北区に入った瑠璃は早々に嫌悪感を抱いた。
この淀んだ空気を、彼女は知っていた。
グズグズに腐りかけていた、王国のあの空気だ。
北区はギャンブラーの楽園だ。
大小様々なカジノが自慢の看板を掲げている。
賭け事に人生を賭す者たちにとって、ここは始まりの地であり終わりの地である。
代表的なのは異種姦、遺伝子組換えなどをして選出された魔馬による競馬。魔改造を施したボートによる競技者の命すらも賭けの対象に入った競艇。一玉十万円の人食いならぬ富豪食いのパチンコ。一等10兆の宝くじなど。
カジノに入ればブラックジャック、バカラ、ポーカーなどのカードゲーム。ヨーロピアン、アメリカンを含むルーレット。シックボー、クラップスなどのダイス系のサイコロゲームを楽しめる。
大金が動きに動きまくる。
まるで大波のように引いたかと思えば突如として襲いかかってくる。
ソレに乗って荒稼ぎするか、虚しく呑み込まれるか──
まさしくサーフィンの如く、だ。
勝者がいれば敗者もいる。そういう輩は懲りずに金貸しから金を借り、また賭け事に心身を費やす。
金貸しには「一枚目」から「三枚目」まであり、一枚目はまだマシなほうで、二枚目で終わりが見えてきて、三枚目になればほぼ詰んでいるといわれている。
表世界の闇金が可愛く思えるくらいの法外な利子を付けてくるのだ。しかし、三枚目を頼る輩は一枚目からも二枚目からも金を借りられないドン底にいる者たちなので、頼るしかない。そしてその大半が踏み倒して高飛びする。最後はお約束といわんばかりに一族郎党臓器を抜き取られ借金返済の地獄に落とされる。
話は変わるが、中央区にはどんな種族、経歴を持っていても金を借すが、代わりに金利はトゴ(十日で五割)という北区の三枚目も驚くトンデモな闇金融があるという。
それはまた別の機会に話そう。
ドン底にいる者たちは一攫千金を狙ってロシアンルーレットや賭け麻雀に身を投じるが、そういったものとは無縁な者たちもいる。
表世界のセレブや石油王、代表取締役や政治家などの成功者たちだ。
彼等は表世界では味わえないスリルと刺激を求めてここ、北区へとやってくる。
彼等の身の安全は保証されている。
専用のパスポートを持ち、凄腕の用心棒をボディーガードに置けるのだ。
用心棒たちのランクは平均してSランク。超犯罪都市の用心棒ランキングでも上位に名を連ねている猛者ばかり。
彼等は北区のオーナーが管理している警備会社「
専用パスポートはその者の
このパスポートを持つ者は選ばれし者たちだ。
安全が約束させたホテルに止まることができ、北区の一部ではあるが自由に散策できる。また表世界に出回らない非合法の薬物や商品を楽しむことができる。これらは厳密な審査、検品を通過したものであり、中には表世界に持ち帰れるものもあった。
北区は奴隷市場としても有名だ。
古今東西、様々な種族の奴隷が日夜運ばれてくる。彼等は強固な術式拘束を施されており、人権も剥奪されている。
買った者は彼等を苛め殺すも良し、犯して調教するも良し、部下達の慰め物にするも良し……
選ばれた者たちにとって、彼等は便利な道具であり良質な玩具だ。
望めばこの市場の担当である五大犯罪シンジケートの一角「
奴隷では気が引ける、または管理が面倒という場合は世界最大最高峰の傾城町である「東区」へ直接赴くことができる。専用のルートが開通されており、なんなら追加で金を積むことで娼婦を呼び寄せることができる。
といった感じで、選ばれた者たちにとって北区は楽園だ。ギャンブラーたちにとっても、だが。それらはあくまでオマケに過ぎない。
住民……特に上層部の者たちにとって、ここは金のなる木の森。
一日で動く金額は中央区よりも多い。
魔界都市で最も安全で、しかし貧富の格差が最も出る場所──それが此処、北区だった。
◆◆
北区では最近、拳闘大会が流行っていた。
賭け事としても成立し、かつ野蛮な殴り合いが暇を持て余した金持ちたちの心を滾らせるのだ。
特に北区のオーナー主催の「
興行主である北区のオーナーがまた上手いカードを組み、レベルの高い者同士の殴り合いは勿論、素人に毛が生えたレベル同士の拙い殴り合い。明らかにレベル差があるマッチメイクや種族対抗戦など、観客を飽きさせない工夫を凝らしている。
最近ではルックスや話題性、拳闘前のオーディションなどにも注目が集まっており、ますます盛り上がっていた。
古代ローマでは見世物として剣闘士による闘技会が流行ったというが、それと同じ原理だ。
人間は、いいや生き物は、何時の時代になっても変わらない。
血と闘争を求める。
今宵は異種族対抗戦が白熱したため、北区は異様な熱気に包まれていた。
血と闘争に溺れた者たちが次に求めるのは、異性との爛れた関係である。
生殖本能を直に刺激された者たちは、北区にある娼館や大通りにいる娼婦に声をかけ、欲望を発散する。
金持ちたちは見目麗しい奴隷を買ったり、東区に繋がっている通路を通ったり、今宵の闘技者たちを金で買って直に味わったりしていた。
盛り上がっている大通り。VIPの身辺警護を務めている用心棒たちは、少し気を抜いた状態で業務にあたっていた。
拳王会が開催された日は半日以上が潰れ、かつ護衛対象の次の動きも予想できる。
ようは楽できるのだ。開催されていない日は我が儘なVIPに振り回されることがあるので、用心棒たちは拳王会が開催される日を「ラッキーな日」だと思っていた。
しかし、緊急事態速報のアラームが所々から鳴り響くことで束の間の平穏は破られる。
用心棒たちは慌てて「金城鉄壁」から支給されている専用媒体を取り出した。
今この時も鳴り響く緊急事態速報のアラームを聞きながら、内容を確認する。
「レベル5の震災だと!?」
「詳細内容は! どうなっている!」
「クソッ! よりによって外出中にかよ!」
所々から用心棒の声が上がる。
VIPたちの中には驚いて悲鳴を上げたり、不安でまくしたてる者もいるが、用心棒たちは冷静に大通りからVIPを遠ざけようとする。
レベル5は震災の中でも最上位。
レベル3までならアラームすら鳴らない。
レベル5の判断基準は「北区ですら中央区に匹敵する危険地帯に変わる」というものだ。
魔界都市が一時崩壊する規模の戦闘が起こってもならない。
なるとすれば、世界最強クラス同士の戦いが始まったか、或いは──
カランカランと、下駄の音がやけに大きく響き渡る。
瞬間、バリバリと、電撃のような危険信号が用心棒たちの脳を駆け抜けた。
まずい。ここにいてはまずいと──生死の境目を誰よりも理解している彼等は本能で理解する。
下駄の音の発生源を確認した用心棒たちは、成る程と納得すると同時に顔を歪めた。
世界最強の殺し屋であり武術家、「黒鬼」の大和。
彼は、明らかに不機嫌だった。
表情を見ればわかる。灰色の三白眼はより一層冷たく輝いていて、よくよく見れば背後に黒き鬼の幻影が浮かんで見える。
レベル5の緊急事態だというのも頷ける。
ただでさえ平常時でもレベル3を叩き出すバケモノが、明らかに不機嫌で、今にも爆発しそうなのだ。
用心棒たちは即座に行動に移る。
VIPたちをできるだけ遠くに運ぼうとした。
有無は言わせない。これは緊急事態だ。無理やりにでも引っ張っていく。
ふと、少女の声が上がった。
「お父様! 私、彼がいいわ! 今まで見てきたどの男娼よりも美しくて逞しい! ねぇお父様! 私、あの褐色の」
喚く欧州系の美少女、その口を担当の用心棒が呪術で無理やり塞いだ。
口を引き結ばれた美少女は必死に口を開けようともがくが、その前に父親が抱きしめてこの場を去ろうとする。
彼は用心棒に短く礼を言った。
「助かった」
「当然のことをしたまで。さ、お早く。目をつけられたら終わりです」
そそくさと去る一同。
他の者たちもそうしようとしたが、VIPたちの反応は曖昧だった。
大和の暴力的でありながら妖艶な、神域の美貌に心奪われているのだ。
特に女たちがそう。
彼女たちは今、ああいう男を求めている。
美しき妖獣に骨まで食い散らかされたいのだ。
熱いため息を吐いている彼女たちに、用心棒たちは舌打ちしかける。
危機管理能力が壊れている。拳王会の後というのもあり、理性が働いていない。
今の大和に関わるのは自殺行為だ。
天変地異に自ら走っていくようなものである。
腕や足の一本で済んだらまだマシなほうだろう。下手したらこの場をにいる全員の命が消し飛ぶ。
用心棒たちはそれぞれ呪術なり魔法なりを用いて担当のVIPを無理やり宿泊先に転移させた。
後で文句を言われるだろうが、仕方ないと割り切る。命に代えられるものはない。
大通りはすぐに静かになった。
大和は瑠璃を連れて真っ直ぐに、無月がいる宮殿へと向かっていった。
◆◆
無月の住処はまさしく万魔殿だった。
造りは瑠璃がよく知っているもので、王国「出雲」のものに酷似している。
ただ充満している邪気が、魔素が違う。
瑠璃は顔を青くして口元を押さえる。吐きそうだった。まるで全身を舐め回されているような不快感……造りは一緒でも、全くの別物。
一見風光明媚な景観は、しかし全てが色とりどりの宝石で再現されたものだ。
流れる水は黄金色で、池には純白の蓮のようなものが無数に揺蕩っている。
生き物の気配はない。
花ですら宝石でできている。
まるで迷路のような廊下を歩いていった先に、広間に通じる豪勢な扉があった。
両脇には筋骨隆々で邪悪な赤鬼と青鬼が描かれている。
大和は振り返り、扉の前で立ち止まった。
「この先に無月がいる。聞きたいことはアイツから聞け」
「……っ」
「ただし、聞きたいこと以外は聞くな。でないと──魂が腐る」
「……わかりましたっ」
瑠璃は大和の横を通り過ぎる。
彼は自分と目を合わせてくれない。
その理由が……こうなってしまった理由がどうしても知りたくて、瑠璃は大きな扉を開けた。
広間は薄暗い闇に覆われていた。
テーブルや椅子もない。外にあった過度な装飾品もない。
ただただ広い、闇に覆われた空間。最奥にだけ仄かに光が差している。
そこに、瑠璃が話を聞きたい相手がいた。
真っ直ぐ向かっていくと全貌が見えてくる。
両脇には侍女──いいや、護衛が控えていた。
見目麗しい美少女たちである。
そして宙に浮く豪勢な椅子にどっしりと身体を預けているのは、三メートルはあろう、横にも縦にも大きい老婆だった。
横綱も驚くであろう体型ながら服装はゆったりとしたもので、恐らく特注品。
その身を彩っているのは過度な装飾品の数々。全ての指輪にゴテゴテとした宝石が付けられており、首飾りに至っては彼女にしかかけられないだろう重量感を誇っている。
彼女は重い瞼を開けると、分厚い二重顎の溝を深めた。
そして瑠璃を極寒の眼差しで見下ろす。
「大和坊っちゃんが来ると思っていたが……まさかお前が来るとはねぇ。瑠璃。何の用だい? お前の役目はもう終わったよ」
そう言う無月を、瑠璃は睨みつけた。
瑠璃は確信した。
やはり彼女は、全てを知っているのだ。