に業務中だったため、話し掛けられることはない。
状況的に上手くいっていたので、せっかくだしと近くの公園に寄ってみる。ここでコーラを飲んで一休みしたら普通に自宅に帰る予定だったのだ。
しかし、公園のあずま屋には先客がいた。近づかないとその存在に気づかず、引き返そうにも相手にヒカルの存在を認識された後だったのだ。
「えっ……」
「あっ……」
そこには年上の美人なお姉さんが静かに泣いていたのだ。これには散々天才と持ち上げられてきたヒカルもうろたえるしかなかったのだ。
どうして良いのか分からず、お互いにお見合い状態になった。
しかも、よく見ればお姉さんは泣いたことでアイメイクが崩れている。アイライナーもひいていたのか目元は黒ずんですらいた。
「あー……えっと、その……お姉さん、ちっと待ってて」
「?」
ヒカルは走っていって、ポケットからしわくちゃのハンカチを取り出した。母親が小うるさいからいつぞやにポケットに突っ込んでいた代物だ。それの皺を伸ばして軽く埃を払うと水飲み場の水道で冷やしてお姉さんに持っていく。
「ん。よければ使ってよ」
「ごめんなさい。ありがとう、僕」
「お礼の言葉は受け取るけど、もう俺中学生なんだぜ。僕はよしてよ」
「そうよね、君は?」
「えっ、あ。進藤ヒカル」
「そう……ヒカル君って言うのね。うーん、どこかで見覚えがあるような?」「気のせいなんじゃない?」
「うーん。そうかも」
自意識過剰かもしれないが、ここの所報道されっぱなしだったため、自身のことを知っていると考えていたヒカルは恥ずかしいなと久々に思う。
そしてこの小さな出会いがあんなことになるなんてヒカルは微塵も想像することができないのであった。