倫敦が汚染されていく。
世界が啼いていた。
万象が嘆いていた。
堕天使ウリエルは暗黒天の夜空を眺めながら、ふぅと溜息を吐く。
そして呟いた。
「人間が天使を利用するだなんて、傲慢に過ぎるよ」
ウリエルは人差し指を立て、指先に小さな灯火を浮かべる。
彼女は厳かな声音で告げた。
「我が名を畏れる同胞達よ。静まれ、その在り方を忘れるな」
朗々と紡がれた言霊は、有無を言わさぬ絶対的な命令。
嘗て最も偉大な天使と謳われた少女の命令は、ロンドンに巣食うほぼ全ての天使病患者を停止させた。
ウリエルはある気を感じ取り、その美麗な眉を顰める。
「流石に完全に天使病になった患者には効果は無い、か……。それに、僕の命令を無視できる存在が何名かいるみたいだ」
それでも、ウリエルは安堵の笑みを浮かべていた。
彼女の視線は、この世で最も屈強な益荒男に向けられていた。
「それでも世界は救われる。僕の勇者がその欲望を叶える「ついで」にね……。世界なんて、所詮その程度のものさ♪」
堕天使は無垢な笑顔を浮かべた。
◆◆
その頃。
大和はウリエルの気配を感じ取り、何だよと肩を竦めた。
「アイツか……オイお前等、頼もしい援軍だ。気にせず先に進もうぜ」
彼の言葉に、えりあと斬魔は互いに視線を合わせる。
「……援軍?」
「お前の知り合いか?」
「ま、そんな所だ。アイツの思想的に、今回の天使病の暴走は看過できるもんじゃなかったんだろう」
「????」
斬魔は頭にハテナマークを浮かべた。
一方えりあは、先日受けた華仙の忠告を思い出す。
堕天使と呼ばれる存在がこの世に居る。
彼女達は淫放でありながら、全盛期と同等かそれ以上の力を誇るという。
天使病の患者達を問答無用で無効化できる存在など、彼女達しか思い浮かばない。
えりあは含みを交えて大和に問う。
「援軍と呼ばれる存在は、周囲の患者達よりも格上の存在……という事かしら?」
えりあの問いに大和は灰色の三白眼を丸めた。
そして小さく笑う。
「ああ、その通りだ。でも詳細を話すのはやめようぜ。そんな空気じゃねぇ」
「同感よ。ありがとう。気を遣ってくれて」
「どーいたしまして」
勝手に会話を進める二人に、斬魔は不満ありありといった様子で両手を広げた。
「おいおいおいおい、二人して何意味深な会話してんだよ。俺も混ぜろよ!」
「嫌だね」
「嫌よ」
「うわズッリー! 仲間外れは無しだぜ!」
先へ進んでいく二人の背中を追いかける斬魔。
彼等の道行く先で、患者達は呻き声を上げながら肉塊に成り果てていった。
◆◆
廃都と化したロンドンを進んでいく三名。
堕天使ウリエルの命令で、数十万単位の患者が自壊していた。
都市内を腐臭と熱風が渦巻いている。
「……なんか来るな」
大和はポソリと呟いた。
唐突だったので、えりあと斬魔は目を丸める。
大和は続けて呟いた。
「結構なヤリ手っぽいぜ。注意しな」
それは武術家の直感なのだろう。
えりあと斬魔は大和の見据える方向へ視線を向ける。
退廃の風を切り抜け、三名の眼前で翼を広げた──人型の天使。
曇天と赤き稲妻を背に、三名を睥睨している。
恐らく天使病の患者なのだろう。
が、これまでの患者とは一線を画している。
その身は純白の翼で覆われていた。
まるで穢れた身を覆い隠す様に、その身の殆どを覆っている。
神々しかった。
大和は思わず感嘆の溜息を吐く。
「スゲェな……天使病の患者でも、ここまで綺麗な奴がいるのか」
大和とは対照的に、斬魔とえりあの表情は険しかった。
「何だ、あの患者は……」
「初めて見るタイプね」
二人は既に得物を握っていた。
天使病の感染者は、総じて醜い容姿をしている。
霊子型ナノマシンが感染者の負の感情を糧にして、その肉体を変質させるからだ。
それが当然であり、故に美しい筈はなかった。
しかし、眼前の患者は美しかった。
まるで本物の天使の様だった。
降り立った謎の患者は純白の双翼を広げる。
白雪の如く羽が舞い落ち、胸元が露わになった。
その胸には、逆十字の深い刀傷が刻まれていた。
そして唐突に携えた、見事な拵えの大太刀。
黄金と黒金で塗装された黒鞘──
えりあは唇を戦慄かせた。
「そんな……っ、キミは……ッ」
驚愕しているえりあとは対照的に、斬魔は苦笑していた。
しかし何時もの軽薄さはない。
苦渋の表情を必死に堪えているのだ。
「何やってんだよ……ジークっ」
腐れ縁でありライバルであった男に向かい、斬魔は震えた声を絞り出した。
◆◆
「何だ、知り合いか?」
大和は二人に問いかける。
しかし返答はない。
そんな余裕が無かったのだ。
斬魔は一歩前に出る。
漆黒のロングコートを靡かせ、二名に告げる。
「わりぃ、先行っててくれ。コイツとは俺がケリつける」
「「……」」
大和とえりあは視線を合わせる。
二人共、察しが良い。
斬魔の言葉に頷いてみせた。
「……死ぬなよ」
「絶対に追いつてきなさい」
「ああ」
二人は斬魔と別方向に進む。
例の患者──ジークは動かない。
大和とえりあが遠く離れた事を確認した斬魔は、抜刀の構えを取った。
「待ってろ……すぐ楽にしてやる」
多くは語らない。
ふざけもしない。
斬魔は真剣な表情で、嘗てのライバルと対峙した。
◆◆
「彼はジーク。同じプロテスタントの真世界聖公教会所属のエージェントで、斬魔の親友よ」
「……そうか」
えりあから事情を聞いた大和は苦笑を浮かべる。
えりあは続ける。
「彼は斬魔とは真逆の性格でね。よく喧嘩してたわ。傍から見れば世話焼き女房みたいで、とても微笑ましかった」
「……」
「天使殺戮士に成れる実力があったのに、自分の正義と合わないと辞退した……とても高貴な人」
えりあの声には、珍しい響きが含まれていた。
悲しみである。
大和はふぅと、小さく溜息を吐いた。
「何時の時代にも居るもんだ、そういう誇り高い奴が……だが、世界はそういう奴に対して意地悪だ」
「……」
「胸糞悪ィ世界だぜ。守る価値なんてどこにもねぇ」
えりあは目を見開く。
大和の言葉に複雑な感情を覚えたのだ。
大和は苦笑する。
「わりぃ。独り言だ、気にすんな」
「……っ」
きっと彼は、同じような経験を何度もしてきたのだろう。
誇り高い者達が無残に死に往く様を、何度も見てきたのだろう。
そう考えると、今の彼の在り方はとても……
「……ごめんなさい」
えりあは呟いた。
大和は小首を傾げる。
「何がだ?」
「……わたし、キミを少し勘違いしてた」
「……クククッ」
大和が苦笑する。
ふと、えりあの頬に熱い何かが触れた。
大和の唇だった。
「何も勘違いしてねぇさ。俺は美女と金が大好きな、ただの殺し屋だ」
「……」
肩をぽんぽん叩かれたえりあ。
踵を返した大和の背中を見つめ、彼女は微笑した。
ソレは、哀しさを込めた微笑だった。
(……優しいのね、キミは)
◆◆
瓦礫の広がる道を歩いていると、敵対者が現れた。
敵対者だとわかったのは、彼女が溢れんばかりの殺意と狂気を向けてくるからだ。
「アハハ♪ きたきた♪ しかも情報通り、大和様がいるじゃな~い♪ いや~ん興奮しちゃう~♪」
廃墟の上でケタケタ嗤っている狂人。
金色のメッシュが入った黒髪。
缶バッジまみれの革ジャン、ローライズのホットパンツというゴシックパンク風の服装。
両手には禍々しい二丁拳銃を携えている。
彼女を見て、大和が表情を顰めた。
「撃ち狂いか……厄介な女が出てきたな」
「知り合い?」
えりあに問われ、大和は嫌悪感を隠さず舌を出す。
「馬鹿言え、何度かストーカーされただけだ」
「そう……」
「デスシティでA級認定されてる腕利きの殺し屋だ。実力は申し分ねぇ。お前じゃキツイ相手だ、俺がやる」
大和が一歩出て、大太刀の赤柄巻を握る。
しかし、えりあが更に一歩前に出た。
「舐めないで。わたしがやるわ」
「言っただろ、テメェじゃキツい相手だ。殺されるぞ」
「大丈夫よ、わたしは死なない」
えりあに胸襟を握られる大和。
その無機質な瞳の奥に宿る確固とした決意を、大和は信じる事にした。
笑いながら大太刀から手を離す。
「なら任せるぜ」
「ええ。キミと斬魔のサポートをするのがわたしの役目だから」
「死ぬなよ。死んだら約束の一夜がパァになっちまう」
「そんな約束をした覚えはないわ」
キッパリ言われ、大和はやれやれと肩を竦める。
だが嬉しそうに笑っていた。
「またな」
「ええ、先に居る奴は任せたわ」
短い間だが、二人は互いを信頼していた。
大和はえりあに背中を預け、えりあも大和に行く末を託した。
離れていく大和に撃ち狂い──サーシュは悩まし気な視線を送る。
「あ~ん♪ 大和様行っちゃった……でもまっ、嬲り甲斐のありそうな子が残ってくれたし♪ まずは貴女でこの火照りを解消しちゃおうかしら♪」
ただでさえ際どい胸元をはだけさせるサーシュ。
えりあは無表情で愛銃を構えた。
◆◆
「さて……華も無くなっちまったし、こりゃラスボスに期待するしかねぇなァ。美少女とかだったりしねぇかなァ。そしたら後々……クックック」
極悪な笑みを浮かべながら下駄を鳴らす大和。
廃都と化しているロンドンに最早地形などありはしない。
大英博物館の前辺りで──
大和の前に、漆黒の法衣を着た男が立ち塞がった。
天使教の幹部である。
彼は余裕のある笑みを浮かべていた。
「天使殺戮士が来ると思っていたのだが……まさか君が来るとはね、世界最強の殺し屋──大和」
「テメェがラスボスか?」
「そうだとも」
「なんで美少女じゃねぇんだよ」
「意味がわからないな」
「ハァァ……」
大和は落胆で肩を落すと、ボチボチ呟き始める。
「美少女だったらお楽しみタイムだったんだが……」
「噂に違わぬ低俗ぶりだ。反吐が出そうだよ」
「ハッ、ほざいてろ三下」
鼻で笑う大和の頬に、剛拳が迫る。
轟音。大和は百メートル近い距離を殴り飛ばされた。
瓦礫が巻き上がり、土煙が入道雲を作る。
幹部はその大きな右拳を掲げた。
額には病的なまでの青筋が立っている。
筋肉は異常なほど肥大化していた。
肉体に霊子型ナノマシンを直接注入し、驚異的な力を得ているのだ。
ナノマシンの暴走と共に肉体が膨張し、それを驚異的な信仰心で抑えている。
幹部は嗤った。
「あまり油断しないほうがいいぞ。今の私は御使い方の加護を授かっているのだ」
その言葉には絶対の自信が滲んでいた。
大和は頬に添えていた左手を払う。
直前でガードしたのだ。
彼は遠くで調子に乗っている幹部に嗤いかける。
「へぇ……少しは楽しめそうじゃねぇの」
暗い笑みと共に、ギザ歯を剥く。
魔都ロンドンで、それぞれの決戦が始まろうとしていた。