曰く、この世界からのログアウトは不可能。
曰く、この世界での死は現実での死に直結する。
曰く、全百層を踏破し、ゲームクリアへ至るまで、誰一人として、生きて現実へ回帰することはできない––––。
なお、既にこの世界からも、現実世界からも永久退場したプレイヤーの数は、二百十三名。
淡々と紡がれるその言葉の流れに、プレイヤー達の脳は早々に意味の把握を放棄した。
––––理解できなかった。出来るわけがなかった。
『最後に、諸君らのアイテムストレージに、私からのプレゼントを用意してある。確認してくれたまえ』
茅場を自称する狂気のGMアバターは言う。
それを聞くや、皆が皆機械的にストレージを開いていく。プレゼントという言葉に酔い、その響きに一縷の希望を持って、縋りながら。
しかし、そこには新たな絶望が待っているかもしれない。プレゼントを用意した人物こそが、この状況を作り出した張本人。一万の人間の人生を今まさに狂わせようとしている、バーチャルの猟奇殺人犯なのだから。
少し考えれば一度動きを止められただろうプレイヤーたちは、されど冷静さを取りこぼしたまま、
その様は実に異様。皆が己の異常に気づかず、一様に同じアイテムを、同じ体勢で見下ろしているのだから。
人のことは言えない。かくいう俺も、思考は停止したまま、その手の中に手鏡を握りしめているのだから。
「––––おわっ!?」
まず聞こえたのは、誰かの驚いたような声。
それを境に、伝染される声の連鎖と、プレイヤーを包み込む光の群れ。
どよめき立つその場は、やがて完全に光に呑まれた。
––––何だ、何なんだよ、さっきからっ……!
この状況は何なんだ。
––––俺が何をした。何をしたというのだ。仮想現実に囚われ、死の危険を背負って生き足搔くなど。
やがて己を包み込んでいた光の粒子は消え失せ、視界は紅の夕暮れを映しこむ。
「一体、何が……っ!?」
再度手鏡を覗き込むと、そこには見慣れた『俺』がいた。
「は……?」
現実よりやや醜くして、ネタキャラ顔と化していたアバターの顔は、そこにはなかった。
不機嫌そうな三白眼。髪はだぼっとしていて暑苦しい。同年代の平均より身長が高めなのはコンプレックス。そのくせすぐキョどるものだから、イジメの対象に––––。
ぶんぶんと首を振り、思い起こそうとした負の歴史を拭い去る。
とにかく、その顔のパーツのどれもこれもが、紛れもなく現実の『俺』––––白井春太のそれと完全に一致していた。
何故、どうして、と疑問はあった。ただそれ以上の憤りが生まれる。
「こんなことして、何になるんだよっ……」
改めて頭上に浮かぶ赤フードを強く睨み付けたその瞬間。
––––目が合った気がした。そして、笑みを向けられた気がした。
––––常軌を、逸している。
もしかしなくても妄想かもしれない。気のせいかもしれない。フードの下の漆黒に、表情の色は見て取れない。
けれども不思議と確信を持って、『それは違う』と言えた。
––––この場にいる誰も彼もは、誰一人として、悪くない。
「茅場……」
––––あの男の気まぐれに、たまたまこの一万人が選ばれただけのこと。
天才茅場晶彦。恐るべきナーブギア開発者たる彼は、全てこの瞬間のために、件のデバイスを作り上げたのだ。
仮想の箱庭の中で、プレイヤーを観察し、愉悦し、絶望に浸る俺たちを、ただただ傍観するために。
己の理想郷を、ここに実現させたのだ。
俺の妄想かもしれない茅場の笑みは、瞬間最高潮に深められた。
「……以上で《ソードアート・オンライン》正式サービス、チュートリアルを終了する。諸君らの健闘を祈る』
それを最後に、赤フードはそのアバターを瞬きの間に消失させ、辺りは静寂に包まれた。
「……は、ははは」
口を伝って乾いた笑いが漏れる。
––––何だよ、これ。
「結局、こうなるのかよ」
リアルで無様な自分を、この世界でなら輝かせられると思った。
––––そんなのは、幻想だった。
この状況を理解などしたくなかった。理解などできなかった。してはいけないと思った。したら終わりだと、そう考えた。
だから、思考を放棄した。
どれだけの時間が経ったのだろう。
事によると十分。下手をすれば、小一時間立ち尽くしていたかもしれない。
「……」
手足の震えが止まらない。歯は痙攣したように音を立て、ガタガタガタガタと、鼓膜を揺らした。
「……母、さん」
何を思ったか、瞬間俺の脳裏には、女手一つで俺を育ててくれた母の姿が浮かんだ。
「母さ、ん……」
––––母さん、会いたいよ。
毎朝残業疲れの体に鞭打って俺に朝食を提供してくれる、たった一人の家族の姿。
作ってくれる弁当はいつも楽しみで、けれど恥ずかしくてそう言えなかった。それでも残さず食べれば、頰を緩めて『お粗末様でした』と、嬉しそうに目を細めてくれる、大切な––––。
今すぐにでも、その顔が見たかった。
「っ」
震える歯、腕はそのままに、同じく震える足は踏ん張りだけを取り戻し、俺は当てもなく走り出した。
訂正する。当てはあった。
中央広場を駆けて抜け、路地を抜け。
その場所は、酷く閑散としていた。
「はっ……はっ……」
酸素を必要としないこの世界でも、全力疾走後はつい呼吸を荒げてしまう。
はじまりの街のある一点。NPCショップのある往来から少し離れたその場所は、休憩所のような雰囲気を持つ。
ベンチがあり、テーブルがあり。そして––––視界下に広がる空を見下ろせる、展望台があった。
浮かぶ鋼鉄城、アインクラッドならではの、空を見下ろすという行為。その層の果てを目指さなくとも、壮大な雲の流れを一望できる展望台は、β時代のライトなプレイヤー達に一定の人気があった。
「ここでなら……」
ログアウトできると、そう思った。
きっと、あれは手の込んだイベントだったのだ。
全て運営側からの悪質なドッキリで、時間が経てば真実が明かされて、それで––––。
その可能性の数々は、全て粉々に打ち砕ける証拠の数々が、既に提示されていた。
それでも縋らずにはいられない。今この瞬間、あの展望台より身を投げれば、この悪夢から、解放されて––––。
「はっ……?」
––––先客が、いた。
酷く、横顔の綺麗な少女だった。
風に靡く艶やかな黒髪は肩口までで切りそろえられている。平時ならばもっと大きいだろうその黒瞳は涙が滲み、数滴は川をつくって頰を流れていた。
俺と同年代だと思われる小柄なその体は、儚げで。
放っておけば、文字通り消えてしまうと思った。
––––ダメだ。
「っ!」
次の瞬間、体に電撃が走ったような感覚とともに、足の震えは取り除かれ、俺は少女に向かって走り出していた。
––––死ぬな。絶対死なせない。
少女のその震える足と、決意で硬く握り締められた拳から、彼女が俺と同じようにここで
––––矛盾している。思考が噛み合っていない。
死ぬな、などと。少女の姿を見るまでは、俺もまた死のうとしていたというのに。
それでも。
––––死なせてはいけないと、そう思った。
「はっ……はっ……はぁっ……! 間に、あ、えっ……!」
不幸中の幸いというべきか、先のレベルアップ時、俺はポイントを敏捷力のステータスに全て振った。
故に今のアインクラッド内では一二を争うくらいに足の速いだろうアバターを酷使して、少女へと距離を詰める。
––––後、五メートル。
少女は、やがて足の震えを無理矢理に抑えた。
––––後、四メートル。
一歩踏み出す。もう一歩先は、転落の未来。
––––後、三メートル。
より一層涙で瞳を濡らし、その雫は空の果てへと落ちていく。
––––後、二メートル。
目を、瞑った。そうして、踏み出してはならないもう一歩を––––。
––––後一メートルっ!!
「間に、合えぇぇぇっっ!!」
転落直前で急ブレーキ。数瞬前に自由落下を始めた少女は、まだ目の前だ。
その腕を掴んで、落下を無理矢理に阻止する。
「……ぇ……?」
そこでようやく少女は俺の存在に気づいたらしい。
自分の腕を掴んで離さないその見知らぬ男に、少女は表情を恐怖に染めて、震える声で、言った。
「だっ……誰、です、か……」
「お、俺は……いや、今はそんなことどうでもいい。とにかく、引き上げる」
「……なんでですか」
辿々しく言い切ってすぐに、純粋な疑問の色を帯びた問いが返ってくる。
そう返して来た少女の気が知れなかった。
「はっ……? なんでって、落ちたら死ぬからに、決まって……」
当然だ。高所から転落すれば、人は死ぬ。それがゲームであれ、現実であれ、その結末は変わらない。
仮想の死が現実での死に成りかわるこのゲームでは、その事実が尚更重くのしかかって––––、
「……それは、このゲームの中の話でしょう?」
…ああ。やっぱりだ。
「いいから、離して……」
––––彼女もまた、俺と同じなのだ。
現実が直視できない。死にたくない。現実に戻りたい。帰りたい。
そんな生還への渇望から、提示された根拠全てをかなぐり捨てて、逃げて、飛び降りて、死んで。
––––でも、それなら、
「何で、あんたは、泣いてたんだ、よっ……!」
「っ」
この子は泣いていた。飛び降りても助からないと、そう心の何処かではわかっていたのだ。
心は正直だ。例え理性のあずかり知らぬところであろうと理解して、ありのままの自分であろうとする。
だから、死を選んだ彼女の本心は、別にあるのではないか。
生きたいと、そう思っていたのではないのか––––。
「死ぬなっ……現実に戻りたいんじゃないのかよっ……!? 家族とかっ、友達とかっ……大切な人、いるだろっ……!? また、会いたくないのかよ……!」
母さんに会いたい。
俺が自殺を選んだ理由は、その一心からだった。
幼少期に父は死んだ。ガンで、あまりに呆気なくて。それでも、カッコよくて。
最後に彼が遺した言葉が、俺にはあまりに重くて、それでいて誇らしかった。
『母さんを、頼むな』
だから、俺は母さんを支えたくて、それで。
「おこがましいけどっ……あんたにだって、大切な人っ……いんだろっ……」
何を情に訴えてるんだだとか、熱くなってどうするんだだとか、冷めた客観的な考えも、あった。
それでも、言わなきゃ気が済まなかった。
「……じゃあっ、どうしたらいいって……いうのっ……?」
「……い、生きれば、いい。生きれば、いつか、戻れるからっ……」
そう返した頃には、頭はだいぶ冷静になっていて、この状況の深刻さを悟ってしまった。
「くそっ……!」
俺の筋力は、敏捷力にポイントを振った分、そのまま初期ステータスだ。つまるところ––––プレイヤー一人を持ち上げられるだけの力は、ない。
筋力に全て振っていれば間に合わなかった。敏捷に全て振ったから、間に合いはしたが、引き上げることはできない。
どちらにしても詰み––––このままじゃ、両方落ちる。
「……ぐっ、ぅおおっ……!」
いくら力もうが、ステータスという数値は無情だ。この世界には、現実と違って火事場のクソ力というものもない。
ただひたすら、事実とそれに基づく結果のみを提示してくる。
レベルが足りなければ死ぬ。敏捷が足りねば走り負けて、筋力が足りねば武器も持てない、アイテムも持てない。
ただただひたすらに、無情なのだ。
思いの強さは、関係ない。
それでも、それでもだ。
「……お父さん」
そう、小さく震える声で呟いた少女の姿を、見てしまったから。
––––らしくない。俺らしくもない。
それでも、自分らしさなど度外視で、助けたいと思ったんだ。
––––コミュ障でも、対人スキル皆無でも。
「……このままじゃ、あなたも落ちちゃうよ」
不意に少女が下を見たまま、言い放った。……バレていた。
それも当然かと考える。先程から、一ミリたりとも上昇していないのだから。
現状維持がやっと。気を引き締めていなければ。そして、もし精神が疲弊し、擦り切れてしまえば。––––その時点で、この均衡は崩れる。
「……大丈夫。そんなことな」
根拠もない無責任な励ましを投げ掛けようとして、遮られる。
「ううん。そんなことある。……やっぱり、離して」
言いながらこちらを見上げた少女の目は、諦観の色をまとっていた。
「多分、あなたみたいな人は、このゲームの中に、必要だと思うから。あなたはまだ、死んじゃダメだよ」
先程までの絶望した表情ではない。明確に死を悟って、受け入れた、もう二度と見たくなかった–––最期に父さんが浮かべた笑みと、同種の笑顔。
「……ちくしょう」
また、目の前で、人が死ぬのか。
記憶の中の父さんと、少女の顔が、重なる。
「ちくしょう……ちくしょぉぉぉっ!!」
嫌だ。ダメだ。死なせない。死ぬな。死ぬな。
きっと、まだ手はある。
そうして、システムに無謀にも抗おうと、もう一度、もう一層強く力んで、
「––––よく頑張ったな、にいちゃん」
なんの前触れもなくそう紡がれた第三者の声音に、俺は短く吐息を漏らした。
「え……?」
若い男性の声だった。安心させるようなトーンで、少し心が安定した気がした。
背後から、その声音は再度紡がれる。
「後は、
自分の状況も忘れ、振り返ろうとした、その直後。
「っ!?」
半ば均衡が崩れた。けれどもそれは、転落へのものではなく、
『よっ、こいせぇっ!!』
複数の低音。それが重なり合って、一つの大きな力になる。
崩れかかった均衡を完全に壊して、俺と少女は強く引き上げられた。
「はぁっ……はぁっ……生き、てる……」
身の危険から一先ず解放され、仮想の脂汗がドッと湧き出る。
あのまま後数分経っていたなら、俺たちは確実に死んでいた。
「ふぅ……危なかったな、にいちゃん」
やはり同じ声音。
一体どこの誰だとばかりに首を回して––––、
「ところでよ、何であんなことになってたか、事情聞いてもいいか?」
振り返れば、そこにはバンダナをつけた、無精髭の生えた野武士ヅラの男がいた。
その後ろには、三者三様な体格の男たち。
彼らが、展望台にいた俺たちを見つけ、手助けしてくれたのだと悟った。
「あ、あの……」
お礼を言おうと思うのに、もごもごと煮え切らない態度。自分で自分が嫌になる。
先程までは必死で気にならなかったが、元々はリアルで対人スキル皆無の身。例え同性相手だろうと、初対面で、さらにあからさまな年上ともなれば口が思うように動かなくなってしまう。
辿々しい俺を見て、何を思ったか野武士ヅラの男は二カッと屈託無く笑う。
「俺はクライン。よろしくな」
男––––クラインはそう名乗って、握手でも求めるように、片手を伸ばしてきたのだった。
「俺は……シラタ、です」
その伸ばされた手を、俺は恐る恐ると握り締めた。