夢見る人は月明かりに照らされて   作:ろっくLWK

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〈2〉

 時が、凍りついたと思った。希美は一瞬、目の前の相手から視線を逸らしてしまう。

 鎧塚みぞれ。

 中学校の頃からの友達。同じ吹奏楽部の仲間。別々の大学に行っても時々会っている、少し特別な間柄。

 表面的になら、二人の関係にはそれらしい付箋を幾つも貼ることが出来る。けれど希美にとって、みぞれを捉えようとするとき、それはとても言葉に出来ない複雑に入り混じる感情を孕むものがあった。

 突然黙りこくってしまった自分を不審に思ったのか、はたまた純粋に体調を心配してくれているのか、みぞれは僅かに小首を傾げて、

「大丈夫?」

 と不安げな眼差しを向けてきた。それを見て、希美ははたと我に返る。

 今どうして目の前にみぞれが居るのか、それを考えるのは後だ。不自然な状況を作っちゃいけない。ふっと頬を緩め、希美はみぞれに語り掛ける。

「何日か前からちょっと体調悪くてさー、今日熱も出ちゃって」

「そう」

「とにかく上がってよ。なんにも無くて悪いけど」

「いい」

 おずおずと、みぞれが玄関の中に歩み入って来る。

 希美が退いたのは、別にみぞれを避けたからではない。単純に狭い玄関に人が二人分納まるスペースが無かっただけだ。

「お邪魔します?」

 だから何で疑問形なの、などと突っ込むだけの余裕は、流石に今の希美には無かった。無言で頷き、みぞれを迎え入れる。

 靴を脱いだみぞれは飼い猫のような足取りで、希美の後ろをトコトコとついてきた。何だか懐かしいな、という気持ちには同時に、得体の知れない苦味のようなものも入り混じっている。それを噛み潰すように、希美は口の中でかちんと歯を鳴らした。

 希美の部屋はさほど広いわけではなく、八帖ばかりの洋室に勉強机やベッドが幅を利かせ、残りの僅かなスペースには折り畳み式の小さなテーブルが置かれてある。いわゆるワンルームタイプの間取りは一人で過ごすのにはちょうど良い広さだったが、もう一人加わっただけで何故か、妙に窮屈に感じてしまう。それとも、それはみぞれであるが故に感じるものなのだろうか。

「悪いんだけど、私けっこう今キツいからさ、もうちょっとベッド入ってるね」

 希美の言葉に無言の頷きを返したみぞれが、テーブルのところにちょこんと座り込む。そして買い物袋からガサガサと、何かを取り出した。

「ちゃんと買って来た。希美の欲しいもの」

 そう言ってみぞれが示したのは、希美が要望していたスポーツドリンクだった。ありがと、と返事をして希美はベッドに身を沈める。そしてすぐさま、みぞれからは見えない角度で携帯をいじり始めた。

 みぞれは、ただ何となく遊びに来たわけじゃない。

 スポーツドリンクを買って来てあるということは間違いなく、自分がダウンしたことを知っている。そして、それを飲みたがっていたということを解った上で物を用意して来たのだ。

 夏紀、あんたか。あんたがみぞれに教えたのか。そう思いながら夏紀とのトーク画面を開くも、そこに先ほど自分が入力した文言は一文字も刻まれていない。ひょっとして、さっきの事は熱に浮かされた夢か何かだったのか。少し手を止め考えて、それから希美は、みぞれとのトーク画面に切り替えてみる。

「これだ……」

 ギリギリ吐息のような掠れた声が喉から漏れ出る。

『スポドリ欲しい。あと、アイス』

 自分のメッセージとして表示されたそのすぐ直下には、

『どうしたの希美、具合悪いの?』

 と、みぞれからの返信が続いていた。

 多分、いいやきっと間違いなく、自分からのこのメッセージを見たみぞれは自分に何かあったと直感して、こうしてここに来てくれたのだろう。

 具合が悪い中でメッセージを打つ時に、その返信の相手を間違えていたなんて、ドラマじゃあるまいし滑稽な話だ。希美は自嘲するように吐息をこぼす。そしてそれはまた喉に突っかかり、げほ、げほ、と彼女を咳き込ませた。

「大丈夫?」

 むっくりと、みぞれがこちらを覗き込んでくる。

「へーきへーき、ちょっと噎せちゃって……って、あんまり近付いたらうつるよ」

「平気。うつってもいい」

「そんなわけに行かないでしょ。みぞれだって大学忙しいんだし、この風邪けっこう辛いからうつったらヤバいって」

「大丈夫。希美の風邪なら、いい」

 いいわけあるか。元気ならそう突っ込みたいところだった。ダメなものはダメ、と駄々をこねる子供を叱るみたいな口調で諭しているうちに、流石のみぞれも諦めたようで、再びテーブルへと戻っていった。

 ほんと、変なところで強情なのは昔から変わってないんだから。そう思いつつ身じろぎをしている希美の視界が、再びみぞれの影で遮られる。

「みぞれ、何その顔」

「希美が言うから、うつらないようにした」

 みぞれは大判のマスクでしっかりと顔を覆っていた。念のため、自分用にと買ってきてあったのだろう。それはみぞれの顔立ちにはあまりに不格好で、何だかへんてこな感じがする。

 どうやら自分の看病のために、かなり本腰を入れてきてくれたらしい。 

「飲む?」

 そう尋ねるみぞれの両手には、スポーツドリンクのボトルが握られていた。飲み口にはストローが差してある。寝たきりの人が飲みやすいようにという、みぞれなりの配慮だろう。

「ありがと」

「私、持ってるから」

 うん、と頷いて希美は口を開いた。その舌先にみぞれの手でチョンとストローの吸い口が添えられる。しゃぶりついて、希美は頬をすぼませた。ちゅうっと口中に侵入してくるスポーツドリンクの感触が心地良い。火照り切った体が、その液体の浸潤を求めていた。

 そのまましばらく、ちゅうちゅうとストローに吸い付いている間、みぞれはただじっと両手でボトルを固定し続けてくれていた。

「うまーい」

 ぷは、とストローから口を離し、希美は自分の身体を抱き締める。実に丸一日飲まず食わずで寝ていたその体に、どこにでもあるようなスポーツドリンクの味わいは、極上の命の水とさえ表現できそうな気がした。

「他に、欲しいもの、ある?」

「うーん、食欲ない。まだ熱あるし、冷え冷えシートとかあるといいんだけど」

「冷え冷えシートは、ない。買ってきてない」

「そっかー」

「でも、待ってて」

 みぞれは再び立ち上がり、今度はキッチンへと向かった。ガシャガシャと何やら家のものを漁られているような物音がするが、とは言えみぞれが何をしているかを確認するために身を起こすのは辛い。もういっそ全てみぞれにお任せしよう。そう思っていると突然、額に何かがぽすりと載せられた。

「冷たっ」

「ごめん」

 それは氷水で濡らしたタオルのようだった。やや絞りが甘いのか、タオルからだらだらと流れる水が枕元を濡らしていく。果たしてこの事をみぞれに指摘するべきか、それともせざるべきか。少し考えてから、希美はその思考を放棄することにした。それはみぞれを気遣うというよりは、何だか小さなことを気にするのが面倒くさくなったからだ。

「でも気持ちいいよ、ありがと」

 感謝と共に笑顔を向けてあげると、それを見たみぞれのマスクの内側から、ふふっと吐息の漏れるような音がした。

 微妙に首の角度を調整してタオルの水が顔に流れてくるのを避けようとすると、ちょうど真上の天井を見上げる格好になった。それに従うように体も仰向けにして、希美は鼻から大きく息を吐く。じっと自分を見下ろすみぞれとの間に、しばし無言の空間が広がった。

 何年ぶりだろう。こうしてみぞれと二人きりで過ごすのは。

 高校を卒業してからというもの、みぞれと二人きりになる時間は、ほぼ全くと言っていいほど無かった。去年の夏に母校を応援しようとコンクール会場に行った時だって、みぞれの他に優子と夏紀も一緒だった。

 今年の春に引っ越しをした時も、独立記念にと最初は夏紀だけ招いたつもりが結局は優子に知れ、その優子からみぞれに連絡が行き、四人揃ってこのアパートで一夜を明かすことになった。

 自分とみぞれ、この二人が同居する空間には、いつも決まってそれ以外の誰かが居た。二人だけになる時間は、あったとしてもごく僅か。その間を持たせることぐらい、希美にとっては造作もないことだった。

 けれど今は、この狭い空間にただ二人きりだ。逃げ場は無い。

 みぞれは自分のことを気遣ってくれているのか、ただじっと見守るばかりで向こうから話し掛けて来ようとはしない。どうせならその気遣いに乗じて、このまま無言で眠り落ちてしまおうか。そんな気持ちも胸の内にあった筈なのに、何故か希美は口を開いてしまう。

「どうして来てくれたの?」

「どうして?」

 希美の言葉をみぞれがオウム返しにする。

「だって、みぞれ大学もあるじゃん。家だって、ここから結構遠いでしょ?」

 みぞれの現在の住まいの事は希美も知っている。高校卒業後、音大に進学したみぞれは、希美に先駆けて一人暮らしをしていた。彼女の生活状況は正直言ってまるで想像つかないが、少なくともみぞれの通う音大や住まいは、ここからバスで一時間以上も離れたところにある。それに徒歩での移動も含めれば、ここに来るまでの時間はもっとかかった筈だ。気軽においそれと来れる距離ではない。まして、明日も平日だと言うのに。

「希美に、呼ばれたから」

 その漆黒の髪をなびかせながら、さも当然とでも言うがごとく、みぞれは返答した。ああ、そうだろうな。と希美は彼女の答えを薄々予測していた。

 みぞれはこういう子だ。みぞれは、希美の為ならば、どんなことでも平然とこなしてしまう。例えそれが、他の人にとっては大変な労力を強いられることであろうとも。もう耐えられないと悲鳴を上げるようなことでさえ、みぞれはそれをやり遂げてしまうのだ。まるで息をするように。

 そしてそれを、みぞれは臆面もなく『あなたの為に、希美の為に』と言う。

 それが、ずるい。みぞれはいつだってずるい。

 希美は胸の内でずっと、そう思い続けていた。

「希美?」

 こちらの反応が無かったからか、みぞれが様子を窺ってくる。

「ごめん、ちょっと熱でボーっとしてた」

「薬」

「薬?」

「もう飲んだ?」

 そう言われれば、と希美は思い返す。今日一日、何だかんだで風邪薬を飲めずじまいだった。

「まだ飲んでない。そこの引き出しにあると思うんだけど」

「どこ?」

「机の横。多分、二段目か三段目のあたり」

 そう言われたみぞれは立ち上がり、机に向かう。自分に代わって薬を探してくれているのだろう。ほうと息を吐き、希美は一つ寝返りを打つ。

 こうしてみぞれと二人きりでいると、あの頃のぐちゃぐちゃとした感情が自分の(はらわた)に蘇ってくるような気がした。今は風邪のお陰もある。多分、上手に体裁を保ててはいる。けれどこれ以上長い時間をみぞれと過ごしてしまったら、またあの頃の自分に逆戻りしまうのではないだろうか? そんな恐怖感に、希美の両肩が慄く。

 いや、そんなのは気のせいで、体調の悪さがそう感じさせているだけかも知れない。今は変な事を考え込む方が体に毒だ。全部綺麗に忘れ去って、大人しくみぞれに看病されておこう。そんな風に希美が考えを改めた頃、みぞれはその手にタブレット型の錠剤を持って現れた。

「これ?」

「あー多分それ。半分がやさしさで出来てるやつ」

「これ、風邪薬じゃなくて、解熱剤」

「そうなの?」

 希美の問いに、こくりとみぞれが頷く。

「そうなんだ。うちじゃ昔から、風邪引いて熱上げた時はこれだったからさぁ」

「今は熱があるから、これでもいい」

 みぞれは額のタオルをどけると、希美の背中に腕を挿し込み身を起こす。

 続けて銀色のフィルムから錠剤を二つ、ペキペキと押し出すと、それを指でつまみ上げて希美の掌に渡した。

「飲んで」

 みぞれに返事をせず、希美は二つの錠剤を口に含む。飲み物でもないと飲みにくい。そう思っていると、目の前にさっきのストローがずいと押し出された。

 錠剤を舌の上に転がしながらストローを口に含み、スポーツドリンクを吸い込む。ごくり、と喉を鳴らして薬ごとドリンクを嚥下し、希美は大きく息をついた。

「薬が効いてくるまで、少しかかる」

「じゃあそれまで、もう少し寝てる」

 そう言って希美は再び仰向けになる。みぞれはめくれ上がった布団をつまみ、希美の肩にそっと掛け直してくれた。

 あったかいなあ。

 まだ薬の効能が現れるような時間ではなかったけれど、その時の希美の心境は何故か、とても安らいでいた。

 

 

 

〈続く〉

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