〈1〉
「あー、しまった」
ぐねぐねと歪む視界に蓋をするように左手で目頭を押さえ、希美は小さく呻く。彼女の右手に握られているデジタル式の体温計には、平熱よりもずっと高い数字が刻まれていた。
「こりゃ本格的に、風邪だぁ……」
体温計をベッドの端に放り出し、希美は寝返りを打った。ここ数日ばかり、自分の体調があまり良くないことは何となく自覚出来てはいたのだけれど、それでもぐっすり寝れば翌朝には良くなっているだろう。そんな甘い見積もりをしていた自分に心底嫌気が差す。
『だから言ったじゃないの。油断してないで早めに病院行きなさいって』
実際に言われたわけでも無いのに、そんな小言をのたまう母親の声が耳を穿つような錯覚があった。いや、その声は母のものではなく、もしかして優子のものだったかも知れない。
どっちでもいいや。
羽毛布団をしっかり首まで掛け、希美は必死に目を瞑った。勉強机の横にある引き出しの中には風邪薬か何か入っていたような気もするが、そもそも起き上がるのがしんどすぎる。さっき体温計を探そうと起きた時ですら、目の前がフラフラしてまともに立っていられないほどだった。
もう少し寝ていよう。大学は、夏紀に携帯メッセージで伝えておいたから心配は無い。
冷房を掛けているわけでもないのに、全身がブルブルと震えている。寒くてたまらない。まるで極寒の氷原に一人ぼっちでいるみたいだ。はあはあ、と浅く息を吐きながら、希美は羽毛布団を頭までかぶり直した。
大学に入ったばかりの頃、希美はまだ実家から大学に通っていた。
『一人暮らしをさせるような余裕は無い』と親に言われたからというのもあったが、その実、希美は心のどこかで、そう言われたことにホッと胸を撫で下ろしているような心境もあった。
いつの日か、ここから巣立たなくちゃいけない。
その現実は頭では分かってはいた。でもいざその契機を目の前にして、社会という得体の知れないものに向かっていきなり羽ばたいてしまう、そのことへの恐れが全く無かったと言ったら嘘になるだろう。
実家はそれなりに居心地が良い。そこそこ夜遅くたって、気ままにフルートを吹くことが出来るぐらいの環境だ。焦って飛び出したらいけない。自分の新生活のスタートは、このぐらいでいい。
そんな風に自分に言い聞かせながら、けれど、もしかして自分はずっと実家から離れず、大学卒業までこのままの暮らしを続けてしまうのかも知れないな……などと考えて、希美はうっそりと笑っていた。
――これじゃ、どっちが籠の中の鳥なんだか、わかりゃしない。
そんな希美の考えに変化をもたらしたのは、大学の同級生たちの存在だった。高校までと違い、日本中の色んな所から色んな目的や夢を持ってここに来た彼らとの交流は、希美にとって大きな刺激をもたらすものだった。もちろん、親元を離れて一人暮らしをしている子も沢山居る。
『何でも自分でやらなきゃいけないから大変だけど、でもその分、実感するよね。あー、大人になるってこういうことかー、って』
そんな言葉が少しずつ、希美に一人暮らしへの意欲を与えていった。春が終わるのを待たずして希美はアルバイトを始め、貯金をして、当面の生活費を蓄えた。それを理由に親を説得し、家賃や食費などは親からの援助を受けず自分で持つことを条件に、ついに念願の一人暮らしを始める事となったのであった。
全身にまとわりつく暑さに耐え切れなくなって、希美は目を開く。
真っ先に映った天井には少し影が差している。けれど窓の外からはまだ柔らかい朱色の光が射し込んでいることも同時に分かり、おおよその時刻を把握することが出来た。
体温を計るまでもなく、熱が下がっている気配はまるで無い。視界はぼんやりと歪み、汗ばむ体がべたべたと寝間着にへばりついていて気持ち悪い。けれど着替える気力も、体を拭く余力も無くて、希美はただ布団の中で大きな溜め息を漏らすばかりだった。
「疲れてたのかな、私」
希美が一人暮らしを開始したのは、この三月のこと。
春休みを利用して引っ越しをし、家財道具をアパートに運び入れ、ようやく新生活を始められるとなって間断なく新年度が始まった。
学業に、サークル活動に、アルバイトにと目まぐるしく動き続ける日々の中で、炊事や洗濯もこなし、自分の生活を自分で立てていく。そんな一カ月があっという間に過ぎ去って今月、連休が明けて間もない頃から、希美は妙な気だるさや疲労感を覚え始めていた。
『もしかしてこれ、五月病ってやつ?』
などと冗談めいたことを言っている間にも、体調が持ち直すことは無く日に日に悪化してゆき、そして今朝とうとう破綻してしまった。
人間の身体なんて存外脆いものだ。そんなことを思いつつ、希美は枕元の携帯に手を伸ばす。そこには新着メッセージを示す表示がいくつか並んでいた。
『希美だいじょうぶ? 夏紀から風邪だって聞いたよ。くれぐれもお大事にね』
『明日は大学来れそう? キツかったら無理しなくていいからね』
『希美ー! ファイト―!!』
『のぞ先輩お大事さまです』
『希美、具合どう? 何か欲しいものあったら言ってよ、帰りに買って寄るからさ』
メッセージの数々にさらりと目を通し、希美はほうと息をつく。こうやって自分のことを誰かが心配してくれるというのは、とてもありがたい。
実家に居た時もそう思うことは度々あったけれど、こうして一人で病床に伏せっていると、そのありがたみが数倍にも増して感じられる。
『だから言ったじゃない、具合悪かったら無理せず病院行きなさいって! アンタほんと昔からあたしの言う事聞かないんだから』
優子から届いたそのメッセージを確認した時、思わず希美は噴き出してしまった。と同時に喉に何かが詰まり、げほげほと咳き込む。朝は気付かなかったが、水っぽくなった咳の音にいよいよ体調の悪化を自覚して、さてどうしようか、と希美は携帯を手放した。
食欲はまるで無かったが、せめて水分だけは摂っておきたい。なのにこういう時に限って、飲料水の買い置きはしていなかった。
冷蔵庫の中にあるものと言えば、牛乳、麦茶、あとは食材が少しあるぐらい。こんな状況ではとても自炊なんて出来そうに無かったし、かと言って最寄りのコンビニまで買いに出かけるなど、億劫どころか絶対不可能だ。
病院に行くのも体が辛くて無理そうだし、さりとて救急車を呼ばないといけないほど重症という訳でもない。『何でも一人で』というのは、こんなに辛いものなのか。そう呟いた希美の嘆息はますます暗くなる。
と、そこでふと、希美は先程のメッセージのことを思い出した。
『何か欲しいものあったら言ってよ、帰りに買って寄るからさ』
そう言ってくれていたのは、確か夏紀だ。
夏紀には高校時代、結構な借りがあった。そして希美自身、今に至るまでそれを夏紀に返せたとは思っていない。同じ大学という事もあり、今でも気心の知れた友人であることには変わりないのだが、とは言えあまり彼女に迷惑を掛けたくないという気持ちも正直ある。
何しろ夏紀は優しい。自分に優しすぎるのだ。
自分が弱っている時、折れそうな時、夏紀はそんな自分を許してくれる。その許しに素直に甘えてしまうことを、希美は怖いと思っていた。夏紀の優しさはありがたい。けれど、それに入り浸る自分ではありたくない。
しばしの逡巡の後、意を決した希美は再び携帯を手に取った。今はこんな状況だ。自分一人ではどうにもなりそうにない。また借りを作ってしまう事になるけれど、今回ばかりは夏紀の厚意に甘えよう。
『スポドリ欲しい。あと、アイス』
歪む視界の中、そうメッセージを打ち込み、送信のボタンを押す。それだけで精いっぱいだった。
皆のメッセージもありがたかったけれど、今はその全てに返事をしている余裕などこれっぽっちもない。体調が良くなったら改めて皆に返信しよう。そこで力尽きた希美は、いま一度布団の中に顔を埋めた。
ピンポーン。
うつらうつら、としていた希美の脳を覚ましたのは、唐突に響いたチャイムの音だった。
もう来てくれたのか。そう思って目を開くと、部屋の中は既に真っ暗になっていた。どうやら夏紀を待つうちに、もう一度眠ってしまっていたらしい。
「ううん」
よじるように身を起こしてベッドから這い出る。一日中寝ていたせいか、すっかり腰が痛い。朝よりは多少マシになったけれど、相変わらず体はフラフラしていて、まだ熱があるという実感を希美にもたらした。
壁を伝うようにしてどうにか廊下に出ると、玄関のドアノブからがちゃがちゃと音が鳴る。鍵を掛けてあったから当然だろう。希美はリビングと廊下の明かりを同時に点け、壁に手をつきながらよろよろと玄関に向かう。
「今開ける」
玄関の向こうに居るであろう相手にそう告げて、玄関のカギをがちゃりと捻り、そして希美はドアノブに手を掛けた。
「ごめんねー、わざわざ寄ってもらっ、て……」
声のトーンが自然と尻下がりになる。そこに立っていたのは、彼女の頭に思い描いていた人物ではなかった。
青毛と呼べるほどすっきりと黒ずんだロングヘア。自分よりずっと小柄で華奢な体躯。そして、透き通るように綺麗な瞳。
彼女を前にして、希美はごくりと唾を呑み込む。
「いい。大丈夫」
か細く呟くようにそう喋ったのは、買い物袋とオーボエのケースをその手に提げた、鎧塚みぞれだった。
〈続く〉