数週間前、ゲートに重症を負った野ばらが入って来た。
大正時代に彼女と面識があったネメアは、驚愕しつつも彼女を手厚く保護した。
養生中に事情を聞くも、彼女も自分が未来にタイムスリップしてきた事に混乱していた。
ネメアは推測を立てる。
大正時代は魔の最盛期の一つ。
濃密な妖気と邪気により、次元の歪みが最も多発していた時代だ。
彼女は偶然か必然か、それに巻き込まれたのだ。
てっきり彼女は死んだものだと思っていたネメアは嬉しい反面、複雑な心境だった。
彼女の鬼に対する憎悪は些かも薄れていない。
悪鬼即滅。その在り方に一切の揺らぎは無い。当時のままなのだ。
そして現在、好からぬ噂がデスシティを騒めかせている。
大正時代に猛威を振るったあの魔人中尉が、封印から解放されたというのだ。
百鬼夜行を支配し、帝国日本を影で支配していた世界最強の陰陽師──
泰山府君祭を成功させ、一時は不死と成った稀代の邪仙。
あの安部晴明、芦屋道満をも超えると謳われる、陰陽風水を極めた大陰陽師。
彼の起こした事件は数知れず。
両面宿儺、大獄丸といった鬼神の復活。
霊峰富士の大噴火。
黄泉比良坂に続く冥界門の開放。
関東大震災。
世界各地の狂気を増幅させる事で世界大戦を煽る。
クトゥルフ系列の邪神達と同盟を組む、など──
挙げればキリが無い。
裏の歴史を辿ればその名を必ず見る、稀代の大悪党。
同時に度の過ぎた享楽主義者。
世界を何度も滅ぼしかけてきたこの邪仙が、最近復活したというのだ。
由々しき事態である。
既に特務機関、ならび土御門家の陰陽師やそれに付随する退魔剣士の家系。のみならずアメリカ政府の異端審問会、カトリック教会の最高戦力「
世界が動乱に包まれつつある。
たった一人の男によって。
ネメアもまた動こうとしていた。
雅貴の封印に関わった重要人物として、再度の封印を試みようとしていた。
しかしその前に、野ばらが勘付いてしまった。
ネメアは何とか隠蔽していたが、やはり限界があった。
野ばらはネメアを責めなかった。
しかし彼に一通の紙を渡す。
それは、退職届だった。
◆◆
野ばらは勤務時間が終わると、大正モダンを彷彿とさせる和ゴス衣装でネメアの前に現れた。
そして退職届を出し、深々と頭を下げる。
「今迄ありがとう。本当に助かったわ。この恩義に報えない事を許して頂戴──私には、やらなければならない事があるの」
「……」
ネメアは新聞を畳み、差し出された退職届を見つめる。
その後、野ばらの鋭い双眸と視線を合わせた。
「……復讐は、やめられないか?」
「ええ。私はそのために生きている。今更止められない」
「……」
ネメアは眼を閉じた。
他者の復讐を止める権利など誰にも無い。
当事者が決めた事だ。介入できる余地など何処にも無い。
それにネメアは知っていた。
彼女の過去を──
だからこそ、余計に止められなかった。
ネメアは溜息を吐き、頷く。
「……お前の人生だ、お前の好きにしろ。だが制服はとっておく。お前は優秀なウェイトレスだからな」
「…………ごめんなさい。さようなら」
野ばらはそれだけ言って踵を返す。
ネメアはその小さな背中をじっと見つめていた。
二十歳に満たない少女の背中には、血の臭いと憎悪の念しかない。
大人びた雰囲気も、ネメアには皮肉にしか見えなかった。
彼は刈り上げた金髪をガシガシと掻くと、新聞を放って立ち上がる。
そしてエプロンを脱いだ。
カウンターでラム酒を飲んでいた褐色肌の美丈夫、大和は笑う。
事の一部始終を見ていたからこそ、彼にはネメアの次の行動がわかったのだ。
「ほゥ……遂に動くか、世界最強の傭兵が」
「茶化すな。お代は机に置いておけ」
「はいよ」
大和は肩を竦める。
ネメアは肩を回しながら店を畳む準備を始めた。
客人達は愕然としていた。
動くのだ、あの傭兵王が。
大和と同格と謳われる──あの男が。
ネメアは「臨時休業」の看板を担いで、再度溜息を吐いた。