話は進んでいません。
芳村
「はぁ…」
漸く自宅だ。
ここに辿り着くのに、かつてこれ程長く感じたことがあっただろうか。いや、過去如何なる時と比べてもないと断言できる。
「はあ……はぁ…」
よし殺そう。
顔を潰して喉を抉り、四肢を削いであとは全部細切りにして焼いて、原型がなくなるまで砕いてゴミの日に出そう。
ドアの閉まる音と共に、私は決断した。
ーー高槻さん
「ーーーっ」
この、むず痒すぎて叫びたくなるほどに不快な感情は、私には不必要なのだ。
「はぁっ…ぁ」
これを仮にーー認めがたいがーー恋愛感情と仮定して、この先いったい何の役に立つと云うのか。
否である。何の役にも立たない。障害にしか成り得ない。非常に愚かな時間の浪費となるだろう。
母さんを疎んではいない。その点では、
ならば、即刻
ーー高槻さん
今日のことは全て忘れてしまおう。
「…は…ぁ…」
まずは……そう。次に会った時にでも………いや、殺すその瞬間まで油断させて…確実な状態で事を運ぶべきだ。あの青年は、私に警戒心を持っているようだからな。慎重に行こう。
「……」
今暫く、私の彼氏気分を味わっているがいいぞォ青年。
「はっ……はっ…はぁ…」
ああっ、もう!
頭の中がシャンシャン、シャン♪と煩わしい。
蠢めく十の指が、無為に空を切っている。
全身の毛穴から湧き出る液体に、無数の文字が、文章が溶けて溢れ出す。
私の意思とは無関係に、足は一人でに踊りながら、
まるで赤い靴。なれば、これは呪いなのだ。世界に反逆する私にと選ばれた、最も効果的な呪い。今の私に逃れる術はない。
「は…あああ…あはは」
しかし、それがなんだというのだ。
ふははは!今は踊らされてやろう。好きにするがいい。しかし、真にこれに意味はない。
私にとっては、
「はぁ!はぁ…はぁはあっはあ…」
……メールしないと…
0
土曜日の朝。
携帯を確認すると、メールが三件受信されていた。
一件目は…帰宅した頃かな。気づかなかった。二件目も、そのすぐ後だ。
内容は…一件目のメールは、総じて要領が得ない文章で書かれていた。まるで、会話でもしているかのように、思いつくままに書かれていた。二件目のメールは、その書き直し。するすると読まされてしまうような文章だったけど、一件目のメールを読んだ後だと、どうにも違和感が拭えなかった。
三件目のメールがきたのは、ついさっきみたいだ。一つのURLが添付されていた。それと、IDとパスワード。それだけだ。
変なサイトに飛んだりしないよなと警戒しながらも、僕はそのURLを開いた。入力画面が出てきたので、IDとパスワードを入力する。
パッと、シンプルで機能的な画面に切り替わった。項目がズラリと並んでいる。
僕は、寝ぼけが吹っ飛ぶくらいに驚愕させられた。取材、設定、本文などで分かれていたタイトルは、明らかに仕事用らしきものだった。
そして、その一番上の、更新日時が今日の朝、つまりついさっきに更新されたそこだけが、無題となっていた。
ーー結果を言ってしまえばそれは…まあ、うん……所謂アレだったと思う。それも、文庫本一冊に相当する量の。
正直、僕には恐怖しかなかった。どんなホラー小説よりもホラーだった。
内容は、まるで思春期少女を描いたようなもの。ポエムが挟んであったり、未来への妄想が綴ってあったり。あの高槻泉が書いたとは思えないほどに、ただ、ただ、気持ち悪いくらいに甘酸っぱい文章だった。
しかし、そこは一流の小説家らしく、気づけば僕は、本の世界に入り込んでしまっていた。
何も知らなければ恋愛もの。しかし、知っている僕は、ホラー小説として楽しんでしまっていた。
昨日のことは、全部嘘だったのではないか。高槻さんのあの慌てぶりも全て演技で、この小説も含めて、やっぱり僕をからかっているのではないか。
終盤に差し掛かったところで、そう考えた。いや、そのほうがいいのだ。随分手の込んだ嫌がらせだとは思うけれど、相手はあの隻眼の梟かもしれない人だ。からかわれている方が、気が楽だ。
しかし、またしても高槻さんは、僕の心を揺らした。
あとがきとして書いてあったものに、頭を抱えたい心境だ。
ーーーー
私は、これを衝動的に書き上げた。未チェックのため、その辺りは黙してくれると助かる。
偽りなく明かそう。
私は、君にどのような感情を抱いているのか、整理できていない。思考しようにも、原因明白の堪え難い苦痛があるために、困難極まっているーーつまり今の私に、知る術はない。
よってこれは、勝手動くままに、本能的に書き上げたものである。
私は、これの中身を知らない。
君に判断してほしい。
では、私は寝る
ーーーー
……。
ショックから立ち直った(思考を放棄した)僕は、スポーツウェアに着替えて、外に出た。これから、この身体を鍛えていくために毎日走るつもりだ。
太陽は、空に高く上がりきっている。風が冷たくも、陽の光が熱を与えてくれている。
ストレッチを流して、軽くジョギングする。十分ほど経ったところで、もう一度身体をほぐす。思っていたより走れることがわかった。カネキケンは、何かスポーツでもしていたのだろうか。
陽が落ち始めた頃、僕は昨日訪れたカフェへと足を運んでいた。大した理由ではない。ただ、昨日はよくコーヒーを味わえなかったから、リベンジに来たのだ。昨日の今日で、さすがに高槻さんもいないはず。ぜひ、本を読みながら、ゆっくりと過ごしたい。
と、そう思っていた矢先に、見覚えのある頭を発見してしまった。昨日、僕が腰を下ろしていたコンクリートブロックに、高槻さんらしき人が、ボサボサの頭を前に横にと揺らしながら座っていた。
人違いかもしれない。仮にあれが高槻さんだとしても、眠っている人を起こすべきではないだろう。
僕は、足音を立てないように通り過ぎようとした。が、その瞬間に高槻さんの頭が勢いよく上がった。
顔の殆どを隠した髪越しに、目が合ったのを感じる。
「やあ、ハイセ君。奇遇だね」
僕は、どう反応すればいいのか迷った。ふるふると首を振って露わになったのは…目の下のクマがくっきりと浮かび上がって…化粧をしていないだろう素顔の高槻さん。あと、口から顎にかけて、よだれのせいか、それなりの量の髪の毛が、まとまって張り付いてしまっていた。一部は固まっているようだ。
高槻さんに気づいている様子はない。こういう場合、僕から指摘してもいいのだろうか。
「あの、これどうぞ。口元拭いて下さい」
迷ったのは少しの時間だけ。遠慮はしないことにした。
僕は顔を逸らして、おろしたてのハンカチを高槻さんに差し出した。息を飲む音。そして数秒後に、僕の手からハンカチが、ぱっと抜き取られた。
「いやぁ…スマンね。お恥ずかしいところを。これは洗って返すよ」
「…いえ。それより何でそんな遠くに…?」
視線を戻せば、高槻さんとの距離が十メートル以上は離れていた。僕としてもこの方が好都合だけど、純粋な疑問として尋ねた。
「…ん?ああ、いつのまに」
そう言って、高槻さんは距離を詰めてきた。
「…いや、近すぎます」
高槻さんは、触れ合いそうな距離まで詰めて来たのだ。極端すぎる。
「あん?…うぉっ近っ」
高槻さんは、バッと素早いバックステップで離れていった。今度は普通の距離だ。
「ハンカチは気にされなくていいですよ」
僕は、ハンカチを返してもらおうと、そっと手を差し出した。高槻さんは、僕の手のひらを見て、目をパチパチさせた。
「…いやいやいや、ハイセ君、それは些か尖った趣味じゃないかね。お姉さんの唾液が付着したハンカチがお好み?……仕方ないなぁ」
もっとサービスしようかとか言いながら、ハンカチを口元に持っていく高槻さん。普通にドン引きだ。あと、なんか口調が古めかしいような気が…昨日はもっと砕けた感じだった。後半は無口だったけど。
「…それ、差し上げます。もう返して貰わなくて結構です」
本当にやめてほしい冗談だ。なぜ、そこで傷ついたような表情をするのかもわからない。
「じゃあ、僕はこれで」
仮に交際関係にあるとしても、これ以上この人に付き合う必要はないだろう。見たところ、高槻さんの格好は部屋着そのものだ。上下のジャージに、ダウンジャケット。そのまま帰って下さい。
「待って」
「…どうしたんですか」
高槻さんは、俯いていて、その表情は窺えない。ボサボサの髪がふわふわと揺れている。
「どうだ、これから私の家ーー」
「高槻さん。早く店内に入りませんか?今日は寒いから、きっと美味しいと思いますよ。コーヒー」
「あっ…うん」
高槻さんが歩き出したのを確認して、僕も足を進めた。
「……」
「……」
無言だ。でも当然だ。本を読んでいるのだから。
しかし、さっきから、いや最初からチラチラと高槻さんに視線を飛ばされている。何を考えているのか分からない、無機質な瞳で。
こんな寒い日なのに、アイスコーヒーが飲みたくなる。いや、うんと熱いやつでもいい。しかし、カップに注がれたホットコーヒーは、残りあと少しだ。おかわりしようかな。
「ハイセ君は、どこの大学生さん?」
「上井大学です」
「あ、知ってるいるぞ、そこ。以前、取材のために潜入したからな。
不穏な呟きなんて、僕には聴こえていない。
しかし、この人の容姿ならば、高校生と言われても信じてしまいそうだ。老成した目の色を隠せるのなら…うん。やっぱりないか。
「サークルとか参加してる?」
「いえ」
「バイトしてる?」
「いえ。でも探そうとは思ってます」
「好きな食べ物は?」
「ハンバーグでしょうか(カネキケンが)」
「一人暮らし?」
「はい」
「年上と年下どちらが好み?」
「特には。でも大人っぽいほうが」
「…好きなタイプは?」
「…エプロンが似合って、コーヒーを淹れるのが上手な人でしょうか…ショート…いやロングもいいな…」
「………そう。そうなのか…」
間ができる。
質問されている時も、僕は本を読んだままで、言っては悪いが適当に流していた。
いつまにか、僕はこの本にのめり込んでいたのだ。まあ、それくらいに、この美術評論にはユニークなものがあって、思ったよりも楽しめていた。ページを捲る度に微かに香るのもいい。癒される。
「ところでハイセ君、バイトのことなのだがーー」
パっと、ページの上に小さな手が二つ置かれた。僕はそれで、一気に現実へと引き戻された。目の前には、無表情の高槻さん。隻眼の梟かもしれない人がいた。
「なんでしょうか」
自分でも分かった。読書の邪魔をされて、少し不機嫌な声が出てしまった。まるで子どもだ。気まずさと少しの恐怖から、視線を外す。
五秒十秒三十秒……反応がない。
申し訳ない気持ちで視線を戻すと、高槻さんはポカンと小さく口を開けたまま固まっていた。
「すみません、僕少し言い方が…高槻さん…?」
全く反応がない。少し心配になる。微動だにしていないのだ。
僕は、少し身を乗り出して、高槻さんの目の前に手をかざそうとしてーーやめた。さすがに馴れ馴れしい気がしたからだ。
じゃあ、どうするか。うん、どうにもできない。
とりあえず、僕はーー高槻さんのカップのコーヒーが少ないのを確認してーーアイスとホットを一つずつ注文した。