イギリスの首都、ロンドン。
欧州連合内で最大の面積を誇るこの都市は、その栄え方も実に賑やかだった。
しかし今は反転し、地獄と化している。
断末魔の悲鳴が幾重にも連なり、それを掻き消す様にバケモノの咆哮が暗黒天を貫く。
倒壊した建物から燻る黒煙は、やがて災禍の焔へと変わった。
肉と臓物、油を潤滑油に吹き上がる炎のなんと汚らわしい事か。
鼻が腐るほどの悪臭が熱波に乗って周辺地域に伝播する。
世界全土が恐慌状態になるのは、最早時間の問題だった。
異形のバケモノが、生きる者全てを蹂躙していた。
獣、魚、虫。あらゆる生物の嫌悪的部分が、負の感情を糧にして患者の肉体を膨張させている。
女性の悲鳴が聞こえたと思えば、立て続けに鮮血のシャワーが降り注ぐ。
隠れていた子供達は見つかり、抗う術無く捕食された。
此処は生き地獄。
嘗て、倫敦と呼ばれた場所。
この災禍の只中で、懸命に戦っている集団が一つ。
制服型の法衣に身を包んだ若者達だ。
彼等は真世界聖公教会のエージェント。
プロテスタントに所属している戦士達だ。
状況は劣悪を極めていた。
幾千幾万と増殖し、波涛の如く押し寄せる天使病の患者に、彼等は成す術なく呑まれかけている。
「くぅ……ッ」
一人の少女隊員が肩を負傷した。
その隙を天使病の患者達は見逃さない。
口から、目から、手から、足から、触手の様な肉の鞭を伸ばす。
その先端は矛であり、流動的な動きを以て少女の身を貫こうとしていた。
「避けろ!!」
「ッ……!?」
他の隊員が叫び、少女もそれに反応する。
が、肩の傷が疼いて動きが止まる。
その数秒は致命的だった。
少女の目前まで迫る肉鞭。
少女は避けられないと悟り、目を瞑った。
「……ッッ」
頬を焦がす焔の熱。
その熱は温かく、少女は何故か安心してしまった。
恐る恐る目を開けると、男の背中が映った。
彼は手に持つ大太刀で抜刀一閃。鞘から溢れ出た火焔で肉鞭を焼き払ったのだ。
少女は歓喜の余り叫ぶ。
「ジーク隊長っ!」
ジーク──そう呼ばれた男は、少女に振り返った。
綺麗に整えられた銀髪、リムレスタイプの眼鏡。
美しい碧眼は、厳しくも温かい眼差しを少女に向けていた。
「大丈夫ですか?」
「はいっ!」
少女は大きく頷く。
ジークも頷くと、彼女達に背を向けた。
そして告げる。
「君達は逃げなさい。この場は私が受け持ちます」
「隊長!?」
「何を仰るんですか!! 一緒に!!」
この会話だけで、彼がどれだけ慕われているのかがわかる。
そして、現状がどれだけ困窮しているのかも──
しかし、ジークの返答は変わらない。
「隊長命令です。撤退しなさい。……君達は明日のプロテスタントを支える希望、失う訳にはいきません」
「それを言うなら隊長だって! 隊長がいなくなったら!!」
「そうです!!」
苦言を呈す隊員達に、ジークは一喝する。
「くどい!!!!」
「「「「!!」」」」
「逃げなさい……これは命令です」
腹の底から出した声だった。
振り返らずとも伝わる、その決意。
隊員の一人が、思い切り唇を噛みしめた。
「逃げるぞ」
他の隊員達も苦渋の表情で頷く。
しかし先ほどの少女は、涙ながらに首を横に振った。
「いやです……ッ、ジーク隊長を置いて行けないっ」
「我が儘を言うな!! 行くぞ!! ジーク隊長の決意を無駄にするのか!?」
「ッ」
迷う少女。
その手を強引に引き、隊員達は撤退を始める。
少女は大粒の涙をこぼし、ジークに手を伸ばした。
「隊長ォっ!!!!」
その声に宿る愛を、ジークは知っていた。
彼女が自分の事を異性として慕ってくれているのも、知っていた。
しかし振り返らない。
隊員達がこの場から離れた事を確認し、ジークは目前の患者を抜刀術で斬り結ぶ。
「ここから先へはいかせません」
ジークは納刀すると同時に深く身を屈めた。
眼前に群がるのは、優に1000は超える天使病の患者達。
本来、数匹でも十分な戦力を投入しなければならない。
が、今回は話が違う。
緊急事態。絶対絶命。
しかしジークは引かない。
護らなければならない部下達がいる。
守らなければならない矜持がある。
プロテスタントの誇る牧師、ジークは構えた。
天使病の患者が、津波の如く彼に押し寄せた。
◆◆
ジークは羅刹と成った。
愛刀である「神剣・迦具土」の黒刃が血糊で溺れても、彼は止まらない。
神速の足捌きで地獄を駆け、天使病の患者を斬り伏せていく。
聖なる焔が迸り、清き雷光が邪を貫く。
討伐数は100を超え、300を超え、500を超えた。
肉体の限界などとうに過ぎている。
それでもジークは、計1000以上もの患者を斬り捨てた。
しかし、それが限界。
ジークは片膝を付く。
漆黒の制服は返り血で染まり、脇腹は食い破られている。
眼鏡にはヒビが入り、銀髪は脂汗で色褪せていた。
鞘を杖代わりに何とか堪えているが、いつ倒れてもおかしくない。
ジークの眼前には、万を超える天使病の患者が蠢いていた。
欧州を代表する都市、ロンドンの住民の7割以上が天使病に感染したのだ。
千を斬った所で、その勢いが衰える事はなかった。
「あらあらあら~♪ 凄いわね~♪ 一人で千体以上も天使病の患者斬っちゃうなんて、表世界の住民にしておくのが勿体無いわ~♪」
この状況に全く不釣り合いな、陽気な声。
ジークが視線を上げると、廃墟の屋上に異様な女が佇んでいた。
年齢は二十代ほど。
乱雑に伸ばされた黒髪。前髪には金のメッシュを入れている。
服装は裾の短い黒の上着にローライズのホットパンツ。
顔立ちは良いものの、不気味な笑みを浮かべている。
金色の瞳も狂気と殺意でグチャグチャに濁っていた。
間違いなく常人では無い。
この地獄の中で嗤っており、その手には禍々しい二丁拳銃が携えられている。
彼女は愉しそうに笑いながら、隣に居る男に話しかけた。
「ねぇねぇ依頼主さん、あの牧師さんと遊んでいい? あの端正な顔をグチャグチャに歪ませたいなぁ~♪」
彼女の横には、漆黒の法衣を纏った壮年の男性が居た。
年齢は四十代ほど。
法衣を盛り上げる鍛え込まれた肉体が、何とも不気味だった。
彼はジークを睥睨し、嘲笑う。
「プロテスタント、真世界聖公教会の代表的牧師、「雷光」のジーク殿ではないか……」
「……ッ、天使教の幹部かッ」
「聡明だな。しかし手遅れだ。ロンドンは大いなる祝福を受けた。このまま祝福は世界中に広がるだろう。……世界は一度滅び、そして生まれ変わるのだ」
「ほざけ……ッ」
ジークは震える足に喝を入れ、立ち上がる。
そして抜刀の構えをとった。
「貴様の好きにはさせん……ここで斬り捨てる」
殺意と、それ以上の決意がこもった眼光。
天使教の幹部は肩を竦めた。
「やれるものなら……サーシュ」
「はいは~い♪」
「殺してしまいなさい。考えうる限りの残虐な方法で」
「フフフ♪ りょ~か~い♪」
女──サーシュは歪な笑みを浮かべて舞い降りる。
彼女はジークの目前で着地すると、その濁った双眸を卑しく細めた。
「どう殺そうかな~♪ どう痛めつけようかな~♪ クフフッ♪ その端正な顔が歪むの、とても楽しみよ♪」
眼前で魔女が嗤い、周囲で無数の患者が蠢く。
最早、万に一つの勝機も無い。
(なればこそだ……この消えかけの命、明日に生きる者達の糧になるなら……ッッ)
燃やし尽くしてしまえ。
ジークは金色の柄巻を強く握りしめた。
彼は一度深呼吸し、ある男を思い浮かべる。
軽薄でだらしないが、誰よりも信頼している、あの天使殺戮士を──
「後は頼んだぞ……斬魔」
呟き、ジークは大きく跳躍する。
魔都ロンドンに、極大の雷火が迸った。