やはり俺たちの高校生活は灰色である。〜名前のはなし〜 作:発光ダイオード
千反田える。える…か。える、える……得る。
手に入れるとか自分のものにする、得する、もうける、機会や便宜に恵まれる、できる、可能、他にも優れているなんて意味もあったはずだ。いや、しかし……
「あっ!手に入れるとかの“得る”はどう?なんか幸せになって欲しいって願いが込められてそうじゃない?」
由比ヶ浜は閃いたとばかりに自信あり気に言う。まさかコイツと考えが被るとは。
「いや、男子ならまだしも、女子に“得”なんて漢字使うか?」
「だから平仮名なんじゃないの?」
あっ、そういうこと?
「ちょっと待って、由比ヶ浜さん。千反田さんは最初、自分の名前が平仮名なのは矛盾するからとも言っていたわ」
「矛盾…じゃあ“得る”の反対だと、“失う”とか“捨てる”とか?」
「それは名付け方としてどうなんだ?」
誰が好き好んで、そんな辛い名前を背負いたがるのか。
「逆に、周りのみんなに与えるってのはどうかな。みんなを幸せにする、みたいな願いが込められているなんてありそうじゃない?」
「“与える”から“与”を取って“える”…みたいな感じ?」
「あっ、いいねそれ」
由比ヶ浜はノートに「与える」と書いてから、「与」の字にバッテンを付ける。
なるほど。与えたから自分は“与”を失ったけど、逆に“える(得る)”になる……のか?うーん、わからん。
「けど、ちょっと回りくどすぎかしら…」
「うーん」
「だったらこう言うのは……」
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ちらりと千反田を見る。千反田は俺たちがああでもないこうでもないと話しているの身を引いて聞いていた。時折、何か言おうとしてパッと口を開くが、すぐにハッとなって両手でしっかりと口を押さえる。余計なことを言わないようにしているのだろうが、その仕草は随分と楽しんでいるようにも見える。いっその事もう言ってしまえばいいのに…。
そう言えばさっきからずっと折木が口を開いていない。こういう謎解きは折木の得意分野のはずだ。なのにずっと黙ってるとは。居眠りでもしてるのかと思い視線を折木の方へ移すと、折木はノートをぼーっと眺めながら指先で前髪をいじっていた。その仕草には覚えがある。すると、同じように気づいた福部が待ってましたとばかりに声を上げる。
「その顔は、何かわかったねホータロー」
「あぁ、まあな」
抑揚のない声で返事をする折木に、部室内の視線が集まって説明を求める。とその時、
「待って!もうちょっと考えさせてっ」
由比ヶ浜が叫ぶ。
奉仕部と古典部が一緒になってから、俺たちは幾つかの依頼や謎を解決してきた。雪ノ下の知識や由比ヶ浜の閃きもあったが、推理という点においてはほとんど折木が謎を解いてきた。俺には推理力も閃きもないので話をただ聞いているだけだったが、由比ヶ浜や伊原のようにそのことを特に悔しいなどとは思わなかった。できる奴ができる事をすればいいのだ。それでいいのだ。
まぁ由比ヶ浜の気持ちもわからなくはない。こういう人間が側にいれば、誰しも少なからず触発されるものだ。
別に折木に謎を解かれることに悔しさは感じないが、たまには予想外の事をして折木の呆気にとられる顔を拝んでやろうなんて思わない事もない。
要するに平たく言えば、俺も少しやる気になったのだ。
そんな折木は由比ヶ浜の歯切れのいい文句に目を丸くしていたが、やがてふっと息を吐くとにやりと口許を歪めた。
「ならヒントをやろう。そうだな……つまり、千反田は“平仮名は矛盾する”と言いたかったのではない」
「………」
「何言ってんだ、おまえ」
「まあ実際、千反田さんの名前は平仮名だからね」
「そもそも平仮名は表音文字だから矛盾など起きるはずがない。だから、千反田の言葉をより正確に言うなら“えるという名前が平仮名になったのは漢字で書くと矛盾が起きるから”となる。そうだな?」
俺たちの反応を無視して話を続ける折木に、千反田はにこりと微笑んで肯定した。
「千反田の名前は漢字で書くと矛盾する……変じゃないか?都合が悪いなら別の漢字を使えばいい。だがそれをしなかったのは何故か…」
「……」
「もうひとつ、千反田の名前は伝統的な名付け方をされた。ところで、伝統的な名付け方とはなんだと思う?」
「あっ、足利尊氏!」
由比ヶ浜は授業中の小学生ように大きく手を上げた。折木はそれを見てコクリと頷く。そういえばさっき足利尊氏の話をしてたな。尊氏は主人から字を貰ったとかなんとか。
「足利尊氏は主人から“尊”の文字を貰った。他にも、例えば徳川将軍なんかは“家”の字を継承する事が多い。家康とか家綱とか…そんなのばっかりだ。こういうのをなんと言ったか……比企谷、お前国語は得意じゃなかったか?」
おい、急に振ってくるなよ。いや、わかるぞ。エンキじゃなくてキンキでもなくて…なんだっけ。あっ、そうだ…
「…偏諱だな」
「そう偏諱だ。偏諱は主人だけじゃなく、親族からもよく貰う」
「千反田の家は古い家柄だ。千反田家もその伝に違わないだろう。つまり、貰った漢字だったから変えられなかったんだ」
「父方と母方からそれぞれ一文字ずつ漢字を貰ったけれど、いざ合せてみると意味が食い違った。ということかしら」
「まぁ、そういうことだろうな。同じ人間がわざわざ矛盾するふたつの漢字を送るのはおかしい。それぞれ別の人間から貰ったとすれば、その考えが妥当だろう」
なるほど。つまり、千反田えるの「える」の字はもともと漢字だったってことか。える、える……栄留、絵瑠、絵琉、永留、永流、恵流……思いつくだけでもキリがない。
「福部、命名に使える漢字ってわかるか?」
「何千とあるよ」
そりゃそうだ。“え”と“る”だよ。それくらい分かれ。俺がムッとした表情をすると、福部はからかうように舌を出して笑った。
「わたし調べるよ」
由比ヶ浜は言うが早いかスマホを操作して調べだす。ものの数分で漢字は一通りノートに書き出され、そこから全員で名前に使われそうな字をピックアップしていく。
「こんなものかな」
え 衣 恵 依 絵 江 枝 笑 重 慧 徳 守 苗 会 得
る 瑠 琉 留 流 硫 榴
白いノートの上に候補の漢字が幾つも並ぶ。この中に千反田に送られた漢字があるはずだ。える、えるだろう。なんだったか。日本的。そして矛盾する。
矛盾する。意味が食い違う。「え」と「る」で食い違う漢字。字を贈るくらいだからそれなりの意味を込めるはず。「え」は候補が多い。「る」のほうから考え、それと矛盾する字を考えたほうがいいか…。
る。る。る。るーるるーるるるーるるー。
「比企谷君、変な鳴き声出さないでくれる?」
「ヒッキー、キモい」
女子二人から悲鳴を飛ばされる。悪かったな。頭をぐるぐると働かせていたら、いつの間にか声が漏れていたようだ。口をギュッとつむり、そのまま集中しているふりをしてノートに並べられた漢字を眺める。
「字を貰ったのは千反田さんが生まれる前かしら?」
雪ノ下は口許に手を当てながらノートを見つめて千反田に訊く。
「いえ、どちらもわたしが生まれた後に送られたそうです」
「…そう。なら、とりあえず“流”の字は外してもいいわね」
「なんで?」
「女の子が産まれたとわかっているのに、“流”なんて字を贈ったりしないでしょう」
確かに。今の世の中はどうかわからないが伝統ある家柄なら……
ん?流れる…
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…そっか。よし、わかった。
顔を上げる。俺はノートを自分の方へ寄せて一枚めくり、漢字を一息に書き上げる。二文字。
「留」と「江」。
覗き込んでくる雪ノ下と由比ヶ浜、それに福部たちに見えやすいように、広げて机の真ん中に置く。あぁ、と雪ノ下が頷いた。
「ヒッキー、これは?」
俺はまず「留」を指し、
「これは“とどまる”。その場に置くって意味だ」
次に「江」を指す。
「これは“こう”。大きな川って意味で、ゆったりとした水の流れをイメージさせる」
そして、わざとらしく胸を張った。
「千反田が貰った字は、この二文字だ。両方とも悪い意味じゃないし、そこそこつかわれる。だがこの二つが並ぶと、読み方は“える”でいいとしても、意味のほうが訳がわからなくなる」
「千反田える」の本来の名前は「千反田江留」。
さぁ、どうだ。見ると、千反田はうふふと声を漏らす。
「正解です。父の家から、おおらかで穏やかな人間になるように“江”の字を、母の家から幸せを手放さないようにと“留”の字を貰ったんです。並べたら意味にはなりませんでしたけれど、この響き、好きなんです」
千反田はそう言って嬉しそうに、照れくさそうに笑った。
由比ヶ浜は感動さえ覚えているように、しみじみとうなずいた。
「名前を受け継ぐ、か。なんかすごいねっ」
「いえ、皆さんの名前にだってちゃんと素敵な願いが込められてるはずです」
「そっかー。わたしも帰ったらお母さんに訊いてみよう」
「いやいや、折角なら少しは考えてみなよ」
「えへへ」
謎を解いて晴れやかな気持ちで談笑している由比ヶ浜たちを眺めていると、ふと折木が思い出したようにこっちを見る。
「そう言えば比企谷、結局お前の名前の由来はなんなんだ?」
「は?」
「さっきなにか言いかけてただろ」
あぁ、そういえば。
別に言うのは吝かではない。千反田の名前の由来を知った後だと若干の言い辛さがあるけども…。
「別にどってことない話だ。ただ俺の誕生日が八月八日ってだけのな」
「それだけ?」
「それだけだ」
折木は鳩が豆鉄砲を食らったような間の抜けた表情をした。心の中で小さく微笑む。
名前の由来なんて単純なものだ。それでいていろんな意味にも捉えられる。
だから面白いのかもしれない。