小野妃名子にはおおよそ家族と呼べる存在が一人しかいない。
祖父母は既に他界。兄弟姉妹もなく、母も––––交通事故でこの世を去った。
たった一人同じ屋根の下で暮らす父は仕事に追われている。然程裕福な家庭であるわけでもない。必然的に、妃名子が家事全般を受け持つことになった。
昼間は学校、夕方は一人。日が落ちれば、夜九時には帰宅する父と夕食を摂る。そんなサイクルで、日々は過ぎて行く。
金銭的余裕はない。賑やかな家でもない。けれども妃名子は、父親と自分の住む家が、好きだった。
確かに満ち足りていたと思う。けれども父は、そうは思っていなかったようで。
「これ、買って見たんだが……妃名子、使い方わかるか?」
言いながら父は、手に持っていた紙袋から、大きなヘルメットのようなものの写真が描かれた箱と、ディスクケースを取り出した。
それは今、テレビにネットニュースにと、世を騒がせている話題の品だった。
「ナーブ、ギア……? お父さん、これ、どうしたの!?」
「有給とって並んで買って来たんだよ」
「そうじゃなくて! ……えぇと、それもそうだけど! こんな高いもの、買うお金あったの?」
勤勉な父が、有給を三日間もとった。驚くのはそれだけで足らず、理由も言わずに有給のうち二日間は丸々自宅に帰って来なかったのだ。いざ蓋を開けてみれば、十数万円は下らないゲーム機を徹夜で並んで買って来たなどと言う。
金額面の心配もそうだが、何よりたかだかゲーム機にそれだけの大金を注ぎ込むなど、父の正気を疑った。いつからそんなゲーム好きになったのだ、この人は。
「金に関しては、少しずつ貯金しておいた分があったんだ。それを少し使った」
「少し、って……」
「もうすぐ誕生日だったろう? 最近はロクに祝ってやれてなかったし、あんまり父親の役目ほっぽり出してると、母さんに怒られちゃうからな。でも、妃名子の欲しいものなんて聞いたこともなかった上に、いざ何か買おうとすれば、お前は絶対安いものにしろって煩いから……最近話題だったこいつにしてみたんだよ」
トントン、と軽く箱を叩いてみせる。
よく見れば、父の目の下に薄いクマがある。
それもそのはずだ。二日間殆ど寝ていないなら、深刻な寝不足状態にあるはず。
「お父さん……」
実を言えば、妃名子はこの手のゲームにあまり興味はない。すごいな、時代もここまで来たのか、などとニュースで見かけた際も薄い反応しか頭には浮かばない。どちらかといえば、小説のような、静かに楽しめるものの方が好きなのである。
しかし、
「……じゃあ……ひな、こ……誕生日、おめ、で、と、ぉ……」
なんとか最後まで口にして、夢の世界へと旅立ってしまった疲れ果てた父を見ていると、そんな不躾なことは言えなくなってしまう。
だから代わりに、純粋な感謝の念を紡いだ。
「……ありがとお父さん。使ってみるね」
それが、最後の会話だった。
どうしてこんなことになったのだろう、と思う。
このゲーム––––ソードアート・オンラインにログインしての第一印象は、『肌に合わない』だった。
剣で敵を倒せ、などと言われても、誰が好き好んで動物を斬り殺そうとするのか。それが普通のRPGゲームなんかならともかく、現実に酷似したこの世界でのその行為はとてつもなく野蛮だ、と思った。真に受け取りすぎなだけかもしれないが。
だからといってすぐにログアウトするのは父の想いを無下にしているように思えて、数時間は遊んでみることにした。
当初の予定通り、数時間が経過する。
けれどもやはり印象は変わらず、ひとまずログアウトしようと思ったその時だった。
––––メニューの中に、ログアウトボタンが無いことに気づいた。
そこからはトントン拍子に事が進んだ。
急に体を光が包み込んだかと思えば、次の瞬間には何故かログイン地点に戻されていて、ヘンテコな赤フードのアバターが空に出現し、こう宣言したのだ。
『この世界で死ねば現実でも死ぬ』と。
そこから先の記憶は曖昧だった。恐怖に支配された思考は十分な働きをせず、気づけば走り出していて。
見晴らしのいい展望台。落下防止柵のないその場所で、投身自殺を図っていた。
ただただ、父にもう一度会いたかった。
訳の分からないことを言う赤フードなんて無視して、早くここから抜け出して、それで。
––––その先に何があるかなんて、きっと心の底ではわかっていた。
無情なる、『死』。
それでも、恐怖を拭いたい一心で、身を投げた。
「何で、あんたは、泣いてたんだ、よっ……!」
けれどもまさか、転落していく体を、掴んで阻止されるとは、思ってもみなかった。
真剣な、目だった。
妃名子の腕を掴んで離さないその少年は、赤の他人であるはずの自分に、真摯に訴えかけ、決して死ぬことを認めようとしなかった。
「死ぬなっ……現実に戻りたいんじゃないのかよっ……!? 家族とかっ、友達とかっ……大切な人、いるだろっ……!? また、会いたくないのかよっ……!」
貴方には関係ないだろう。何で構うんだ。そんな文字群が、脳裏をよぎったけれど。
「……お父さん」
何より、少年の『大切な人』という言葉に心を揺さぶられて。冷静になり始めて。
生きて、父に会いたいと願う、自分がいた。
「ぐ、ぉぉっ……!」
少年は喉から声を絞り出す。
そのうち、彼の力では自分を引き上げることは叶わず、それどころか下手をすれば少年も転落してしまう。……いつまでも膠着したその状況から、それを悟ってしまった。
しかし少年はその手を離さない。力んで、現状に抗おうと、踏ん張って。
全て無駄だと、彼もわかっているはずなのに。
自分を離せば、彼はすぐにでも自由になれるはずなのに。
––––どうしてこの人は、この状況の中でもなお、自分を助けようとしてくれるのだろう。
なんで、そこまで。
「っ……」
強い意志を感じる、目つきの悪い鋭い瞳。
その目がただ純粋にこちらを見据えている。
胸が、なんだか騒ついたような気がした。
こんな状況なのに。今まさに生死の境にいるに等しい、絶望的な状態なのに。
いつまでも、その真っ直ぐな瞳を見つめていたくなって、
「っ!?」
––––不意に強い力に引かれ、次の瞬間には地べたに横になっていた。
首を傾ければ、少年のすぐ後ろに、複数人の男性プレイヤーの姿があった。
「––––あ、はい……それで、合ってます」
少年の声。先程までの訴えかけるような強い意志はそこになく、まるで人格が変わってしまったかのよう。
「で、にいちゃんたちはこれからどうすんだ? このままこの街にこもってるか? それとも……」
語尾を濁しているのは、如何なる心遣いによるものか。
圏内で助けを待つか、圏外で戦うか。……そんな問い掛け。
少年は––––シラタは、どちらを選ぶのだろう。
じっと、彼に視線を向ける。
「ゲームクリアを、目指します」
「っ」
正直なところ妃名子は、シラタは自分と同じなのではないかと考えていた。
現状を悲観していて、この展望台へ来たのだって、自分と同じように楽になりたいからなのではないか、と。
–––––でも、彼は自分とは違う。
「俺は……悪運の強い、βテスターですから」
辿々しく、決して語気も強くはない。
それでも、その瞳には強い意志が籠っていて。
彼が現実に置き去りにして来てしまったものの大きさが、身にしみて感じ取れた。
–––––それに比べて。
妃名子はどうだ。つい先程まで、自分勝手にもその命を断とうとしていた。シラタが来ていなければ、とうにナーブギアに脳を破壊されていたことだろう。
–––––なんで、彼はそこまで。
先と同じように疑問に囚われる。
あの強い意志の籠った鋭い目。辿々しくも先を見据えた言葉を紡ぐ口。
–––––わからない。わからないけど、
「ああ。ありがとよ––––もう、行くのか?」
「えっ……」
––––もう、行っちゃうの?
いつの間にか、シラタは妃名子やクラインたちに背を向けていた。
––––まだ、何もわかってないのに。
「はい。本当にありがとうございました」
––––知りたい。なんでそんなに強く在れるのか。
「––––また、いつか」
「待っ……」
引き止めるのも間に合わず、シラタは素早い足取りで去ってしまった。
––––聞けなかった。
「なあ、嬢ちゃん」
「……はっ、はひっ!? なんでしょうかっ!?」
まさか自分に声がかかるとは思わず、妃名子は素っ頓狂な声を上げる。
それを見て、声をかけた張本人––––クラインは、あー……と気まずそうに頭を掻いた。
「えぇと……嬢ちゃんはアイツに付いてかなくて、いいのか?」
「……?」
付いて、行く?
「あ、いやいや。別に変な勘ぐりとか入れようってんじゃねえ。ただ」
「……ただ?」
「正直今のSAOでいつまでも圏内が安全かどうかなんてわからねえし、シラタみてえに圏外に出る選択肢もある。まあ、あんまり勧められたもんじゃねえがな。……嬢ちゃんは、やっぱり残るのか? なんなら、俺たちと」
「追いかけてみます」
即答だった。
–––そうだ、知りたいなら、彼を追いかければいいのだ。
確かに圏外は怖い。モンスターの攻撃を受ければこちらはそれだけ死に近づくし、下手をすればそのまま……。
それでも、何故だろう。彼を知りたくてたまらないのだ。
あの鋭い瞳を、もっと見たい。彼の声を、もっと聞いて見たい。
これはただの好奇心ではないように思えた。何か別の感情、それも、とてつもなく大きな。
けれど、
「その、ありがとうございました」
クラインたちに頭を下げたのち、シラタの消えていった方向を目指し、足を踏み出す。まだ、そう遠くへは行っていないはず。
––––お父さんにもう一度会いたい。そして、そのためにも。
「シラタのこと……知りたい……!」
何か目的が歪に混じり合った、奇妙でそれでいて心地よい行動原理だった。