やはり俺たちの高校生活は灰色である。〜名前のはなし〜 作:発光ダイオード
「だから由比ヶ浜さん、足利尊氏の字が違うわ。“高”じゃなくて“尊”の字よ」
「あれ、そうだっけ?」
放課後、部室の扉を開いた俺、比企谷八幡の耳に飛び込んできたのは雪ノ下の呆れたような声だった。見ると机の上には日本史の教科書とノートが広げられ、なにやら勉強会のようなものが催されている。向かいの席には福部、千反田、折木の三人が並んで座っている。伊原は今日は来ていないようだ。福部は雪ノ下たちのやり取りを面白そうに眺め、千反田と折木は静かに本を読んでいる。いつもと変わらない風景だ。奉仕部と古典部が合併して数ヶ月、最初はぎこちなかった俺たちもお互いが同じ部室に居ることに慣れ、今では初めからそうであったかのように自然に放課後を過ごしていた。
手近な席に俺が腰を下ろすと、千反田がそれに気づいて本を机の上に置いた。
「お疲れ様です、比企谷さん」
「おう、おつかれ。ところでこいつらなにやってんの?」
「明日、由比ヶ浜さんのクラスで日本史の小テストがあるそうなんです。比企谷さんは大丈夫ですか?」
ちらりと雪ノ下たちを見る俺に、千反田は笑って答えた。そういえば日本史の授業でそんなこと言っていた気がする。えっと、足利尊氏……たしか鎌倉時代後期から南北朝時代の武将で、室町幕府の初代征夷大将軍だったか。
「由比ヶ浜さん、足利尊氏って奴はね、酷い奴で、後醍醐天皇の親権を裏切って…」
「ちょっと福部くん。由比ヶ浜さんに変な時代の尊氏観を植えつけないでもらえるかしら」
福部が由比ヶ浜に向かって面白そうに話し出すと、雪ノ下は眉をひそめて文句を言う。俺だったらビビって謝っていたかもしれないが、福部は臆することなく冗談っぽく笑って応える。
「ごめんごめん。ちょっと最近、太平記を読んでてさ。けど雪ノ下さん、由比ヶ浜さんが書いた字もあながち間違いじゃないよ。尊氏は尊氏になる前は高氏だったからね」
福部は自信げにふんと鼻を鳴らすが、雪ノ下の隣で話を聞いていた由比ヶ浜は頭上にクエスチョンマークを浮かべている。口頭だと“タカウジはタカウジになる前はタカウジだった”と発音されたので、思考がピタリと止まってしまったようだ。
「どういうこと?」
福部は由比ヶ浜のノートを拝借し、そこに「尊氏」と「高氏」を並べて書く。そして「高氏」のほうを丸で囲み、
「最初、彼はこの高氏だった。それが手柄を立ててこっちの尊氏に変わった」
そう言いながら高氏から尊氏に矢印を引き、さらに尊氏を大きな丸で囲う。
「主人である後醍醐天皇から“尊”という字を貰ったんだ」
「なんで“尊”?」
「天皇の諱……名前が尊治なのよ」
横から雪ノ下が答える。
「へぇー」
「そうそう。この時代、主人から文字を褒美として受け取る事はよくあって、日本の伝統的な名付け方のひとつとも言えるね」
そう言うと福部は、俺と雪ノ下と由比ヶ浜の顔を順番に眺める。
「そう言えば鎌倉時代といえば、三人の名字は何か鎌倉に関係あるのかな?」
「何言ってんだ?」
こいつが何を言ってるのかわからない。同じように由比ヶ浜も首を傾げる。
「由比ヶ浜ってのは鎌倉市の相模湾に面した海岸だったか。そいつはよく聞くが、雪ノ下や比企谷なんて聞いたことないぞ」
そういったのは折木だった。いつの間にか読んでいた本を閉じて話に入ってくる。
「なにいってるんだホータロー。雪ノ下も比企谷も鎌倉市内の地名じゃないか」
「それは人生において必須知識なのか」
「比企谷なんて地名、鎌倉にあったかしら?」
雪ノ下も口許に手を当てて考える。
「正確には“ひきがや”ではなく“ひきがやつ”と読むんだ。漢字で書くと比企ヶ谷。古い地名で残念ながら今はもう無いけど、この近くにある妙本寺が建てられている谷戸は比企谷って呼ばれていて、鎌倉時代には比企能員一族の屋敷があったらしいよ。ひょっとしたら比企谷君は比企一族の末裔かも知れないね」
「いや、比企谷は地名姓なんだろ。だったらそれは無いな」
「可能性の話さ」
折木の反論に福部はかぶりを振って返す。
「つーか、そんなどうでもいいことよく知ってるな」
「僕はデータベースだからね」
俺の憎まれ口に対しても、福部は得意気に笑った。すると雪ノ下がぽつりと呟く。
「けれど、比企谷君の名前が八幡なら、完全に違うとは言い切れないんじゃないかしら」
「八幡って神社とか神様の事?」
「十中八九そうだろう。というか、漢字も同じだし、それで違うと言う方がおかしい」
「八幡っていうのは八幡神のことだね。八幡大菩薩とも呼ばれていて、全国の武家から武運の神として崇敬を集めていたんだ。八幡宮も全国津々浦々、いたるところにあって、その数は稲荷神社に次いで全国で二番目に多い」
「へぇー、すごいんだね」
由比ヶ浜は関心したように声を上げる。
「鎌倉市には三大八幡と呼ばれる鶴岡八幡宮もあるし、比企谷八幡の名前のルーツは間違いなく鎌倉にあるね。昔、八幡の祖先は比企ヶ谷に住んでいた。名前の由来は鶴岡八幡宮で、八幡の両親が武士のように強く立派に育ってほしいと思って名付けた。こんな感じかな」
「当の本人は真逆に育ったみたいだけどな」
「名は体を表すとはよく言うけど、誰にでも当てはまるものではないのね」
折木は意地悪そうににやりと笑い、雪ノ下は不憫そうに俺を見つめる。
うるせぇ、ほっとけ。だがまぁ、たしかに興味深い話ではある。今までは名前について調べてみようなんて考えたこともなかったが、例えば雪ノ下と由比ヶ浜の名前はどうだろう?雪乃と結衣……苗字と名前が重複しているが、単に語感がいいからと言う理由だけで名付けるには些か安直すぎる。うむ、少し気になってきた。
だが仮にそれを考えてみるにしても、恐らく今ここにいる奴らの推理は全くアテにならないだろう。なぜなら、俺は自分の名前の由来を既に知っているからだ。昔、親から教えてもらったのだが、それは由緒の正しさも仰々しさの欠片もなく、ただ聞けば鼻で笑ってしまうほどに大した事のない理由だった。
「残念だが、俺の名前の由来は鶴岡八幡宮じゃねぇよ」
「まあ、そんな感じじゃないしな」
なんだと、このやろう。
「じゃあなんだろ?」
「俺の名前は……」
そう言いかけたところで、突然由比ヶ浜がなにか思いついたようにぱっと千反田の方を見る。
「ちーちゃんはっ?千反田えるって平仮名だけど、それにも意味があるの?」
「わたしですか…?」
突然話を振られた千反田は少し驚いた表情を見せる。
「言われてみると、結構珍しい名前だな」
「確かに。旧家にしては日本人っぽくない名前だ」
いつの間にか話の興味は千反田へと移っていた。少し寂しい…いや、別にいいけど。
千反田の家はこの辺りに古くから土地を持つ豪農で、地域の祭祀にも深くかかわる名家でもある。そんな由緒正しい家の娘ならもっと古風な名前でもおかしくはないが、えるというのは少し俗っぽい気もする。
「“L”とか“ELLE”とか英語表記が似合いそうだよね」
「英語…なんかカッコいいね」
「アメリカとかだと長さの単位として使われていたね。後はヘブライ語で神を意味する言葉だ」
俺たちがああだこうだと言い合っていると、千反田は口許に手を当ててくすくすと笑う。その笑いを止められないまま全員の顔を見まわし、こう言った。
「内緒です」
呆気にとられる俺たちをからかうように、千反田はまた笑う。
「冗談です。実はわたしの名前、とても日本的なんですよ。伝統的な名付け方をしているんですけど、ちょっと現代的な響きになっちゃったんです。でも、結構気に入ってるんです」
「興味深い話ね」
どことなく楽しそうに言いながら、雪ノ下は椅子を引いて佇まいを正す。
「わたしの名前が平仮名なのは、矛盾するからなんです」
「どう言うこと?」
由比ヶ浜が首を傾げると、千反田は閃いたとでも言うように瞳をキラリと輝かせ、胸の前で両手をぽんと合せる。
「では、これを問題にしましょう。わたしがなぜ“千反田える”という名前なのか、ぜひ考えてみてください!」
千反田は実に楽しそうに笑って言った。