次世代型VRデバイス––––ナーブギア。
別名フルダイブマシンと呼ばれるそれの登場により、人々はもう一つの現実––––仮想世界を手にした。
従来の、ゲームコントローラーを使用してのアバター操作はもう古い。そんなうたい文句とともに売り出されたナーブギア。
天才・茅場晶彦の創りし壮大なる異世界。膨大なデータ群によって生成された、そのヴァーチャルワールドは、たちまち人々を虜にした。
仮想の世を練り歩き、己の意思で体を動かしてのゲームプレイは、プレイヤー達にとてつもない臨場感と、堪えようのない興奮をもたらしたのだ。
そんな仮想世界の最先端––––VRMMORPGという新ジャンルを確立し、仮想現実を次のステージへ推し進めようという注目のタイトルが今日、そのサービスを開始させようとしていた。
どこか遠い空の果てに浮かびし鋼鉄の城、アインクラッド。
全百層からなるフロアを踏破し、その果てにあるゲームクリアを目指す。
魔法はなく、己の技術と剣を駆使して敵を退けるそのゲームの名は––––。
––––ソードアート・オンライン。
「後五分……」
既に頭部に装着済みのヘルメット型デバイス––––ナーブギア内蔵の時計機能を確認し、溜息を吐いた。
「早く……早くしろ……」
逸る気持ちを抑えることは、もう十分以上も前に諦めた。今はただ、時間の流れの無情さを嘆くばかり。
人が感じる時間の流れの早さというものは、時と場合によりけりだ。
何かに没入している時、大抵の場合時の流れは早まるもの。逆に退屈であれば、一分一秒の流れすらもどかしく、緩やかだ。
現在の俺はまさしく後者。今この瞬間ほど約五百秒間の時の流れの低速さを恨んだことはない。
これから始まる超体験に思いを馳せれば、そう考えるのは無理もないことだろう。
「……っ」
そうこう考えるうち、タイムリミットが迫っていることに気づく。
時計機能の秒針はチクタクと動きを進め、やがてその時はきた。
夢の世界への門は開き、逸って高鳴る心の臓を今この瞬間だけ抑え、入場券にも等しき魔法の言葉を口にする。
「リンク・スタート」
この日、後に仮想の死が現実での死に直結するデスゲームと化す、今はまだ人々の希望と期待を背負った待望のタイトル––––ソードアート・オンラインが、そのサービスを開始させた。
全ての希望は絶望へと帰し、あまりに多くの終わりから、たった一つの始まりへ至るこのゲームの真価を、一万のプレイヤーたちはまだ誰も知らないのだった。
電子の海を突き進めば、やがて視界は大きく広がる。真っ先に目に入ったのはまさしくファンタジー、幻想的な異国風の街並みだった。
「うおーひっさびさ」
肩を回し––––つまりアバターの体感覚を試しながら、大きく深呼吸する。
肩の動きはどこかぎこちない。足も重たかった。
わかっていたことではあったが、やはり綺麗さっぱり消えてしまったプレイヤーデータのことを思い出し、気落ちする。あーあ、結構ステ振り頑張ったんだけどなぁ。
「まあ無くなったものは仕方ない。少しでも早く取り戻すことに集中だな」
今の俺は、勿論初期装備一式に身を包んでいる。耐久値も防御力も洋服と大して変わらないクズな革装備に、初期武器の片手直剣《スモールソード》だ。
だが、防具はともかく《スモールソード》の方はしばらくこのまま装備していていいだろう。何故なら、ここ《はじまりの街》から少し離れたポイントで受けられるクエストに、第一層序盤では破格レベルでスペックの高い片手直剣が手に入るものがあるからだ。そこに行くまでに《スモールソード》を強化したり、買い換えたりしては金が勿体無いし、《スモールソード》の特性と、そのポイント近くにポップする植物系mobの特性を省みれば尚更だ。
最短ペースのクリティカル狙いでmobを捌けば、ギリギリ《スモールソード》の耐久値でもクエスト完了までもつだろう。
「とりあえず路地裏の武具屋で防具だけ買って、すぐ圏外出るかなぁ」
そこまで考えて、自分の思考が利己的でスピード重視な効率厨そのものになっていることに気付き、半ば呆れながら、安心する。
どうやら当時の思考回路はまだ生きているらしい。全て一からやり直しになるかと思っていたが、予想より早く技術の磨き直しやレベリングができそうだ。
「えぇと、確かここを曲がって、と」
いつまでも立ち止まってはいられない。ニュービーたちはともかく、βテスターたちは、もう攻略のために動き出していてもおかしくないのだ。
彼らには知識がある。二ヶ月分ニュービーたちより経験を積んでいるのだから当然だ。同じ知識を持ち合わせているからこそ、俺にはその絶対的アドバンテージの恐ろしさが理解できる。やはり奴らをこの段階で出し抜くのが、上位ランカーを目指す上では最高の一手だろう。
「やっぱゲームで一番楽しいのは、上位ランカー目指すことだよ……なっ!」
それを最後に、俺は中央広場から駆け出した。
予想に反して、《はじまりの街》周辺より遠ざかるにつれ、ニュービーは勿論、βテスターの影も見られなくなった。
圏外を走る俺。防具は新たに《はじまりの街》裏通りの武具屋で、カッコいい固有名もないが、それなりの耐久値と防御力を持つ《はじまりの街》名産––––俺が勝手にそう呼んでるだけ––––《焦茶の革外套》を買った。
武器は勿論そのまま《スモールソード》。武器は変えず、防具だけ中途半端に変えるという、結果として典型的『防具買いたてでイキってる初心者』のような装備になってしまったが、防具とポーション数本の購入で初期手持ち金額をほぼ使い果たしてしまったのだから仕方ない。
他のテスターたちはといえばだが、大方β時代と正式版の街の違いでも見て回っているのだろう。真っ先に街の裏手に入って、そのまま最短ルートで飛び出してきてよかった。俺もテスターの端くれ、少しでも表通りの建物に目を向けていたら、そのまま仕様変更探しに魅せられ、街の中に囚われていたかもしれない。
「んなもんはレベリングの後で飽きるほど見られる。今はただ目的に集中だ」
そんな様に言いながら、昼時を少し過ぎた草原を駆け続けること一時間ほど。
「ホルンカとうちゃーく」
高スペック片手直剣《アニールブレード》取得クエストの受注場所––––《ホルンカの村》に到着したのだった。
《アニールブレード》取得クエストの流れはこうだ。
《ホルンカの村》のある民家には、病弱な少女とその母親が住んでいる。なんでも、その少女は寝たきり状態が続いていて、それを改善するには、あるモンスターの《胚珠》を用いて作成できる薬が必要なのだそうだ。
その民家に入る際、母親は台所で湯を沸かしているのに、何故か『水程度しか出せない』と前置きされるのがキーポイント。ミソなのだ。それでいいですよ、などとそのささやかな歓待を受ける旨を伝えれば、クエストフラグは立ち、先の事情説明の後、そのモンスター––––所謂ウツボカズラ的容貌の植物Mob・《リトルネペント》を打ち倒す。討伐数を重ねた末、低確率で出現する花付きネペントがキーアイテム《リトルネペントの胚珠》をドロップするというわけだ。
理論上討伐数ゼロで
また、件のウツボカズラもどきのキル数も完全な無駄足になることはなく、何よりこちらがレベル1アバターであることに対して、奴らはレベル3Mob。いかんせん経験値に
「お、湧いてくる湧いてくる」
誰に説明するでもなく、この『胚珠クエ』を受ける利点を整理しながら、俺は森中央部へと踏み込もうとしていた。
当然周囲は草木が生い茂って深い緑に囲まれている。が、木はともかく、草はさほど伸びているわけでもないため、視界を妨げる心配はない。妙に細かな所にまで設定が凝っているこのゲームのことだ、頻繁に村人達が雑草刈りでもしているのかもしれない。……いや、それだと俺に胚珠獲りを任せる理由がなくなる。森まで入り込めるのなら、それ相応の戦闘スキルを持っているということだ。ならばあの村の住人たちのうちの誰かに回収を任せる方が、よっぽど信頼と安心感を抱けるというもの––––などと無粋に設定の粗を探しながらも、目の前に淡い光とともに出現したリトルネペントへしっかりと意識を向けた。
正直、然程驚異的なモンスターでもないが、レベル的不利と数ヶ月のブランクがこちらにはある。ここでもし奴に殺されて、デスペナルティと共に、はじまりの街の死者転送スペース《黒鉄宮》までの転移を食らったら、再びこの場に戻るまで手間がかかり過ぎる。
そんな冷静な思考とは裏腹に、頭のもう半分を割いている興奮の熱は、それはもう理性の檻を捻じ曲げて、すぐにでもあのカズラ野郎に食らいつけと、うるさく俺へ訴えていた。
冷静と興奮を考慮した上での最適解––––つまるところ『すぐさま斬りかかる』を選んだ俺を、誰が責められようか。
人とはいつも、欲望に忠実な生き物なのだ。それは仮想の世だろうと、相違ない。
「じゃぁ、まず記念すべき正式版第一発っ……シッ!」
満を持しての第一刀。短く息を吐きながら、数ヶ月前の付け焼き刃剣術の残滓を残した俺の腕が、鞘からスモールソードを引き抜き、いつのまにか警戒モードに入っていたリトルネペントに上段の構えで一閃を浴びせた。
「シャアアアッ!」
身の丈1メートル半の化けカズラは、上部の《口》部分から多量の粘液を撒き散らし、心なしか苦痛を感じる響き混じりの奇声を上げた。
ダメージを与えたと分かるエフェクトが、紅く輝きを放ちながら撒き散る。
「これだよ……この感覚っ」
懐かしきこの感覚、感触。
化け物を斬り伏せ、より強い俺が生き残る。
リアルでは無様なこの俺––––白井春太が、この世界では
今思えば、この時こそ、俺がこの『ゲーム』を最も楽しんでいた瞬間だったのだろう。
全てが終わる『初まりの夕暮れ時』まで、後二時間。