不束者ですが、どうぞよろしく。
忘れられたものたちが集う楽園、幻想卿。
妖精、妖怪、亡霊、神、悪魔――外の世界では幻想として語られるようになった存在が最後に行き着く、混沌とした掃き溜め。
「弟子を取れ?」
太陽の沈み掛けた夕暮時、外装を紅く塗り上げられた趣味の悪い屋敷、紅魔館の主である吸血鬼にとっては、ようやくの起床時間を少し過ぎた頃。
地下室に居る一名を除き、屋敷の主だった者を集めた一室で、居候の身分にある動かない大図書館の異名を持つ七曜の魔女、パチュリー・ノーレッジはそんな疑問符を上げた。
長い紫髪の先を幾つかのリボンでまとめ、紫と薄紫の縦じまが入ったゆったりとした服の上から、更にローブのような長袖の服を着込んでいる小柄な少女だ。
「私に教えを請いたいだなんて、命知らずな愚か者でも出て来たの?」
三日月型の飾りが付いた帽子を触りながら椅子に深く腰を下ろし、肘掛けに両肘を置いて眼前で手を組むと、真意を探ろうと胡乱気な目で話題を振って来た親友を睨む。
「そう。とある人間の子供に、魔法のいろはを教えて欲しいのよ」
パチュリーの機嫌と反比例して、長く鋭い犬歯を覗かせながら嬉々として笑うのは、魔女の親友にして紅魔の当主、永遠に紅い幼き月こと、レミリア・スカーレットだ。
白色の強いピンクのナイトキャップに、紅いリボンやレースが各所にあしらわれた、同色のドレス。
青みがかった銀髪に、真紅の瞳。人間で言えば、十にも満たないような背の高さだが、背中に生えた大きな蝙蝠の翼が、彼女が吸血鬼という人外である事を声高に主張している。
「なぜ、私がそんな面倒な仕事を引き受けなければならないの?」
「それは、見てもらった方が早いかもね――美鈴」
「はい」
レミリアがあごをしゃくると、扉の傍に控えていた紅魔館の門番である華人小娘、紅美鈴が頷く。
名前と同じ赤い髪を腰まで伸ばしたストレートヘアー。側頭部分は編み上げた後にリボンを付けて垂らしている。
淡い緑色の帽子と、側面に大きくスリットの入った同色の華人服を着た、長身の女性だ。
「さぁ、どうぞこちらへ」
その美鈴がゆっくりと扉を開き、外で待っていた人物を廊下から室内へと招き入れた。
簡素な白いバスローブを巻いただけの、レミリアと同程度の外見をした線の細い少年。髪は黒く、長い期間切っていないのか目元を隠すほど長い。
一見して、ただの子供にしか見えない少年は、どうやら酷く緊張しているらしく、視線を下げたまま小刻みに震えていた。
「人里での買い物帰りに、咲夜が見つけて拾って来たの」
「あらあらぁ。咲夜さん、ロリロリなお嬢様のお世話をしているからって、とうとうそっちの趣味に目覚めちゃいましたかぁ?」
レミリアの説明に、口元を押さえて下品に笑うのは、紅魔館の誇る大図書館の司書という、パチュリーの助手ともいえる立場にある小悪魔だ。
肩口ほどの赤髪に、頭部と背中に悪魔然とした羽。白シャツに黒色のベストにネクタイを締め、ベストと同色のロングスカート姿という乱れ一つない見た目は清廉に見えるが、いかんせんその発言は下劣といえるほど品性がない。
「いえいえ、屋敷の部屋は余りに余っていますので、若いツバメを囲って監禁した所で問題はないんですけどねぇ、うぷぷ――ぎゃぴぃっ!」
「黙りなさい。顔中串刺しにするわよ」
紅魔館で働く妖精メイドたちの上に立つメイド長として、屋敷に必要な全作業をほぼ単独でこなす完全で瀟洒な従者、十六夜咲夜がいやらしく表情を歪める小悪魔の右目に、容赦なく投擲した銀のナイフを突き刺した。
彼女は、この人外の館に住まう唯一の人間である。
青と白を基調としたメイド服を着た銀髪のボブカットをしており、両方のもみあげ辺りから、先端に緑色のリボンをつけた三つ編みを結っていた。
蒼玉で切れ長の瞳は、不快感によって鋭く尖りきった状態で小悪魔を睨み付けている。
「ひっ!」
突然目の前で起こった陰惨な出来事に、始めてその光景を目にする少年は喉を引きつらせて後ずさった。
しかし、少年にとって心臓に悪い驚きは終わらない。
「おっとぉ。中々ナイスな反応ですねぇ」
「え!?」
目玉を抉られたはずの小悪魔が、悪戯が成功したかのようなのんきな口調で、血も流さずにあっさりとナイフを引き抜く。
数度瞬きした頃には、今の出来事がまるで夢だったとさえ思える傷一つない姿で、ナイフを片手に持った小悪魔がそこに居た。
「私たちは、咲夜さん以外は人間じゃないんですよねぇ――ぐっ! ほらぁ、どうです? 不思議でしょう?」
「あ……ひ……」
興が乗った小悪魔は、今度は首の側面から自分の手でナイフを突き入れ、喉を貫通させた状態で少年へと近づく事で、その怯えた反応を楽しむ。
小悪魔という名前から解る通り、彼女は力弱くとも欲望と堕落の権化であり、負の感情を楽しむ悪魔の一種だ。今見せている姿は、周りに合わせた仮初めのものでしかない。
「あ――」
あっさりと防波堤が決壊し、少年から鼻を付く臭いが充満し始めた。
バスローブの股間が濡れ、少年は立っていられなくなったのか、床にへたり込んでしまう。
「これは――っ」
その瞬間、パチュリーは少年から強烈に発せられたものを感じ、全身に悪寒を走らせた。
少年が今、感情や小便と共に溢れ出させているのは、肌が泡立つほどの濃密な魔力だ。
「見事なものでしょう? 制御さえろくに出来ていない状態であれほどの魔力を垂れ流せるなんて、早々居るものではないわ」
小悪魔の性格を利用した茶番が終わり、誰に言われるまでもなく無言で動いた美鈴に優しく抱えられながら、少年が去った部屋の扉を見てレミリアが薄く笑う。
「下手をすれば、天変地異クラスの厄ネタね……なるほど。理解したわ」
対して頭を抱えるのは、少年の価値と危険性を即座に理解したパチュリーだ。
長く、魔法使いという種族を生きたパチュリーですら危機感を抱く魔力を内包しておりながら、同時に感情のほつれでそれを簡単に溢れ出させてしまうほどの未熟者。
あの少年が、妖怪の山に住む常識を超越した緑巫女にでも拾われれば、確実に大規模な事件がこの幻想郷を襲うだろう。
事件が起こるのは良い。
この幻想郷は、パワーバランスを担うほどの勢力たちが定期的「異変」と呼ばれる騒ぎを起こす習慣がある。
その異変を、幻想郷の管理者と定められた博麗の巫女をはじめとした力ある人間が出向き、首謀者たちを「弾幕ごっこ」と呼ばれるルールの下で退治する事で、郷の住人たちに刺激と話題を提供し、隔離されたこの土地の閉塞感を補っているのだ。
だが、あの少年は文字通りの意味で爆薬だ。
臨界で暴発すれば、この紅魔館を含めた一帯がまとめて消し飛びかねない膨大な魔力が、野ざらし雨ざらしの状態で放置されているという、生半ではない危険物。
手綱を握り間違えば、幻想郷に大穴が開く。
「そう。それで、答えを聞こうかしら」
「その前に、一つ質問があるわ」
館の当主であるレリミアが、滞在を許した時点で無駄な抵抗だと理解しつつも、パチュリーは何とか代替案を出そうと頭を捻る。
「美鈴があの子の身を清めている間に、咲夜が魔法の森の人形遣いを訪ねたそうだけど、柄じゃないと断られたそうよ」
「じゃあ魔理沙は……いえ、何でもないわ」
レミリアの言う七色の人形遣い、アリス・マーガトロイドならばともかく、弾幕は火力、などと豪語する黒白の魔法使いにあんな
「貴女が断れば、残念だけどあの子は屋敷から放り出す。後は知った事ではないわ。でも、咲夜がわざわざ連れて来た逸材を手放すのは、僅かに惜しい――さて、どうする?」
「――いいでしょう。急ぎの研究もないし、手慰みとして面倒を見てあげるわ」
実際、言葉以上の意味などないのだろうレミリアの台詞に、たっぷり十秒以上思考したパチュリーが、降参の意思表示として両手を天井へと上げた。
「結構。やっぱりパチェは頼りになるわね」
「我侭も大概にしないと、何時か愛想を尽かされるわよ。レミィ」
「私が我侭だというのなら、それはきっとパチェたちのせいだわ。だって、私がどんな我侭を言ったって、何時だって親友と優秀な部下たちが
「ものは言いようね、付き合わされる身にもなりなさい」
敗北者として、盛大に苦虫を噛み潰すパチュリーへと、心から勝者の笑みを向けるレミリア。
衣食住の恩もある。レミリアの我侭も聞き慣れている。
そして、面倒を引き受ける最も大きな理由は、咲夜があの少年を連れて来たという部分だ。
あれほどの魔力を垂れ流す子など、人里では化け物扱いだった事だろう。その特異な能力故に同じ境遇にあり、紅魔館という人外の根城に仕えるしか道のなかった咲夜の願いは、なるべくならば叶えてやりたい。
「でも、私が教えるからには授業は厳しく行くわよ。中途半端は嫌いなの」
「くふふっ、これは面白くなりそうですね」
鋭く瞳を細める魔女の隣で、悪魔の娘がさも楽しそうに好奇の笑みを浮かべていた。
この瞬間、悪魔の館に誘われた少年の運命が、本人の与り知らぬままに決定した。
◇
紅魔館の一室、大図書館。
居候であるパチュリーの根城であり、見渡すほどの広大な空間には、膨大な書物が幾千万と貯蔵されている。書籍の内容は、魔道書を含めて多種多様。
中にはパチュリー自筆の魔道書なども置いてあり、日々外の世界で忘れられ、幻想となった本たちが勝手に増殖する仕様となっている。
その蔵書量は幻想郷最大であり、パチュリーによって施された防火や防水を始めとした防護魔法により、大妖怪が全力で攻撃でもしないかぎり本棚は元より本そのものを傷付ける事すら難しい。
「う、うる・かーの!――わひゃあぁぁぁ!?」
そんなかび臭い薄暗い空間で、薄紫色のローブ姿となった少年が手の平サイズの小さな樫の杖を片手に唱えた魔法は、極大の火炎放射となって少年の目の前に顕現した。
「何をしているの、すぐに放出している魔力を切りなさい。自分の中にある魔力の弁を閉じるの。館を丸焼きにするつもり?」
少年にとっては、パニックに陥るほどの事態を平然と眺めながら、パチュリーは平坦な声で指示を出す。
住人との挨拶もそこそこに、早速訓練を開始する為に場所を大図書館へと移し、結界を張って周囲から少年を隔離したパチュリーは、試しに初歩の魔法を教えて唱えさせてみた。
結果はご覧の通り、結界がなければどこまで伸びるか解らないほどの勢いで、少年の制御を受け付けず杖から焔が踊り狂っている。
呆れた調子で、一枚のカードを服の裾から取り出したパチュリーは、カードに封じた魔法を発現させた。
水符・ベリーインレイク
「まったく……」
「あばぼばばばぼばば……」
パチュリーの助力で確かに炎は消えたが、同時に結界内に満ちる大量の水によって、少年は室内で溺れるという貴重な体験をするはめとなった。
気を取り直して、もう一度別の魔法を教えてみる。
「で、でで、でる・うぃんで!――ぽぴ~~!!」
唱えると同時に、噴出した暴風によって天高くへと舞い上がる少年。
大図書館というだけあって、上空にも広い空間を持つ地下の天井付近まで飛び上がり、そのまま魔方陣の描かれた床へと落下していく。
「ふぅ……」
パチュリーは慌てず騒がず、空間を指でなぞって新たな魔方陣を描き、それを少年の落下地点へ向けて素早く滑らせた。
空中で静止した、重力緩和の魔法が記された魔方陣が輝きを放ち、高速で墜落してきた物体を優しく包み込む。
速度を落として地面へとその身を着けた少年は、上下に揺さぶられた強い衝撃により、泡を吹いて完全に気を失っていた。
「きゅ~……」
「前途多難ね……」
鈍痛を抑えるようにこめかみを押さえながら、家庭教師魔女は盛大な溜息を吐く。
結局、その後も似たような現象を繰り返した少年は、疲労によって泥のように眠ってしまい、それ以上の授業は行えなくなってしまった。
少年の介抱を小悪魔に任せ、パチェリーは今日の報告をする為レミリアの元へと向かう。
「やる事なす事、暴発、暴走、大爆発――ほんと、酷いものよ」
星の光が降り注ぐテラスで、白塗りのテーブルに紅茶の入ったカップを置き、散々だった初日の結果を正面の依頼主に語るパチュリー。
捨食の魔法を取得したパチュリーは、己や空気中の魔力を栄養に変換出来る為本来食事は必要ないのだが、要は心の栄養だ。
「才能は魔力の多さだけだった、という訳かしらね」
対するレミリアは、傍に咲夜を控えさせて優雅に紅茶を飲みながら、仕掛け人の一人だというのに特に興味のない様子だ。
彼女が気紛れなのは何時もの事なので、パチェリーは気にせず報告を続ける。
「私のように、深海の底に沈むかの如く枝葉を無限に広げる事が才能なら、どこかの未熟な魔法使いのように、一点突破を突き詰めて北斗の彼方を目指す事もまた、一つの才能よ。一通りはやらせてみたけど――属性、召喚、呪術、神聖、結界、時、占星、傀儡、強化、錬成、どれも駄目ね。せめてあの子の得意分野さえ解れば、才能の有無も語れるのだけれど……なに?」
饒舌に語るパチェリーは、聞いているのかいないのか、レミリアの口角がこれ以上なく釣り上がり、腹が立つほどの笑顔になっている事に気が付いた。
「いえ。なんだかんだ言って、しっかり先生してるんだと思ってね」
「最初に言ったでしょう? 私が教える以上は、生半可な実力程度では私が許せないのよ」
レミリアのからかいを、パチュリーは憮然としながら言い返す。
魔法使いという探求者であるパチュリーにとって、物事の結果は
少年の才能がないと解れば切り捨てるし、何か一分野でも伸ばせる場所があるなら、その部分のみで特化させる。それだけだ。
労力を払う分、結果を成功とさせたいと思うのは当然の思考だろう。
「紅魔館の戦力にでも成ってくれれば儲けものね。期待しているわ、パチェ先生」
「善処するわ、レミィ」
くすぐりあうようなやり取りの後、二人の口角が同時に上がる。たったそれだけで、二人は互いの心を通じ合わせて笑い合う。
「あぁ、そうそう。あの子に名前を与えるわ」
「あら、なかったの?」
「酷い先生ね」
今更、少年の名前を今日一日呼んでいなかった事に気付くパチュリーを、レミリアは呆れを含んだ半眼で眺めた。
「あの子の名前は今から「ノーネ」よ。小悪魔にも伝えておいたから、あの子が起きたら覚えさせなさい」
「ノーネ、ね。貴女らしい、素晴らしい名前だわ」
「元々は人里の子だし、「
「ノーコメントよ」
傲慢で気高い吸血鬼様は、相変わらずネーミングセンスが突き抜けている。
「気に入らなければ、あの少年が魔法使いへと昇華したあかつきに、パチェが新しい名を与えてあげなさいな」
「考えておくわ」
当然の事ではあるが、種族としての魔法使いへと変わるのは容易ではない。
食を捨て、寿命を捨て、全ての欲望を「魔」への探求と研究に費やすと誓った、真なる狂人のみが訪れる最果ての境地。
そこに至れないまま寿命を迎える者が大半の中、あの少年が高みへと到達出来るかどうかは、今現状ではまったくの不明瞭だ。
昇るか、堕ちるか。少年の歩む道は、この屋敷に居る限り二択に一つとなるだろう。
◇
翌日、今度は少年の知識の面からアプローチを仕掛けようとしたパチュリーは、新たな問題に直面して頭を抱えていた。
「まさか、貴方が文字を知らないとはね……」
「ご、ごめんなさい……」
不機嫌な彼女の前で、ノーネと名付けられた少年は恐縮した面持ちで顔を下げる。
このままでは、筆記試験を行うどころか魔道書を使った勉強すら不可能だ。
「寺子屋の牛教師は、一体何をやっているのだか」
「あ、その……ボク、寺子屋には通っていません……ボクは、化け物だから、村の人にばれると、殺されるって……」
「あぁ、そう」
少年は、たどたどしい口調で何とか弁明しようとするが、パチュリーにとっては理由などどうでも良い事だ。
そういう理屈で、親から監禁でもされていたのだろう。その過程に興味はないが、そのせいで彼への学習に新たな項目が追加されると思うと、非常にやる気が削がれてしまうパチュリーだった。
「紅茶をお持ちしました。パチュリー様、休憩に致しませんか?」
文字を覚えるより先に己の魔力を制御方法を覚えさせようと、ノーネに瞑想による集中を教えている途中で、ノック音の後、正面の扉を開き咲夜が大図書館へと入室した。
ポットやカップの乗ったお盆を器用に片手で掲げながら、危なげなく背筋を伸ばして歩いてくる。
「はいはーい。私ももうクタクタですよぉ」
大量の本棚の遥か上部から、幾つかの本を抱えた小悪魔がのんきな声を上げ、背中の翼をはばたかせて咲夜の傍へと着地した。
「貴女は呼んでないわ」
「またまたー」
絶対零度の視線を笑顔で受け流しながら、小悪魔は奥に置かれている丸テーブルと二人分の椅子をパチュリーたちの前へと運び、その後もテーブルを拭いたり椅子の位置を調節したりと、無駄のない動きで休憩の場を整えていく。
言葉も性根も下種な小悪魔だが、仕事振りに関してだけを正当に評価するならば、彼女は非常に優秀だった。
小悪魔とパチュリーの関係は、「死後その魂を受け渡す」といういわゆる悪魔の取引によって主従契約を果たした、隷属者と使役者の関係だ。
パチュリーは、捨虫の魔法により寿命を捨て、捨食の魔法によって三大欲求の食欲を捨てた魔法使いという種族の妖怪であり、寿命と呼べるものはない。
つまり、小悪魔はほぼ永続的にパチュリーへの隷属を強要されている事になるのだが、彼女にはそれを悲観したり、理不尽な契約を執行した魔女に対する敵意や殺意を持つ事もない。
その真意を知る術は、さとり妖怪でも呼ばない限り不可能だが、案外彼女も今の生活を気に入っているのかもしれない。
「はい。これはノーネの分よ」
「わぁ……」
パチュリーに紅茶を差し出した後、対面の席に座るノーネの前に置かれたのは、おやつとして用意されたホットケーキだった。
見た目も美しく、円型と星型のホットケーキに小さく四角に切り取られたバターが乗せられ、蜂蜜を混ぜたシロップがまるで踊るような軌道でそれらの上を走っている。
「ノーネ」
「ひっ」
初めて見るだろう食事に生唾を飲み込み、持ち慣れないフォークを手に取った所で咲夜から静かに名前を呼ばれ、ノーネは驚きに身を竦ませてしまう。
「紅魔館に住まう以上、ノーネには最低限の礼儀作法を覚えて貰います。食事を始める前に、日々の糧となるものに感謝の言葉を――さぁ、もう一度」
ゆっくりとフォークを置かせ、教え聞かせるように語った咲夜は、ノーネの次の行動を注意深く観察し始めた。
ノーネは咲夜やパチュリー、小悪魔に何度か視線を泳がせた後、おずおずと両手を合わせて目礼する。
「いただきます」
「――はい、良く出来ました。どうぞ召し上がれ」
途端に、見惚れるほどの笑顔となった咲夜に嬉しそうな笑みを返し、少年はホットケーキをフォークで歪に切り分け、僅かな躊躇の後で思い切り口の中へと運び込んだ。
「――美味しい!」
「そう、嬉しいわ。ありがとう」
短い間だとはいえ、紅魔館内で一番同じ時間を過ごしたパチュリーには未だ怯えを強く残しているというのに、少年の咲夜に向ける笑顔を見れば、メイド長に対する警戒心が解けているのは一目瞭然だった。
やはり、友好や親愛を生む為に相手の胃袋を掴むのは、全ての生物に共通する有効手段だという事なのだろうか。
「扱いが上手ね。見習いたいわ」
「ぷっ、この程度で嫉妬とか、どれだけ心狭いんですかパチュリー様――ぽぎゃぁっ!」
「私は、メイド妖精たちの教育も行っておりますから一日の長があるのでしょう」
流れるような手付きで魔法を発動させ、傍に控える小悪魔の顔面を火球で焼くパチュリーに対し、謙遜でもなく率直な意見を話す咲夜。
「教えた内容を上手く出来た際に、ご褒美などを与えてみてはいかがでしょうか? 報酬があると解れば、例え苦手なものであっても奮起出来ると思います」
「目の前に餌をぶら下げるのね。即物的だけど、悪くない案ね。もしかして、貴女もそうだったの?」
「えぇ」
パチュリーの疑問を、あっさりと肯定する咲夜。
今の凛とした佇まいからは想像も付かないが、彼女にもノーネのような幼少の時期が確かにあり、今は門番兼庭師の地位に居る美鈴の教育によって、立派なメイド長へと昇格した過去を持っている。
「参考までに聞くけど、その時の報酬は何だったの?」
「そうですね。頭を撫でて貰ったり、髪を梳いて貰ったり、或いは一緒に寝て貰ったり――そんな所でしょうか」
「そんなもので良いの?」
「パチュリー様。パチュリー様ににとってはそんなものであったとしても、子供にとっては十分な報酬になるのですよ」
瞳を閉じ、どこかここではない場所へと思いを馳せながら、どこまでも優しい口調で咲夜は語る。
過去を懐かしむのは、人間の特権だ。長寿を持つ人外たちは、長過ぎる生故に重要な過去以外を覚える事をしない。全てを覚えていては、過去に記憶を押し潰されてしまうからだ。
「ノーネへの報酬が思い付かないようでしたら、本人の希望を叶える形にすればよろしいかと」
「そうね。ありがとう咲夜」
「パチュリー様のお力になれたのであれば、幸いです」
常に瀟洒に。
腰に手を置いて深く腰を折る咲夜の動作は、完璧な従者と呼ぶに相応しい所作をもって行われた。
◇
ノーネが、紅魔館に拾われて三日が過ぎた時、事は起こった。
「大変です、大変でーす」
以前の異変で自らを退治した、博麗の巫女が住まう博麗神社へと遊びに行く為に早起きしたレミリアに付き合い、昼間のテラスで大きな日傘によって日光を遮りながら、何時も通り二人で紅茶を楽しんでいたパチュリーの元に、まるで危機感を感じさせない間延びした声を出しながら子悪魔が飛んで来た。
口では大変だと言っていながら、その表情には堪えようもない笑みが張り付き、喜悦満面といった風情で笑っているのだ。
小悪魔があれほど喜ぶという事は、こちらにとって最悪の事態が発生したという事。
それを証明するかのように、次に発せられた彼女の報告はパチュリーの表情を引きつらせるには十分なしろものだった
「何時ものように、霧雨魔理沙さんが大図書館に侵入しましてー、何とあの子を連れて行っちゃいましたー」
「なっ!?」
博麗の巫女の相棒にして、自称普通の魔法使い、霧雨魔理沙。
長い金髪に黒の三角帽子、帽子と同色のメルヘンな魔女服と白の前掛けエプロンという、絵本に出て来る魔女をそのまま再現したような恰好をした、霧雨魔法店という何でも屋を一人で営む咲夜と同年代の少女だ。
彼女は未熟であり、それ故の強い向上心はある種の魅力だと言えるのだが、同時に時折大図書館に侵入してはその中にある魔道書を無断で拝借していく、性質の悪い盗人でもある。
同じ大図書館の内部とはいえ、ノーネの居住域は結界を張った場所に隔離していた。今の魔理沙の力量では、普通ならば気付く事すら不可能なはずだ。
普通ではありえない。ならばそれは、超常の意思が介入したという証左に他ならない。
「……レミィ、貴女の仕業ね」
運命を操る程度の能力。
本人の口からほとんど語られる事のない、レミリア・スカーレットの持つ固有能力が魔理沙の辿るべき運命を捻じ曲げ、二人を巡り合わせた。
そうでなければ、魔理沙は今頃ただ本を盗むだけで満足し、悠々と帰路に着いていただろう。
「言ったでしょう、全ては私の思うがままなのよ」
「閻魔に舌でも引っこ抜かれなさい」
この紅い暴君にとっては、自分が楽しむ為なら親友でさえも玩具の一つだ。悪びれもせず舌を出してからかう親友に、パチュリーは心の底から毒を吐き捨てた。
「いかがなさいますかぁ? 咲夜さんと美鈴さんが、魔理沙さんたちを追いたいと仰っていますが?」
「私が行くわ。どうせ、彼女の行き先は魔法の森にある自分の家でしょうし」
小悪魔からの嬉々とした質問に、パチュリーは心底嫌そうな声で答えながら、自らの重い腰を持ち上げた。
子供の迎えは保護者の役目だ。不本意とはいえノーネを弟子とした以上、その全ての面倒は師であるパチュリーが背負わねばならない。
「動かない大図書館が、遂に動くか」
「変な茶々を入れないで。まったく――あの子が来てから面倒ばかりが積み重なっていく気がするわ」
「これを機に、外出を覚えてみたら? そんなに出不精だから、陰口で紫もやしなんて呼ばれるのよ」
「悪かったわね。私にとっては、静寂と安寧こそが至高なのよ、おぜう様」
外出の支度を整えていくパチュリーに、レミリアが頬杖を付きながら面白そうに笑みを作れば、淡い色のストールを肩に掛けた七曜の魔女は、即座に鼻で笑って皮肉を返す。
「それじゃあ行って来るわ。あの子を取り返したらすぐに戻って来るから、咲夜たちにもそう伝えて頂戴」
「えぇ、行ってらっしゃい。お土産よろしくね」
「お気を付けてー」
親友と部下から片手を振って見送られながら、引きこもりのインドア派魔法使いは何時振りかも忘れてしまった外の世界へ重い足取りで一歩を踏み出し、太陽の照る幻想郷の空へと浮遊した。
プロットも何もない状態で、勢いだけを頼りに一話を書ききったので、続きは大分先になると思います。
申し訳ないorz