牛鬼こと牛魔王は、ネメアをまず手で制した。純白のスーツを腕まくりする。
「まぁ待て。お前と本気で殴り合うとなると、魔界都市どころかこの宇宙が壊れる。下準備が必要だ」
牛魔王は持ち前の妖術と仙術──更には雅貴から貰った結界術式を展開する。
周囲の空間の強度が段違いに上がった。
宇宙の先の、その先以上の空間を凝縮したかの様な、圧倒的密度を誇る決戦場が完成する。
牛魔王は決闘の前に、ネメアに問うた。
「お前に一つ、聞きたいことがある」
「何だ」
「噂によれば、お前は傭兵業を営んでいるが殆ど動かないらしいな。何故、今回は動いた?」
ネメアがやって来たのは嬉しいが、何故来てくれたのか、牛魔王は気になっていた。
ネメアは金髪をぼりぼりと掻く。
「理由は今も昔も変わらないさ。俺は自分のためじゃなく、誰かのために拳を振るう」
「…………」
牛魔王は鋭い双眸を丸めると、黒い総髪を押えて爆笑した。
「ハッハッハ!! そうか!! お前は根っからの英雄気質なのだな!!」
「からかうな」
「いや、いい! それでいい! 俄然、ヤル気が出た」
牛魔王は不敵に笑い、拳を掲げた。
「いざ、尋常に……」
「……」
ネメアも無言で拳を構える。
溢れ出す金色のオーラ。対して牛魔王は藍色のオーラを迸らせ、駆ける。
互いに拳を振り抜き、それが重なり合う。
次元が湾曲すると同時にとんでもない轟音が響き渡った。
巻き起こった衝撃波は、結界越しに魔界都市を震撼させた。
◆◆
平天大聖こと牛魔王は、世界中の妖魔の中でも随一の怪力を誇る事で有名である。
腕力のみで那由他の神仙と張り合い、最後まで魔王として暴れ続けた中華を代表する大化生。あの孫悟空と互角に殴り合った正真正銘のバケモノと殴り合うなど、本来なら自殺行為だ。
ましてや──
「力勝負といこうではないか……!!」
両手を重ね、指を絡め合う。
純粋な力勝負に持ち込まれた。
神仏であろうと、邪神であろうと、牛魔王の怪力に勝てるものなど存在しない。
純粋な、圧倒的力の権化。鬼を超える原初の暴力は、真正面からネメアを捻じ伏せようとしていた。
しかし──
「!!?」
牛魔王は途轍もない圧力を感じる。
拵えた決戦場にヒビが入るほど渾身の力を込めるも、ビクともしない。
驚愕する牛魔王。
拮抗ならまだわかる。孫悟空の時はそうだった。
しかしこの感覚は──負けている。
腕力で、負けているのだ。
牛魔王は思い出す。
嘗て、己を腕力のみで捻じ伏せた黒き鬼人を──
「なんという、剛力──ッッ」
ネメアの筋肉が、シャツの下でミシミシと軋みを上げる。
牛魔王は体勢を崩した。
しかし掴まれた両手は決して離れない。
ネメアは渾身の頭突きを繰り出した。
牛魔王は同じく頭突きで応じる。
ゴキンと、異様な音と共に空間がはじけ飛ぶ。
衝撃だけで宇宙が消し飛ぶ威力だった。
互いの両手が緩んだ瞬間、同時に右フックを繰り出す。
両者ともカウンターで入り、衝撃によって後退した。
「……ぐぅぅッ」
牛魔王は堪えきれず、片膝を付く。
面白いほど足が震えていた。
頬に伝わった拳の重さ、強度。あの黒鬼と遜色ない。
牛魔王は口の端に血を滲ませながら、苦笑いした。
「流石だ……剛力無双と名高いあのヘラクレスなだけある。まさか純粋な力勝負で負けるとはな……長き生涯で二度目だぞ」
ネメアは白煙の上がる左頬を撫で、告げる。
「生憎、純粋な力勝負では負けた事がないんだ。巨人族にも、魔神にも……唯一互角なのは、大和だけだ」
「あの大和と同等の腕力を誇る唯一の存在──噂に聞いていたが、まさか本当とはな」
迷信だと思っていた牛魔王は、その身を以て痛感する。
暴力の天才と謳われる大和と同等の腕力家は、確かに存在した。
努力も無論ある。
弛まぬ努力の果てに鍛え抜いたのだろう。
しかし、元々の肉体の造りが違う。
人類ではありえない筋肉繊維の本数、強度。それを生まれながらに保持しているのだ。
決して衰えることなく、生涯に渡り成長し続ける夢の肉体。
英雄足りえる条件の一つ。
「超人体質」
中でもネメアのソレは常軌を逸していた。
一般的な英雄体質の数百倍もの筋肉、骨格密度を誇る。
それを寸分の油断なく鍛え上げているのだ。
大和が人智を逸脱した「怪物」であれば、彼は人類史の誇る「勇士」だ。
数億年前、嘗てまだ大陸が一つだった頃、西側で「最優」の名を冠した大英雄。
武技と魔導を極め、知に富み、義を尊び、神々への礼節を忘れない。
英雄になるべくして成った男──ヘラクレス。
しかし、今は英雄ヘラクレスではない。
傭兵兼酒場の店主、ネメアである。
彼は右手に魔力、左手に闘気を込めながら言った。
「悪いな……俺は大和みたいに遊ぶ様な真似はしない」
闘気と魔力の融合。
魔闘技法──本来、絶対に相容れない二つの力を融合させ莫大な力を獲得する究極技法。
ネメアの金色のオーラが煌々と輝き、更に膨張する。
放たれた膨大な風圧と威風に、牛魔王はしかし引かなかった。
むしろ快活に笑んでみせる。
「応ともさ!! それでこそ英雄!! それでこそ闘い甲斐がある!! 久々に血沸き肉躍る戦いかできそうだ!! 好敵手よ!! 感謝する!!」
戦闘狂の本性を現した牛魔王は、本当に晴れやかな笑みを浮かべてネメアに突進していった。
そうして壮絶な殴り合いが始まる。
英雄と魔王の決戦は、まだ始まったばかりだ。
◆◆
鈴鹿御前──茜はインドの第四天魔王を父に持つ生粋の鬼姫である。
その神通力と剣技の腕前は神域に達していた。
彼女の携える三本の霊刀──大通連、顕明連、小通連には、それぞれ能力がある。
まず両手に持っている三メートルを超える刀身を誇る、大通連。
格別の斬れ味と硬度を誇るが、予め斬った空間を固定し斬撃を残すという能力がある。
腰に差された二本の霊刀、顕明連と小通連にもそれぞれ破滅の業火と絶対零度の氷を操る力があった。
更に顕明連は破格の再生能力を、小通連は空間を凍結させ時を停める力がある。
持ち前の神通力、剣技の冴え、更に三本の霊刀の能力も相俟って、茜は鬼神の中でも上位の戦闘力を誇っていた。
野ばらは大正時代、彼女に勝てたのは偶然だと思っている。
それ程までの強敵なのだ。
今回も、勝てるかどうかわからない。
野ばらはその前に、ある疑問を解消しようとした。
「一つ、質問してもいいかしら?」
「何だ小娘、早うしろ。私は一刻一秒でも早く貴様を斬り刻みたいのだ」
殺意のこもった碧眼で射貫かれるも、野ばらは平然と問いかける。
「貴女は何故、雅貴の味方に付くの? 元はインドの魔族の姫君──わざわざアイツに味方するのは何故?」
「ハッ……何かと思えば、そんな事か。知れた事よ」
茜は大通連を振るい、吠える。
「私はあの方を愛している! 狂おしいほど愛しておる! この身は雅貴様のためにある! 故に、復讐に囚われる小娘などにくれてやる命など無い! ここで死ね!!」
「……そう、わかったわ」
女として、ここまで誇り高く生きる鬼姫に一種の敬意を抱きながらも──ソレを憎悪で塗りつぶす。
今から斬る相手に敬意も糞も無い。
鬼だから斬る。
そう在れかしと鍛え抜いた肉体が脈打つ。
妖刀と化した刀も目の前の邪鬼を早う斬れと催促していた。
野ばらは腰を低くし、抜刀の構えを取る。
彼女が駆けるよりも早く、茜が地を蹴った。
◆◆
大通連の一閃は幾百の斬撃と成りて大広間を吹き飛ばす。
刀身三メートルを超える超刀が齎す攻撃範囲は異常の一言に尽きた。
畳や障子、木材ごと城外へ吹き飛ばされた野ばらは、しかし平然と空中で滑空する。
追って来る特大の斬撃波。真空を纏いしソレを野ばらは傘を開き、風に乗る事で避ける。
背後の曇天が真っ二つに裂けた。食らえばひとたまりもない。
野ばらは巻き上げられた残骸を足場にし、地上を目指した。
大連通の斬撃が迫る。神通力で滑空し、忌々しい小娘を両断せんと茜が犬歯を剥く。
傘を使い巧妙にホバリングしながら、野ばらは地上を目指した。
鬼狩りの軽妙な体捌きが輝く。常識外れの攻撃範囲を誇る大通連の斬撃を悉く躱してみせる。
野ばらは空気を蹴った。
瞬時に一閃。茜は背後に突き抜けられた。その頬に一筋の切り傷が浮かぶ。
煙を上げて己を蝕む毒性に、歯を食い縛りながら振り向き大通連を薙ぎ払う。
爆光。
剛質な霊刀と鬼狩りの魔剣が互いの刃を食い潰し合っていた。
茜は忌々しそうに吐き捨てる。
「妖刀か……ッ」
「さっきから煩いのよ。貴女を斬れって」
「ほざけ!!」
大通連を振り下ろし、野ばらを叩き落す。
野ばらは地面スレスレで傘を開き、着地した。
刹那に抜刀、剣閃。空から降り注ぐ斬撃の雨を斬り伏せる。
野ばらの眼前に長大な刃が突き立てられた。
降りてきた茜が柄を掴み、渾身の力で斬り上げる。
超犯罪都市に大きな溝ができた。
独特のステップを踏み回避した野ばらは、渾身の回転蹴りを放つ。
茜はガードするも、更に連続で蹴りを浴びせられ、もう一度回し蹴りを食らって後退した。
吹き飛ばされた余波を大連通を地面に刺す事で殺し、止まったところで柄巻の上に立つ。
茜は喉を鳴らさんばかりに野ばらを睨み付けた。
「生意気な……!!」
崩壊した常夜の魔界都市で、二名は再度対峙する。
腰に差した二振りの霊刀を逆手持ちにし、茜は跳んだ。
小太刀サイズの霊刀、顕明連と小通連での回転斬り。
まさしく縦横無尽。
横に、縦に回りながら野ばらを斬り伏せんとする。
更に二振りの属性──獄炎と凍結も混ぜ込む。
薙げば火焔の波が発生し、地に刺せば氷柱が野ばらを閉じ込めようとした。
それら全てを躱し、捌ききったとしても、今度は神通力で振るわれる超刀大通連が風を斬る。
野ばらは上体を反らして寸前で避けるも、その攻撃範囲は規格外の一言。
三本の霊刀を巧みに操るその技量、見事という他無い。
野ばらは防戦を強いられていた。
以前彼女に勝てた理由は、不意打ちによる一方的な辻斬りだ。
油断している彼女を一刀の元に斬り伏せる、それしか無かった。
しかし今回は違う。
相手は一切油断なく、正面から攻めてくる。
以前の野ばらなら打つ手が無かった。だが今は強力な武器がある。
野ばらは妖刀の力を開放する。
緋色のオーラは鬼殺しの毒そのもの。風圧だけで茜の頬を焦がしてみせる。
茜は警戒心を一気に強めた。
野ばらは地を蹴り距離を詰める。
刹那──時が停まった。
野ばらの動きが停止する。まばたきすらしない。
小通連の能力──時間の凍結である。
ごく限られた空間しか凍結できないが、一度発動すれば同格の鬼神であろうと問答無用で停止させる、茜の奥の手だった。
「阿呆め……例え妖刀を携えていようと、以前の様に上手くいくと思うな!!」
茜は吼え、二振りの霊刀を振るう。
獄炎と吹雪を織り交ぜ、野ばらを飲み込み消滅させようとする。
例え最上級の妖魔だろうと耐える事はできない、災害を収束させたかの様な猛撃。
しかし斬線奔る。
獄炎を断ち、吹雪を裂き、茜の前に躍り出た野ばら。
茜の表情が驚愕に染まる。空間ごと時間を停止させた筈なのに、何故──
反射的に大通連を神通力で振るうも、ここで妖刀の全力が発動。大通連の長大な刀身ごと茜を叩き切る。
袈裟斬りで鮮血舞う。
何故──茜が目を見開くと、そこには緋色の輝くオーラを纏った野ばらが居た。
煌く星の如きオーラは、かの傭兵王が得意とする究極技法──魔闘技法である。
野ばらは疑似的に再現してみせたのだ。
しかし妖刀の波動と自分の生命力を無理矢理混ぜただけなので、効果は一瞬。
しかも身体の至る所から鮮血が迸る。
究極技法の模倣など本来するものではない。単なる自殺行為である。
しかし、こうするしかなかった。
こうでもしなければ、警戒した茜を出し抜く事ができなかった。
肉を斬らせて骨を断つ。
己の命よりも鬼の討滅を優先する野ばらだからこそできたのだ。
髪飾りが重圧で千切れている。
束ねた髪が解け、腰まで届く長い黒髪が風に靡いた。
鮮血に塗れながらも凛とした構えを解かない野ばら。
その立ち姿、まさしく極寒の藪に咲く一輪の野ばらの花の如し。
茜は過呼吸を繰り返す。
顕明連の驚異的な再生能力を以てしても、鬼殺しの呪詛は拭えない。
全身を犯す激痛に悲鳴を上げそうになりながらも、彼女は野ばらに襲いかかった。
「私は……負けぬ!! 負けられぬ!! あの方のために、私は絶対に負けられないのだッッ!!!!」
「ッ」
互いに満身創痍。しかし全力で得物を振るう。
激しい剣劇、金属が潰れる音が幾重にも響き渡る。
茜は吐血し、野ばらは全身から血を吹き出しながらも、尚止まらない。
野ばらは唐突に膝蹴りを放ち、体勢を崩した茜の腕に刺突を放つ。
悲鳴を上げて顕明連を手放す茜。野ばらは容赦なく妖刀を振り下ろす。
しかし茜も命懸け。最後の得物、小連通で刺突を放つ。
両者の目前に刃が迫る。
しかし一拍、野ばらの方が早かった。
茜の首に妖刀の刀身が触れる──その瞬間、何処からともなく飛んできた護符が茜を護った。
茜は驚愕した後、天守閣に振り返り涙を流しながら叫ぶ。
「駄目ぇ!! 雅貴様ァっ!!」
茜は理解していた。
大嶽丸と死闘を繰り広げている雅貴に、自分を護る余裕などない。
この護符が意味する事とは──
雅貴の邪気が、消え失せた。