深夜、毒蜘蛛はその鋭利な牙を大和の首筋に突き立てた。
嫉妬心に駆られるがままに肉を噛み締め、熱い血を溢れさせる。
命の証を吸い上げて、音を立てて舐めとり、また貪り──漸くその激情は治まった。
途端に悲しげな声をあげ、己が傷付けてしまった首筋を舐めあげる。
堪らず彼女──アラクネは謝った。
「ごめんなさい……」
「いいんだよ、俺が悪かった」
「ッ」
頭を優しく撫でられ、アラクネはその逞しい胸板に顔を埋めた。
子供幽霊達も寝静まった深夜、暗い部屋の端で座る大和にアラクネは跨がっていた。
淡い月明かりに照らし出された彼女の顔は、世界最強の暗殺者とはとても思えない弱々しいものだった。
大和は彼女の額にキスを被せ、震えるその唇に己が唇を重ねる。
血の味がした。
アラクネは涙を零して受け止める。
長い長いキスを終えて──アラクネは喘ぐように囁いた。
「我慢できなくなるの……っ、アンタがあいつ等に取られたと思うと、自分を制御できなくなるッ」
涙目で大和にすがるアラクネ。
大和はそのか細い身体を抱き締める。
「なにも言うな。今夜は……いいや、当分はお前だけを愛してやる」
「ほんと……?」
「ああ、俺は昔からお前に嘘はつかねぇだろう?」
微笑まれ、アラクネも花が咲いた様に微笑んだ。
「嬉しい……愛してる、大和……ッ」
「俺もだ、アラクネ」
お前は特別な女だ──その言葉をキスで伝える。
アラクネは涙を流し、彼の首に両腕を回した。
二人は静かに、されど熱い夜を過ごす。
さざ波の音すらも聞こえなくなるほどに……
◆◆
翌朝早く、大和は符術で雅貴から誘いを受けた。
温泉に浸かりながら語り合わないか、と。
断る理由も無いので、大和は旅館の屋上にある露天風呂へと向かった。
赴くと、ちょうど朝陽が地平線から顔を出したところだった。
大和は既に湯に浸かっている雅貴に話しかける。
「俺と語り合いたいって?」
「ああ、貴殿から学ぶことは多い。是非語り合わせてくれ」
「まぁいいぜ、暇だからな」
湯を浴び、汗を洗い流し、大和はゆっくりと湯船に浸かる。
深いため息を吐く彼に対し、雅貴は苦笑を向けた。
「流石の貴殿も、あの女傑達には手を焼くか?」
「まぁな」
「首筋の傷。それに胸板や腕に付いた無数の赤い痣……いやはや、凄まじいな」
「独占欲が強いんだよあいつ等は……ったく」
結った黒髪を解き、リラックスモードに入る大和。
雅貴はクツクツと喉を鳴らした。
「で……何を語らいたい」
「そうさな。では単刀直入に──貴殿はこれからの世、どうなると思う?」
「荒れるだろうな。下手したら四大終末論の時と同じくらいに」
寛ぎながらそう言うので、雅貴は目を丸めた。
「根拠は?」
「根拠もなにも、お前等の存在がそうだろうが。他にもソロモン……いいや、今はヒトラーだったか? アイツ、南極大陸を拠点にして色々暗躍してるみてぇだぜ。あとはアレだ、表世界も騒がしくなってきたな。今までにない傾向だ。新しい超越者も増えてきたし、勢力も乱立してる」
大和はゆっくりと朝陽に顔を向ける。
「仮初めの平和が終わろうとしている。今まで押さえてたもんが一気に溢れ出ようとしているんだ。……もう誰にも止められねぇ、時代の転換期だ。最悪、表世界と裏世界の境界線が無くなっちまうかもなぁ」
「我々の存在が公に曝されると?」
「そうならねぇよう表世界の勢力が尽力するだろうが……最悪、全世界が魔界都市化だな」
「素晴らしいではないか。俺の望む楽園だ」
「ほざけよ。そんな面倒臭ぇ事態になる前に俺が……まぁ、報酬次第で何とかする」
「クククッ……貴殿は本当にブレないなぁ」
雅貴は面白そうに笑う。
その後、子供の様な無邪気な面で問うた。
「貴殿は何故、勢力を築かない?」
「何だ、やぶから棒に」
「貴殿を慕う者は多い。その気になれば七魔将の女性達は勿論、毒蜘蛛殿、這い寄る渾沌殿、傾世の九尾殿──皆付いてくるだろう。そうなれば俺達もソロモン殿も勝ち目はない。真に畏怖される組織が誕生する」
「ありえねぇよ」
「何故そう言いきれる? 貴殿であれば本当に……」
「アイツ等は、独りぼっちの俺に惚れたんだろう?」
「……!!」
「だから俺が例え組織を作ったとしても、誰も集まらねぇよ。てか、そもそもだ」
俺が嫌だ。大和はそう断言する。
「組織なんて面倒臭ぇ……所属するのも嫌だね。俺は、そーゆーしがらみが大嫌いなんだよ」
「…………」
「だから、お前が言ってる「もしも」はありえねぇ。絶対にだ」
「……クククッ、ハッハッハッハッハ!!!!」
雅貴は爆笑した。大爆笑である。
「そうかそうか、そうだな!! これは貴殿のみならず、貴殿を愛する女性達にも無礼な質問だったな!! いや失礼!!」
非礼を詫びると、雅貴は心底嬉しそうに告げた。
「貴殿と語らうのは誠面白い。目から鱗がどんどん落ちていくよ」
「おだてすぎだ」
「いいや、貴殿との語らいは百の黄金にも勝る。……ううむ? 前にも似たような事を言ったか?」
「さぁな」
「クククッ。ああそうさな……貴殿の在り方は、まるで万華鏡だ」
雅貴はじっと大和を見つめだす。
「貴殿を愚者と謗るのか、賢者として敬うのか。殺し屋として恐れるのか、英雄と讃えるのか。怪物と恐れるのか、益荒男として愛するのか──その者の性別や種族、価値観によって抱くイメージが変わってくる。……フフフ、どれが本物の貴殿なのかな」
雅貴は面白そうに顎を擦り、そうして首を横に振るう。
「いいや違うな……全て貴殿なのだ。愚劣で思慮深く、殺戮者でありながら英傑。怪物にして男の理想像……全て間違っていない。全て正解だ」
「…………」
「いやはや、実に面白い男だよ。貴殿は」
雅貴から純粋な瞳を向けられて、大和はそっぽを向いた。
「……あんま、俺を『そういう』目で見るな。こそばゆい」
「……フフフッ、すまない。少し熱くなってしまった」
二人して肩を竦め、昇ってきた朝陽を拝む。
ふと、雅貴が唐突に言った。
「なぁ大和殿、弟子をとる気はないか? 今なら陰陽風水をかじったそれなりに優秀な男が」
「断る」
「フハハ!! 一刀両断されてしまった!!」
「ったく……」
呆れながらも、大和は可笑しそうに笑っていた。
◆◆
午前中、湘南の浜辺の前で。
大和は雅貴と七魔将に別れを告げていた。
「アラクネと幽香は先に帰らせた。色々面倒だからな」
その言葉にウリエル、フェンリル、バロールがほくそ笑む。余程アラクネの事が嫌いなのだろう。
大和はやれやれと肩を竦めた。
「あと正宗、幽香達の友達になってくれてサンキューな」
「……フン、貴様に礼を言われる筋合いは無いわい」
鼻を鳴らしてそっぽを向く正宗に対し、七魔将全員がニヤニヤと笑みを向ける。
大和と雅貴にも向けられたので、正宗はわざとらしく咳き込んだ。
その耳は真っ赤だった。
「クククッ……そんじゃ、またなお前ら。依頼があれば言えよ。報酬次第で受けてやる」
踵を返して去っていく大和。
その背に、雅貴は最後の問いを投げかけた。
「大和殿!」
「?」
振り返った大和に、雅貴は稚気を含んだ「らしい」笑みを向けた。
「これから訪れる激動の時代、貴殿はどう生きる!」
「……」
大和は一拍置くと、無邪気な子供の様な笑みを零す。
「今までと変わらねぇよ。俺は俺の人生を全力で楽しむ……それだけだ」
「……フフフ、そうか。ではまたな!」
「おう」
互いに背を向け離れていく。
大和の背が遠くなった頃に、ウリエルは雅貴に問うた。
「ねぇ雅貴、どうだったの? 大和の勧誘は。まぁ失敗したのはわかってるけど」
「無理だよウリエル殿。彼は誰にも従わないし、群れない。孤高の益荒男だ。……貴殿等も、そんな彼に惚れたのだろう?」
ウリエルとフェンリル、バロールは目を丸めた。
そして艶然と笑う。
「その通りだよ♪」
「雅貴コイツめ……わかっているではないか」
「クククッ、一皮剥けたか?」
「ハッハッハ!! いや楽しかったぞ!! かけがえのない思い出になった!!」
笑いながら歩を進めていく雅貴。その背に続く七魔将。
彼等の行く先には蒼穹の青空と、天頂にまで昇る入道雲が待っていた。
夏の一時が終わり──そうして嵐がやってくる。
世界を巻き込むほどの『嵐』が、間を置かずして。
デスシティも表世界も巻き込んだ、盛大な死のパーティーが始まろうとしていた。
《完》