「天使病?」
斬魔が訪れる少し前──大衆酒場ゲートのカウンターにて。
艶のある声が響き渡った。
声の主は小首を傾げていた。
緊張感がまるで無い。
野性的で、しかし妖艶な美丈夫。
世界最強の殺し屋にして、世界最高の武術家である。
その容姿は男としての理想の一つを体現していた。
こんがりと焼けた小麦色の肌。
二メートルを超える規格外の体躯には、実用性に特化した筋肉しか付けていない。
結われた黒髪は後ろに流されており。
完璧に配分された目、鼻、口元は超一流の芸術家でも再現できない。
美しいが、それ以上に凶悪だった。
灰色の三白眼は凍えるほど冷たく。
大きな口に並ぶギザ歯は、彼の性質を端的に表している。
何より、その身に纏う雰囲気。
幾千幾万の「死」と「憎悪」を混ぜ合わせたかような、異様なオーラ。
一体どれだけ殺せば、どれだけ恨まれれば、こんなオーラを纏うことができるのか──
死と憎悪を手懐ける男、大和。
彼は如何なる妖物、邪神をも殺戮する最強の武術家。
そして、如何なる女をも堕としてしまう魔性の益荒男である。
彼はグラスを満たしていたブラックラムを一気に呷った。
そして、天使病なる話題を振ってきた店主と視線を合わせる。
「天使病って、アレか? 天使を形成するナノマシン的なもんが生き物に感染して、あーだこーだってやつ」
「適当だな、オイ」
思わず肩を落とす店主。
金髪をツーブロックに刈ったこの偉丈夫はネメア。
大衆酒場ゲートを切り盛りする豪傑であり、世界最強の傭兵である。
彼は友人の知識の無さに辟易しつつも、新聞を畳み、説明を始めた。
「天使病。かつて世界を滅ぼしかけた最古のアンドロイド「天使」の残滓である超々極小サイズのナノマシンによって引き起こされる、
「あぁ、思い出した思い出した。確か「七罪」に引っかかる奴らが発症するんだったな。発症すれば異形の化物になるってやつ。俺も時々、依頼で叩っ斬るぜ」
「なら覚えておけよ……」
溜め息を吐くネメアに対し、大和はケラケラと笑った。
「殺す奴の素性なんざどうでもいいし、興味ねぇ。俺は金さえ貰えば誰でも殺すスタンスだからな」
大和はラッキーストライク(煙草)を取り出し、ジッポーで点火する。
ネメアはそんな彼をジト目で睨んだ。
「そういえば、何でお前天使病にかからないんだ? 七罪コンプリートしてるだろう」
七罪──通称「七つの大罪」
唯一神教によって取り上げられる、人間の欲望の発露たる七つの項目である。
傲慢
嫉妬
憤怒
怠惰
強欲
暴食
色欲
天使の残滓──霊子型ナノマシンは、この七罪に反応する。
そうして感染された人間は、天使でも人間でもない、酷くグロテスクな怪物に変貌してしまう。
それが、天使病。
一度この病気にかかってしまうと、もう二度と元には戻れない。
更に周囲の生物を無差別に襲い始めるので、駆除するしかない。
この天使病──実はデスシティでは比較的ポピュラーな病気だった。
インフルエンザみたいなものだ。
理由は、この都市の在り方に起因する。
世界で最も濃い欲望が渦巻く魔界都市、デスシティ。
この都市の住民達に対し、霊子型ナノマシンは過剰に反応するのだ。
大和もまた、大きな欲望を抱えている。
犯した罪も数知れない。
天使病を発症する確率は高い筈なのだが──彼は大声を出して笑う。
「ハッハッハ! 七罪コンプリートねぇ! たしかにそうかもしれねぇな! だがこの俺が、ナノマシンなんぞに負ける筈ねぇだろ。魔法使いや邪神から何万と呪詛をかけられてる男だぜ? ンな柔じゃねぇ」
自信満々に言う大和。
彼は殺し屋という職業柄、あらゆる存在から恨みを買っている。
その身には、黒魔術を始めとしたあらゆる呪詛がかけられていた。
本来であればとっくに死んでいる筈──
しかし、大和は「闘気」と呼ばれる力で全て無効化していた。
闘気。
中国武術で重んじられる身体エネルギー「気」を戦闘用に練り上げたもの。
デスシティの武術家が好んで扱う、超高密度エネルギーである。
闘気には「同格以下の存在による、あらゆる異能・術式を無効化する」という特性がある。
この特性上、如何に強力な呪いであっても大和に影響を及ぼすことはできない。
ナノマシンと言えど「霊子」と呼ばれる神秘が含まれている以上、大和を害することはできないのだ。
大和は三白眼を細めながら言う。
「そうかぁ、天使かぁ。大昔にあらかたぶっ壊したんだけどなぁ。シブトい奴らだぜ」
大和の発言に、ネメアは太めの眉を顰める。
「やめろ。自分の年齢を自覚して嫌な気分になる」
苦い表情のネメアに、大和はニヤりと笑いかけた。
「いいじゃねぇの。俺もお前も、長く生きてる。そりゃ事実だ」
「……」
「ここまでくると、もう自分が人間なのかわからなくなっちまうよな」
大和は感慨深そうに、空になったグラスにラムを足す。
「ま、年齢なんざこの都市じゃ何の役にも立たねぇ。偉くなるわけでもねぇし、強くなるわけでもねぇ。ただ重ねていくだけのもんだ」
「……ふっ」
ネメアは思わず笑みをこぼした。
「まともな事を言うじゃないか、たまには」
「おいコラ。たまにはじゃねぇだろ、結構な頻度で言うだろ」
「口をあければ女の話題しか出ない奴が、よく言う」
鼻で笑うネメア。
大和は不機嫌そうな面で頬杖を付くと、話題を戻した。
「で、天使病の話だろう? どうしたんだよ。デスシティじゃ特段珍しいもんじゃねぇだろう」
「まぁな。今話題になっているのは、天使病が従来とは違う発症法をしている事だ」
「具体的には?」
「七罪を犯していない善良な一般市民が発症してる」
「……」
大和は口を半開きにした。
「それ、ヤバくね?」
「ああ。かなり嫌な予感がする」
二人して神妙な顔つきになる。
ネメアは言った。
「今回の一件、やはりと言うべきか。真世界聖公教会が動き始めている」
「面倒くせぇ。だがまぁ、動くだろうなぁ。何せ、アレは天使病を対処するための組織だ」
真世界聖公教会。
教会を持たないキリスト教の一派、プロテスタントが持つ唯一の教会。
天使病の患者を鏖殺する、ただそれだけの組織。
ネメアはその逞しい両腕を組む。
「しかもとびっきりの奴らが動く。天使殺戮士だ」
「聞いたことあるぜ。「真世界聖公教会の最高戦力」「プロテスタントが誇る最終兵器」「エンジェル・ダスト」。めっぽう腕が立つんだろう?」
大和はニヤリと笑う。
興味があるのだろう。
ネメアは意外だったのか、首を傾げた。
「何だ、面識がないのか? てっきりあると思っていたが」
「それがねぇんだよ。ちょくちょくこの都市に来て天使病の患者をぶっ殺してるらしいんだが……そん時に限って、俺が表の世界に行っちまってるんだよ」
「成程……まぁいい」
ネメアは話を本題に移す。
「大和、お前に依頼が来てる。件の真世界聖公教会からだ」
「ハァ?」
大和は頓狂な声を上げた。
「オイオイ、仮にも教会だろう? 殺し屋なんかに依頼していいのかよ」
至極最もな疑問だった。
教会と呼ばれる神聖な組織が殺し屋を雇うとは、一体どういう事だろうか?
大和の疑問に、ネメアが答える。
「今回の一件、デスシティ絡みの可能性が高いと判断したらしい。だからこそ、念のためにお前を雇ったという」
「へぇ……まぁいいか。で、報酬金は? 話はそれからだ」
まずは報酬金から。
大和はそういう男だ。
ネメアはあっけらかんに言う。
「10億」
「……いいねぇ、ヤル気出てきた」
モチベーションを上げる大和。
彼は早速、依頼の詳細を聞いた。
「で、依頼の内容は? 俺は殺し屋だぜ? 殺し以外の任務は受け付けねぇ」
「この都市に来る天使殺戮士と同伴し、元凶を抹殺しろ──とのことだ」
「……ハァ?」
一気に大和の機嫌が悪くなった。
その美麗な眉に皺が寄る。
「やっぱキャンセルだ。雑魚のお守なんざ勘弁だぜ」
「いいのか? 十億だぞ? それに、雑魚とも限らんだろう」
「ハッ」
大和は嘲るように鼻で笑った。
「巷で噂の天使殺戮士がどれだけ強いのか知んねぇけどよォ……所詮、表世界の住民だろう? たかが知れてる。まだこの都市の一般人のほうが使えそうだぜ」
大和は鬱屈げに紫煙を吐き出した。
しかし、ネメアは含み笑いを浮かべながら忠告する。
「そうとも限らんぞ。天使殺戮士の連中、中々やる」
「お世辞じゃあ、ねぇよな?」
「ああ。お前でも、油断していれば足元を掬われるぞ」
「…………」
大和は灰色の双眸を丸めた。
ネメアにそこまで言わせたのが意外だったのだろう。
「……お前にそこまで言わせるたぁな、少し興味が沸いたぜ」
吸殻を灰皿に押し込め、嗤う大和。
ネメアは頷いた。
「それは重畳。丁度、その天使殺戮士がこの店に来る頃だ」
いきなりの発言に、大和は表情を歪めた。
「話が進み過ぎだろ、オイ」
「緊急の依頼なんだ、察しろ。それに、強要はしてないだろう? 依頼を受けるか受けないかは、お前が決めろ」
「へいへい。ったく、ネメアさんは人使いが荒いぜ」
やれやれと肩を竦める大和。
すると──ウェスタンドアが開かれた。
現れたのは黒金の棺桶を背負った、全身黒ずくめの青年だった。
酒場にいる客人達が全員動きを止める。
エルフも、オークも、妖怪も幽霊も、サイボーグもアンドロイドも──
皆一様に、青年に見惚れていた。
整い過ぎた顔立ちは、最早例える言葉が見つからない。
あらゆる賛美の言葉も不十分だった。
薄っすらと開かれた双眸はそれだけで異性を発情させてしまい──
薄桃色の唇は、同性でもよからぬ妄想を膨らませてしまう。
赤茶色の髪と耳元のピアスは刺激的な「若さ」の象徴。
故に、青年の埒外な美貌を寸前のところで留めている。
若き美の化身。
漆黒のロングコートをはためかせ、彼は店内を突き進んでいく。
客人達は総じて、恍惚とした表情を浮かべていた。
「~♪」
異様な空気が酒場を支配する中、呑気に口笛を鳴らす男が一人。
大和だ。
彼は青年に対し、美貌以上のナニカを感じ取っていた。
当の青年は大和を見つけると、薄っすらと唇を緩める。
それだけで、酒場にいた女達が熱に浮かされた。
店内に情欲渦巻く中、謎の青年は大和の隣に腰かける。
その際、黒金の棺を立てかけた。
無造作に置かれた棺桶は「ゴンッ」と凄まじい音を立てる。
青年はきめ細やかな指を立て、ネメアに注文した。
「隣の奴と同じ酒を頼む」
「はいよ」
ネメアは周りの客人達の単純さに呆れつつ、準備を始める。
その間、青年はジッと大和を見つめていた。
「……アンタが大和だろう? 一目見ただけでわかった」
色っぽい笑みを向けられ、大和も吹き出すように笑った。
「テメェが天使殺戮士か……クククッ、予想以上だぜ。やるじゃねぇの」
「そりゃどうも」
二人して妖しく微笑む。
その色気に吸い寄せられたのか──周囲には女達が群がっていた。
彼女達は堪らなそうに身体を捩らせていた。
中には、しっとりと濡れた股に手を伸ばす者までいる。
濃厚な雌の匂いで満たされる中、酒を持ってきたネメアは、あまりの状況に溜息を吐いた。
そんな彼に、大和は告げる。
「ネメア。この依頼、受けるぜ。メチャクチャ面白そうだ」
嗤う大和。
ネメアは、こんなに楽しそうな大和の顔を見るのは久々だと思いながらも、何かロクでもない事が起こりそうな気がして──今日、何度目かわからない溜息を吐いた。