一話「長谷部」
今から20年前の出来事である。
東京の某区にある団地群にて。
記者団のフラッシュが矢鱈にたかれていた。
その中を、一人の少年が刑事達に連行されて行く。
16歳に満たないこの少年は、15件の強姦殺人を繰り返した犯罪史上類を見ない凶悪犯である。
少年──犬飼ヨウジは、顔色一つ変えずにパトカーに乗り込り込んでいった。
着ている白いトレーナーは返り血で真っ赤に染まっている。
その上に乗っているのは色素の薄い、美しい少年の顔だった。
「何か一言だけ!!」
「どうしてこんな事をしたんですか!?」
「邪魔だ、早くどけ!」
「うるせぇ、お前の方が邪魔だ!!」
質問と罵声が鳴り響く中、サイレンの音が混ざり合う。
少年が凶行を行った部屋には、男が一人いた。
厚さ1センチほどにもなる鮮血はまるで沼。
その中に沈んでいたのは──最愛の妻と娘だった。
「……、
呼ばれて目を覚ますと、もう朝になっていた。
長さんこと、
若い婦人警官は腰に手を当てて注意した。
「こんな所で寝てたら風邪引きますよ? もう今年で定年なんですから、無理しないで下さいね」
「あぁ。すまない」
長谷部は警視庁の殺人課に勤務する刑事だ。
今から二十年も昔の話である。
最愛の妻子が殺されたのは……。
犬飼ヨウジはあれだけの大罪を犯したのにも関わらず、保護観察処分だけで済んだ。
まだ18歳以下であったこと。そして異例の弁護団30人体制での擁護体勢。
犬飼の父親は政財界にコネクションを持つ大富豪だった。
日本中を震撼させた猟奇少年犯罪は、金と権力で有耶無耶にされたのだ。
「そんな馬鹿な!! こんなの間違っている!!」
妻子を殺された当時の長谷部は、怒りに震え抗議行動に出た。
しかしその訴えも虚しく、ヨウジは無罪放免となった。
警察上層部にもかけ合ったが、答えは梨のつぶて。
他の被害者遺族が不思議と何の行動にも出なかったのは、ヨウジの父親により相当の圧力がかけられたからである。
それからというもの、長谷部は変わった。
元々熱血刑事で通っていたが、口数少なく無気力とすら言える態度になった。
黙々と業務をこなし、寝る場所はいつも殺人課の刑事部屋。
最低限の交流しかせず、プライベートで呑みに行く事も殆ど無い。
そうする内に、彼は定年を間近に迎えたのである。
◆◆
「長谷部、ちょっと付き合え」
その日の夕方、同僚の刑事、多村が現れた。
何処にでもいそうな老刑事である。
彼は長谷部を飲みに誘った。
長谷部は断ろうとしたが、多村は無理やり連れ出した。
二人は昔行き付けだったガード下のおでん屋に並んで座る。
「お前も定年か。まぁ俺も後一年ほどだが……早く呑めよ」
多村は自分の盃をグイッと傾ける。
プハーッと息を吐くと、その太い眉を顰めて吐き捨てた。
「納得いかねぇよな。俺も同感だ。犬飼ヨウジ──奴は単なる変態殺人鬼さ」
「……」
長谷部は無言で立ち上がると、カウンターに一万円札を置く。
多村がオイオイと肩を竦めた。
「人の話は最後まで聞くもんだぜ。犬飼ヨウジの足どりがわかったんだ」
長谷部の無気力な双眸が見開かれる。
保護観察処分になったヨウジはプライバシーの保護と少年法に守られ、その行方は杳として知れなかった。
多村は冷や汗をかきながら笑う。
「ヤツは今、デスシティと呼ばれる街に潜伏している。世界政府お墨付きの犯罪者の吹き溜まりにな……!!」
◆◆
闇バスの運転手、死織はバックミラー越しに自分が見られている事に気がついた。
ハンチング帽にヨレヨレのトレンチコート。皺深い表情から剣呑な雰囲気の漂わせる老人。
長谷部は闇バスに揺られながら、運転手に亡き娘の面影を重ねていた。
生きていれば今頃、同い年ぐらいか──
そんな事を考えながら、つい視線を注いでしまったのだ。
彼がバスを降りる時、死織は問う。
「どうかなさいましたか?」
長谷部は何も答えなかった。
現代のソドムとゴモラと名高い魔界都市、デスシティ。
世界各地から犯罪者が集まり、異形の者が跋扈するこの世とあの世の狭間。
長谷部は何とも言えぬ寒気を感じ、思わずトレンチコートの襟を立てた。
同僚の多村から得た情報によると、犬飼ヨウジは父親の手引きによってこの都市へ逃れたという。
息子の成した悪行の数々は何時までも庇いきれるものではない──そう判断したのだろう。
多村が何故そんな情報を知っていたのか、長谷部は敢えて聞かなかった。
興味もない。
彼は復讐に燃えていた。
愛する妻子を殺した男を見つけること──それだけに執心していた。
長谷部はその足で聞き込みを開始した。「操作の基本は自分の足で」が彼の座右の銘である。
20軒近い店を回ってみたものの、手がかりは無し。
お次は人体改造バー『インセクツ』という看板が上がる店だった。
七色の電飾がどぎつい光を放っている。
この街では警察手帳は何の意味も為さない。必要なのは金。
もしくは──
「犬飼ヨウジぃ!? 知らねぇなぁ」
剃り上げた頭頂から爪先まで全身刺青だらけの巨漢が舌を出す。
この店の店長である。周囲をダークスーツの筋骨隆々たる男達が固めていた。
「誰だよソイツは。あんたのコレか、あぁ!?」
店長が小指を立てながら笑う。
周りの男達もつられて笑い始めた。
長谷部は無言で店長の襟首を掴むと、足払いをかけて床に引き倒す。
逮捕術の一端である。その動きは洗練されていた。
「野郎! 何しやがる!!」
周囲の男達が一斉に懐に手を入れる。
長谷部は慌てず、周囲を見回しながらある言葉を呟いた。
瞬間である。
男達が恐怖に引き攣った笑みを浮かべたのは。
代表して店長が手を揉み合わせながら応対する。
「だ、ダンナぁ、それならそうと最初から言って下さいよ」
その態度の変わり様は、はっきり言って異常だった。
長谷部はどんな魔法の言葉を使ったのか──
それは店長の口から語られる。
「いや~、まさか大和のダンナとお知り合いとは……こりゃ失敬、失敬っ」
長谷部は、多村から「身の危険を感じた時に使え」と言われたのだ。
『俺は大和の友人だ』と──
それだけで事態は急変する。
無理やりにこやかな笑顔を作る男達に、長谷部は乾いた声で告げた。
「案内してもらおうか、犬飼の所へ」
デスシティで最も恐れられている男──大和。
彼の友人と言えば無碍に出来る者など殆どいない。
確かに魔法の言葉であるが、それは生きた天災を引き寄せる呪いの言葉でもあった。