申し訳ない……。
衝撃。そして後ろに吹き飛ぶ自分の体。地面に横たわった自身を見下ろす一人の少女。
その光景は既に幾度と無く行われた事象の焼き増しであり、そしてそれは彼が同じ失敗を犯していることに他ならない。
「ちっ、くしょう……」
スラスターと自身の姿勢制御で体勢を立て直したが、彼――織斑一夏の表情はしかめられたままだ。ハイパーセンサーを使い名目上現在のパートナーである銀髪の少女の姿を視界に捉えたが、どうやら向こうも防戦一方であるようだ。そのことを確認した彼は更に表情を曇らせた。
「どうした織斑一夏。あの威勢は口だけか?」
目の前の紺碧のISを纏った少女はそう言って鼻を鳴らす。事実、未だ一夏は彼女に一撃すら加える事が出来ていない。万全の状態ではないから仕方ない、そんな言い訳が頭をもたげ、そして即座に振り払った。それはただの負け惜しみだ。そのことが分かっているからこそ、一夏は無言でその顔を睨み返した。
大地を踏みしめ、そして一気に加速。『白式・雷轟』の速度を最大限に生かした突撃。だが、それは目の前の相手に容易く躱され、右手に持っていたブレードで顎をかち上げられた。放物線を描いて落下すると同時、一瞬だけ意識が黒く染まる。即座に切れかけたそれを繋げると、一夏は体を反転させて受身を取った。
「……下らんな」
「……そいつは悪かったな」
ぼそりと零した目の前の相手の言葉にそう返す。少なくとも無様に地面に倒れることはなくなったのだから、多少は進歩している。そんな情けない反論が浮かんで消えた。どちらにせよ、確かにそれは下らないのだから。
「織斑一夏!」
背後から聞こえる声。それを確認した一夏はスラスターを吹かして目の前の相手から距離を取った。声の主である少女、ラウラの隣に立った彼は、一体何だと問いかける。
だが、その言葉に返ってきたのは怒号であった。
「何をやっているのだ貴様は! 近接特化の相手にわざわざ近接戦闘を挑んで何になる!」
「んだよ。そんなの俺の――」
勝手じゃないか。そう続けようとした一夏の胸倉をラウラは掴んだ。眼帯に塞がれていないその赤い片目は真っ直ぐに彼を睨んでおり、反論を許さない。
「いいか。今は意地を張って戦う場面ではない。私とお前が、協力して目の前の敵と戦う場面だ。双方共に余力が無い状態で意地を張るのは子供のすることだ」
「子供だよ俺は」
「分かっている。だからこうしてわざわざ伝えたのだ。下らん意地を張るのをやめろとな」
「……ラウラ」
「名前を呼び捨てにするなと言っただろう。それで、何だ?」
「俺、お前のこと嫌いだ」
「そうか。私もだ」
その言葉を皮切りに、一夏は再び紺碧のISへと突っ込んだ。その行動にラウラは一瞬目を丸くさせ、そして苦虫を噛み潰すような表情へと変わる。
あいつ、全く聞いていないではないか。そんなことを心の中で思いながら、彼女は突っ込む一夏を援護しようとスラスターを吹かした。だが、その行動はもう一つの影によって遮られる。
「せっかくの相談も、無駄になっちゃったね」
「……そのようだな」
くすくすと笑うデゼールに視線を向けながら、ラウラは『シュヴァルツェア・レーゲン』のプラズマ手刀を展開するのだった。
「あのっ、馬鹿!」
ラウラの言葉を無視して突っ込んでいく一夏を見た鈴音は思わずそう叫ぶ。周りも同じような意見らしく、セシリアに至っては頭痛に耐えるかのように頭を押さえていた。
織斑一夏は男だ。それは、この場にいる全員の共通認識である。だが、男というものがどういうものなのか、一夏というものがどういうものなのかを知っている者は一体この場にどれほどいるのだろうか。
「単純にも程があんでしょうが……」
「りんりんに言われたらお仕舞いだね~」
茶化すような本音の言葉にうるさいと一言返しながらも、鈴音は視線を逸らさない。多少は受け入れたのか、射撃と斬撃を織り交ぜるようになってはいるものの、それでもまだがむしゃらに突っ込んでいく姿勢を変えてはいない一夏の姿は、見ているものからすれば滑稽に感じられるほどだ。
「意地が……あるの、かな」
ぽつりと零したその言葉に、彼女達はどういうことだと返した。言葉を発した簪は一瞬だけびくりと肩を震わせながらも、さっきのやり取りの中で気になった一言を口にした。
「下らない意地、って……言ってたでしょ?」
「ええ。確かに言ってましたわね。……え? まさかそれで?」
もしそうならば、誰かの言葉ではないが単純にも程があるではないか。頭痛が酷くなっていく錯覚さえしてきたセシリアは力なくアリーナの椅子に腰を下ろした。隣では本音も肩を竦めながら座るのが見えた。
このままでは彼等が敗北するのはそう遠くない。そして、その場合どうなるのか予想が付かない。一応通常戦闘の形式を取っているものの、エネルギーが尽きればそこで終了となる可能性はそう高くなかった。
その予想を立てた簪は観客席の出口へと足を向けた。卑怯と罵られても、手助けに行こう。好意を抱いている友人を守る為に出した結論がそれだった。
だが、その踏み出した彼女の腕を掴む人物が一人。長い黒髪を後ろで纏めているその少女は、黙って首を横に振った。
「どうして……!?」
「あれは一夏の戦いだ。それに、ここで助っ人がいなければ負けてしまうくらいならば、どのみちあいつに未来はない」
淡々とそう述べる少女、箒の顔を簪は思わず見詰め返す。それでもずっと一緒にいた幼馴染なのか。そんな言葉を出そうとした彼女は、続く言葉でそれを飲み込んだ。
「大体だ。一夏があの程度で負けるはずないだろう」
疑うことのない真っ直ぐな一言。口元に笑顔を浮かべてそう述べた彼女は、正しく織斑一夏の『幼馴染』であった。ここにいる誰よりも彼のことを分かっている、そんな自信が見てとれた。
「んなこと分かってるわよ。でも、馬鹿は馬鹿でしょ」
そしてもう一人。付き合いこそ箒よりも短いものの、同じように彼を信頼する少女がいる。鈴音もまた、なんてことないようにそう述べると、違いないと返した箒と共に笑った。
簪は思わず視線を落とした。駄目だ、まだこの二人には敵わない。そう思ったが、ふと視線を隣に動かした。自分の幼馴染である、布仏本音へと。そして思う。成程、これは負けても仕方ない、と。
「私と……本音みたいなもの、か」
思わず呟いて、そして笑った。
そんな彼女の前方では、箒が声を張り上げている。どうやら激を入れているようだ。それがいい方向に転がったのは、満足げな表情をしていることで窺えた。
「一夏ぁ!」
唐突に自身に掛けられた声に、彼は思わず足を止めてその声の主に視線を移した。
そこには、彼の幼馴染が手すりから体を乗り出している姿が一つ。拡声器を何も使わずにあそこまでの大声を張り上げられるのは、彼女の意地のなせる業か。
「男なら! 意地を張ったんなら! そのくらいの敵に勝てなくてなんとする!」
落ちそうになるほど乗り出した体で、真っ直ぐに一夏を指差して。彼女はそう叫んだ。
その姿と、隣でそうだそうだと同意しているツインテールの少女を視界に入れながら、彼はやれやれと肩を竦める。それと同時に周りが見えなくなっていた自分に気付いた。どうやら意地を張り過ぎたらしい。そのことに気付いた一夏は、ありがとうとこっそり呟いた。
「ラウラ!」
「……何だ?」
再び目の前の相手に視線を向けながら、一夏は背後にいるはずの彼女の名前を呼ぶ。どことなく不機嫌そうにそう返したラウラに向かって、一夏は済まないと謝った。
「ちょっとだけ、意地、張り過ぎてたみたいだ」
「ちょっとだけ、か……」
「ちょっとだけ、だ。そこは譲らんぞ」
彼女が苦笑するのが背後から感じられた一夏は、ビームガンを撃ちながら後退、そして再びラウラの隣に降り立った。大分ボロボロになっている一夏の『白式』と違い、ラウラの『シュヴァルツェア・レーゲン』の損傷はそれほどでもないように見えた。そしてそれは、これからどうすればいいのかを如実に示していた。
「どっちを仕留める?」
「デゼールとかいう奴の方だ。あのエムとかいう奴は殆どダメージを負っていないからな」
「……けっ」
そんな拗ねた言葉とは裏腹に、一夏は『雷轟』を『真雪』に素早く換装。ビームランチャーをデゼールへと放った。少し不意打ち気味とはいえ、その程度を躱せない彼女ではない。最小限の動きで避けると、持っていたアサルトライフルの銃口を向ける。
「遅い!」
それより早く、『シュヴァルツェア・レーゲン』のワイヤーブレードがデゼールを捉えた。持っていたアサルトライフルはワイヤーブレードにより貫かれ爆散する。その衝撃で彼女の体勢が少し崩れた。
「もらったぁ!」
そこに合わせられるのは『真雪』のビームランチャー第二射。先程までの戦いで若干油断していたデゼールにとってこれは拭えない失態だ。舌打ちしながらその衝撃に耐える為に歯を食いしばった。
その刹那、青い影が素早く割り込みその砲撃を受け止めた。完全に殺しきれなかったその一撃はエムの左手のシールドを吹き飛ばし、左腕部にダメージを与えている。だが、そんなことを気にせんとばかりに、表情を変えることなく淡々と彼女はデゼールに告げた。
「潮時だ」
「……まだ、向こうの方がダメージは大きいよ」
「だとしてもだ。これ以上やればこちらも多少のダメージでは済まなくなる」
それに、とエムは顎で一人の人物を指した。それを見たデゼールも納得したように頷く。そのまま二人で同じように距離を取った。
「おいちょっと待て。逃げるのかよ!」
一夏がそう叫ぶが、二人は全く意に介さない。そうだよ、などとあっさりと返した。
「ある程度目的は果たしたしね。何より――」
視線を向ける。一夏ではないもう一人。ラウラ・ボーデヴィッヒへと。彼女の顔の中で隠されている部分、左目へと。
「『彼女』に本気を出されると、厄介だからね」
「……? どういうことだ?」
意外にもその言葉に真っ先に反応したのは当の本人であるラウラだった。自分は手を抜いている覚えは無い。なのに、何故。そんな彼女の言葉を聞いたデゼールはわざとらしく首を傾げた。おかしいな、知らないの? などとそんな言葉を続けている。
「じゃあ、君はひょっとして『自分の左目が隠されている理由』も知らないのかな?」
「……ISの適正を上げる技術、『ヴォーダン・オージェ』の適合失敗により、発動を抑える為に隠されている」
「ふーん。それ、信じてるの?」
「何?」
「だってそれ、絶対にどんなことがあっても外してはいけないって言われてるんでしょ? ISを使っている時でさえ。おかしいと思わない?」
その言葉にラウラは沈黙で答えた。それは『そういうもの』だと言われてきた自分にとって、そんな疑問は抱きすらしなかった。だから、彼女の中で一度浮かんだ疑問は次々と考えもしなかった疑問に繋がっていく。
どうして、自分の左目を晒せないのか。どうして、失敗しないはずの技術で失敗しているのか。
――どうして、その技術を受けた記憶も、受ける前の記憶も無いのか。
――どうして、一番古い記憶が数年前で、『ラウラ・ボーデヴィッヒ』と名付けられたことなのか。
「わ、たしは……わたしは……」
「おい、おい! ラウラ! しっかりしろ!」
その声で彼女は我に返った。肩を掴んで揺さぶっていたらしい一夏の姿が視界に映る。大丈夫だ、とぎこちない笑みを浮かべると、彼女はゆっくりと彼から離れた。
その姿を見たデゼールは満足そうに微笑むと、それじゃあね、と踵を返した。エムも無言でそれに続く。
彼等はその姿を追いかける気にはならなかった。
アリーナでの一件を誰かに話す気になれなかった一夏は、部屋に戻っていたシャルルにラウラとの模擬戦について聞かれたのを曖昧な言葉で濁し、一人逃げるように廊下を歩いていた。どうせ束がどこかで見ていて千冬に報告しているだろう、などと適当な理由を付け報告すら避けた彼は、そのままモヤモヤとしたものを抱えながら歩みを進める。観客席にいた五人も気持ちは同じようで、言葉少なくアリーナから分かれたのは記憶に新しい。
そのまま寮を出て一人外を散歩していた一夏は、ふと誰かの話し声を耳にした。その声に聞き覚えのあった彼は、思わずその場所へと近付き聞き耳を立ててしまう。
「教官!」
そう叫んでいるのは今日の放課後に戦い、そして共闘した相手で。
「大声を出すな馬鹿者」
そう返しているのは自分の良く知る肉親の声だった。
隠れている位置からでははっきりと見えないが、どうやらラウラが千冬に詰め寄っているようだ。声の調子からすると千冬が少し落ち着きの無いように感じられ、普段学校で見せることのないその姿に一夏は若干の違和感を覚える。
「いきなりやって来たかと思ったら、「私は誰なのか」だと? モラトリアムなら自分で解決させろ」
「ふざけないで下さい!」
「……お前は、ラウラ・ボーデヴィッヒだろう? それ以外の何であるというんだ」
その言葉を発した後の千冬は口を開かず、ラウラの次の言葉を待つ。数分の沈黙の後、彼女はゆっくりと口を開いた。真っ直ぐに、千冬を見詰めて。
「私は、ラウラ・ボーデヴィッヒなのですか?」
「当たり前だ。もし自信がないのならば……そうだな。今からでも、ラウラ・ボーデヴィッヒになればいい。時間は山のようにあるんだ、いくらでも悩めば――」
少し安堵したように話を続けていた千冬は、その途中で言葉を止めた。どこか納得したような、何かに気付いたような、目の前の少女がそんな表情をしていたのに気付いたからだ。思わずその肩を掴もうと伸ばした腕は空を切る。無意識に、本当に無意識に彼女が千冬から距離を取ったのだ。
「ありがとうございます、教官。よく分かりました」
それだけ告げると、ラウラは振り返らずに駆けていった。その背中に何か声を掛けようとしていた千冬は、しかし言葉を発することが出来ずに視線を地面に落とす。そのままの体勢で佇んでいた彼女であったが、やがて顔を上げるとある方向に視線を向けた。
「盗み聞きか?」
「あ、いや、違っ……わないけど。聞き覚えのある声がしたんで来たら、出るに出れない雰囲気で」
「……そうか」
慌てて出てきた一夏にそれだけを言うと、彼女はそのまま口を噤んだ。この状況で何か軽い話など出来るはずもない彼もまた、沈黙を続ける。
その沈黙を破ったのは、千冬だった。一夏、と自身の弟の名前を呼ぶ。
「ボーデヴィッヒのことを、どう思う?」
「は? ……気に入るか気に入らないかで言えば、気に入らない部類だけど」
でも、嫌いじゃない。そんな曖昧な言葉を返した。それを聞いた千冬はそうかと呟くと、お前に頼みがある、と続けた。
珍しい姉の頼み、それが何なのか予想は付いたものの、一夏はそのことを口に出さずに言葉を待つ。
「あいつの、友人になってやってくれ」
「別にそれはいいんだけどさ」
友達って、そう言われてなるものじゃないだろ。そう返されると千冬としてもその通りだと答えるしかない。無粋な頼みだった、そう思った彼女はそう続けて、そして彼の次の言葉で目を見開いた。
「つーか、俺はとっくに友達のつもりだったんだけど。多分箒達もそうだと思う」
「……そうか。は、はははっ! そうかそうか!」
何がおかしいのか、千冬は肩を震わせて笑い出した。目の前の一夏の肩をバンバンと叩くと、それならば安心だ、と笑顔を見せた。弟と、その周りの者がラウラの友人ならば、きっとこれからの問題も解決していける。半ば確信に近い予想を浮かべた彼女は、安心したように笑った。
「一夏」
「何だよ千冬姉」
「あいつらを、よろしく頼む」
そう言うと彼女は踵を返した。あまり遅くまで外にいるなよ、という言葉を加えながら寮に戻っていく姉の姿を見ながら、一夏は一人取り残された。
「……ん? あいつ『ら』?」
人気の無いその場所に、彼女はいた。小柄なその姿に似合わないものを纏いながら、彼女は立っていた。
赤い、真っ赤なIS。血に染まったかのように染め上げられたその機体を纏った少女は、左手でクルクルと何かを回していた。
眼帯。病院の治療目的とはまた趣の違うそれを左手で弄びつつ、感覚を取り戻すようにISの右手を開いたり閉じたりを繰り返す。それも束の間、動きを止め拳を握りこんだ少女は、口元を三日月に歪ませた。その顔には、夜に浮かぶ月のような金色の瞳が輝いている。ある程度の長さに伸ばされた銀髪と相まって、その姿は一種幻想的ですらあった。
ただ、その光景を一変させている要因が一つ。
「久しぶりだと、まあ、こんなものか」
彼女の周りに転がっている鉄屑。そのどれもが、無残に破壊されたISであった。刻まれた傷跡は、搭乗者の命など全く気にしていないことが窺える。もし、これが無人機でなかったならば、彼女は確実に人を殺していたであろう。
「肩慣らしには丁度良かったが……何だこいつら?」
そう言うと彼女は鉄屑になったISを踏み潰す。自分の知る限り、こんなものがその辺を歩いているような時代ではなかったはずだ。数年前も、そして今も。
「『ラウラ・ボーデヴィッヒ』が知らないだけか。……それとも、わざわざ私にこれをけしかけた者がいるのか」
別にどちらでも構いはしない。既に屠ってしまったものに思考を巡らせても時間の無駄だ。そう考えた彼女は、ISを解除するとその場を後にした。一度も振り向くことなどせずに。
手に持った眼帯を強く握り締める。そのまま捨ててやろうかと思ったが、しかし。そのたびに彼女の脳裏に一人の女性の姿が浮かび上がった。自分を打ち負かした唯一の存在であり、彼女が最も尊敬し、そして同時に憎んでいる存在。
「織斑先生と呼べ、か……」
分かっているのだ。自分がこの状況になったのは彼女の所為ではない、と。
だが、それでも。感情はそれに納得出来ない。出来やしない。
「あの、馬鹿教師……何が生徒第一号だ。私を、閉じ込めた癖に! 助けてくれなかった癖に!」
呟きは叫びに変わっていく。理性は感情に塗り潰されていく。納得は怒りに押しやられていく。
「何が『ラウラ・ボーデヴィッヒ』だ! 私は、私はそんな名前じゃない!」
ボーデヴィッヒ。偽りの姓と偽りの境遇。その境遇で育ったもう一人の『偽りの自分』。
そして、それを受け入れているこの世界。
「私は……私はラウラだ! ただのラウラだ!」
壁を殴り付けた。右手からは血が滲み、その壁にヒビが入る。そんな自身の怪我など気にしないかのように、彼女は左拳もその壁に叩き付けた。
「認めない」
両手は既に真っ赤に染まっている。彼女のISと同じように、返り血で真っ赤に濡れている。
「『ラウラ・ボーデヴィッヒ』などという偽者を、私は認めるものか!」
その血に染まった両手を天に掲げ、少女は夜空に吼えた。
翌日。
「おはよーボーデヴィッヒさんってどうしたの!?」
「ん? ああ、これか?」
教室に入ってきたラウラに声を掛けた癒子は、彼女の両手に巻かれた包帯を見て思わず叫んだ。対するラウラは特に気にすることなく、朝起きたら血塗れだったと返す。
「まあ、大したことではないさ」
「大惨事だよ! 何で起きたら両手血塗れ!?」
その叫びに他のクラスメイトもどうしたどうしたと集まり、そしてその両手に巻かれた包帯を見て口々に声を挙げる。そんな渦中の人物であるラウラはどうしたものかと頬を掻いた。
「うーっすって何だこの人だかり?」
「おはようございます一夏さん。見てください、あのボーデヴィッヒさんの手を」
手? と教室に入ってきた一夏も同じように彼女の包帯へと視線を移し、そしてその表情を歪めた。一体どうしたんだ、他のクラスメイトと同じように尋ね、そして同じような返答を彼も聞く。
ただ、少しだけ違ったのは、他の連中に聞こえないように声を潜めて追加の質問をしたことであった。それは昨日のアリーナの一件で出来たのか、と。
「いや、違う。本当に私も分からないのだ」
一夏の質問に首を横に振ったラウラは、そろそろホームルームが始まると皆に伝えて席へと向かった。確かにそろそろ千冬がやってくる時間である。このままでいると何かしら説教が待っているであろうことは想像に難くない。それが分かっている一組の面々は、蜘蛛の子を散らすように各々の席へと向かっていった。
その途中、一人の人物がラウラの背中に声を掛けた。一夏ではない男子生徒、金髪の少年、シャルルだ。両手の包帯も気になるんだけど、という前置きをして、言葉を続けた。
「眼帯、どうしたの?」
「え?」
思わず一夏もラウラの顔に視線を移す。その左目には昨日と同じように眼帯がはめられていた。だが、確かにどこかが違う。そのことを彼も感じ取ったのか、同じように彼女に尋ねた。
「……何かおかしいか?」
「え? ああ、なんつーか、そうだな」
どうやら本人は気付いていなかったようで、左目のそれに触れながら首を傾げる。一夏もその返答は予想外であったらしく、どう返していいものか一瞬言葉に詰まる。シャルルも同じように言葉を選んでいるようであった。
その横から口を出したのは、彼と一緒に歩いていた箒だ。二人の迷いなど知らんとばかりに、はっきりと言い放った。
「上手くはまっていないぞ」
「……そうなのか? 自分では全く触った覚えは無いのだが」
そう言うと彼女はカバンから鏡を取り出しそれを直す。物が物であるが、それだけならば別段どうということのない会話である。
だが、どうも引っ掛かりを覚えた一夏はラウラに質問をしようとして。
「織斑、席に着け」
そのタイミングで教室に入ってきた千冬の言葉で遮られた。どうやらホームルームを告げるチャイムは既に鳴っていたらしい。しょうがないと頬を掻きながら彼は席に戻ったが、それでも不安は拭えなかった。後でもいい、聞かなくてはならない。そんな気がしたのだ。
あの眼帯を決して外してはいけない。そうあのISパイロットが述べていたのが彼の頭で何度も木霊していた。
彼の中で何か嫌な予感を増しながら、今日も一日が始まる。
ここからはラウラのお話ですね。
……ラウラ、で、いいはず……。
きっと、多分……。