夢見る人は月明かりに照らされて   作:ろっくLWK

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〈3〉

 鎧塚みぞれ。

 彼女を見つけ、そして導いてきたのは他でもない希美だった。

 希美自身、その時の事はよく覚えている。

 教室で一人本を読んでいたみぞれに声を掛け、吹奏楽部に誘ったのは自分だった。

 どの楽器にするか決まらない彼女にオーボエという選択肢を提示したのも自分だ。

 自分がいなければきっと、今のみぞれもいなかった。

 本人には、そんな事はとても言えやしない。恥ずかしいからじゃない。悔しいからでもない。そのどちらもであり、どちらでもないからだ。

 そう思った希美はあの時、生物室の片隅でみぞれに問われた時、咄嗟にはぐらかすことでその場を収めようとした。

 

 希美と出会ってからずっと、みぞれは愚直なまでに希美を追って吹奏楽を、オーボエを、音楽を続けてきた。

 中学校最後の大会が銀賞に終わり、高校で絶対に金を取ると誓い合った時、みぞれの進路は自ずと決まった。

 希美と同じ高校へ行く。そして二人で、今度こそ金賞を獲る。

 二人は北宇治へ進学し、吹奏楽部に入り、金賞を目指して活動し続けた。

 

 そのはずだった。

 

 そしてみぞれは、ずっと希美を待ち続けた。

 希美が、吹奏楽部を去ってからも。

 ずっと。

 

 

 

 

 

 

 ゆっくりと目を開けた希美は首だけを動かし、そっとみぞれの様子を窺う。

 みぞれはテーブルの上で、何やら携帯を両手でちょこちょこといじっていた。あの指捌きから見るに、昔からやっている音ゲーか何かだろう。

 いつだったか、ちょっとした好奇心からみぞれに直接「それって面白い?」と尋ねたことがある。

 その時みぞれは少しだけ怪訝そうな顔をして、それから、

『べつに』

 と一言だけ返して来た。

 特に面白いでもないものを、何故あんなに一生懸命やり込んでいるのだろう。その点だけは、今になっても希美には理解できないことだった。

「どうしたの?」

 こちらの視線に気が付いたのか、みぞれが手を止めてこちらを向く。

「ん、」

 希美は返事に詰まった。特に何か、みぞれに用件があったわけではない。ただ何となくみぞれの横顔を眺めていただけだ。どう返事したものかと言葉を選んでいる時、突然自分のお腹から『グウ』と、低く伸びるような音が鳴った。

「ちょっと、食欲出てきたかも」

 誤魔化そうとしたつもりが、そう口にしてみると確かに空腹感がある。ひょっとしてさっき飲んだ薬が効いてきたのかも知れない。

 その様子を見たみぞれは再び買い物袋に手を入れ、中身をガサゴソと引っ掻き回し始めた。

「食べたいの、ある?」

 みぞれが買い物袋から取り出したのは、レトルトパウチのおかゆ、食パン、おにぎり、納豆、プリン、と実に様々なレパートリーだった。いくら看病のためとは言え、流石に多すぎやしないだろうか。しかし残念なことに、その中に希美がいま食べたいと思えるものは無かった。

「アイスはある?」

「ある。勿論」

 何故か自信ありげにそう答えると、みぞれは立ち上がって冷蔵庫へ向かう。

 ガチャ、バタン、という音がして、戻って来たみぞれの手にあるものを見て、希美は思わず声を上げた。

「うわ、紫芋のアイスじゃん。ちょうど食べたかったやつ」

「希美、これ好きだったから」

 良く覚えてるな、と思いつつ希美はアイスを指さした。

「それ食べたい」

 希美の要求に応え、みぞれがアイスの蓋をベリリと指で剥がす。続けて彼女は袋の中からプラスチックのスプーンを一つ取り出し、それをアイスの表面にざくっと突き立てた。

「起きられる?」

 うん、と返事をして希美は身を起こした。心なしか、先程よりも体が軽い。かなり薬が効いてきたのか、熱もだいぶ下がってきているような気がしていた。

「じゃあ、口開けて」

 そう告げるみぞれがこれから何をしようとしているのか、希美は瞬時に察する。自分で食べれるよ、と言おうかとも思ったが、しかし何となく今はあえて、みぞれの成すがままに従ってみたい気分にもなっていた。

 「あ~ん」と口を開け、次の瞬間を待つ。みぞれのしなやかな指に従ったスプーンがアイスを一かけら掬い、そしてそれを希美の口元に運んでくる。ぱくり、と希美はそのスプーンごとアイスを口に含んだ。

 きんと冷えた温度に口の中が支配され、それと同時に紫芋の風味と甘味がじわりと舌の上に広がる。溶けたアイスのかけらを呑み込むと、胃の中から全身が冷やされていくような心地がした。

「うんまー」

 満足気な声を上げた希美に、みぞれの瞳も安堵しきったように閉じられる。マスクをしているせいでその表情の全てはわからないけれど、その下ではきっと、いつものみぞれの笑顔が浮かんでいるに違いない。希美はそう思った。

 そのままみぞれに餌付けされるようにして、希美はアイスを一通り食べ尽くす。ようやく固形物を口に出来たからなのか、それともアイスに含まれていた糖分ゆえか、体に少し活力が戻ってきたような気がした。

「他に何か、欲しいもの、ある?」

「ううん。アイス食べたから今はもう十分」

「そう」

「あ、そう言えばだいぶ汗かいちゃったから、ちょっと着替えたいかな」

 希美は自分の服の裾に手を突っ込み、ベタベタと汗ばむ肌を指で撫でる。別に今更着替えなくてもいいのかも知れないが、この感触は少し気持ち悪かった。

「それなら、体、拭く?」

「それもいいかもねえ」

 みぞれの提案に、希美はごく自然に相槌を打った。本音を言えばシャワーを浴びたいぐらいだけれど、今の体調でそんなことをすればまた風邪をぶり返してしまいかねない。小さい時にも風邪を引いた時には母親に体を拭いてもらうことがあった。今日のところはそのぐらいに留めておいた方がいいだろう。

「じゃあちょっと行ってくるから、みぞれはここで待ってて」

「どこ行くの?」

「お風呂場。体拭いて着替えてくるから」

 希美はベッドから起き上がり、収納棚から自分の着替えとタオルを取り出そうとした。その時、突然後ろからぎゅっと引っ張られるような感覚があって、はたと希美は動きを止める。

 振り返るとそこにはみぞれが居て、陶器みたいな彼女の手が希美の服の裾をきつく握り締めていた。

「だめ」

「だめって、ちょっとお風呂場行ってくるだけじゃん」

「だめ。動くと風邪が悪化する」

「そう言われても」

 いやいやするように身体を揺すってみたが、みぞれの手は裾を離してくれる気配がない。これは希美にとって非常に困った事態だと言えた。

 流石に誰かが見ている前で体を拭きたくなんてない。それがみぞれであろうと、無かろうと。そんなのはとんだ羞恥プレイというものだ。どうにかしてみぞれに手を退けてもらおうと、希美が後ろ手を伸ばしたとき、

「私が拭くから」

 みぞれのその言葉に、希美は我が耳を疑った。

「だから、希美はここで待ってて」

 ちょっと待て。これはどういう状況だ。

 いくら看病されている立場であるとは言え、自分は一応今年で成人を迎える年頃の女子なのだ。自力で動けないほどの状況も脱したし、肉親ならまだしも同窓の友達に体を拭いてもらう、というのはいかがなものだろう。さっきまでとは違う種類の嫌な汗が、希美の背中をずるりと滑り落ちていく。

 ようやく裾を離してくれたみぞれは、買い物袋の中からフェイスタオルを一枚かっさらうと、そのまま台所へと歩いて行った。何となく、いつものみぞれよりも少し早足だったような気がする。希美がそれを察知したのは彼女の足音からだった。

 

 

 どうやら今日のみぞれはとことんまで看病してくれるつもりらしい。説得は不可能だと悟った希美はもう、抵抗する気力すら失ってしまっていた。みぞれに促されるがまま、ずるずると寝間着を脱ぐ。続いて自分の汗と熱をたっぷり吸った下着のホックに手を掛ける。一応気を遣ってくれたのか、みぞれは顔を逸らしていてくれた。

 みぞれに背を向けベッドの上にぺたんと座り、そして自分の両腕で、胸をしっかりと覆い隠す。

「いいよ」

 背後からおずおずと、みぞれが近付いてくる気配がする。何だろう。何故か妙にドキドキしてしまう。

「じゃあ、拭くから」

「どうぞ」

 わざと明るい声で返事をしてみせた希美だったがその実、心中では今の状況への困惑と緊張が極大にまで膨れ上がり、今にも破裂してしまいそうだった。

 中学からの友達同士、なんて言っても、ここまでの行動を許したことは未だかつて無い。下着もつけず剥き出しになった自分の背中を今、みぞれが見ている。その様子を客観的に眺めることはおろか、想像する事すら不可能だった。

 夏紀なら『なんかマヌケ』なんて言って笑うのだろうか。

 優子なら『何恥ずかしがってんのよ、女同士で』ぐらい言ってくれるだろうか。

 どっちにしろ二人きりの現状ではそんな緩衝材などどこにも無くて、つまり希美に出来ることは、ただ一刻も早くこの時間が終わってくれればいい、と願うばかりだ。のしり、とベッドが傾く。みぞれが膝をついたのだろう。もはやこうなったら自分はまな板の上の鯉だ。どうにでも好きにしてくれ。

 やがて、生暖かい感触が希美の背中に添えられる。先程みぞれが台所で用意した湯にフェイスタオルを浸して作った、即席ホットタオルの感触だろう。普段滅多に味わう事の無いこそばゆさに、思わず口から「ふっ」と吐息が零れる。

「熱い?」

「ううん、大丈夫」

 自分の口から変な声が出てしまったことに一番狼狽えたのは、希美自身だった。少しの間、みぞれはタオルを動かさず、じっとその場に留めるように希美の背中に押し付ける。やがてタオルの熱と感触に希美の肌が慣れ始めた頃、ゆるゆるとみぞれの手が、上下に動き始めた。

 正直言って、気持ちいい。

 べたついていた汗がホットタオルによって拭き取られるたびに、新鮮な自分の皮膚が表に露出して空気を吸っているような気がする。未だじんわりと熱っぽかった体は気化熱によって冷やされ、それまでの気持ち悪さが清涼感に塗り替えられていくような感覚だった。

「次は、腕」

 言われるがまま、希美は両腕を真横に伸ばした。こうなるともう、前を覆うものは何もない。

 為すがままに腕を拭かれながら、希美はちらと窓の方を見やる。カーテンはちゃんと閉められていた。良かった。体調不良のせいでそれどころではなかったけれど、どうやらみぞれがきちんとカーテンを閉めていてくれたらしい。みぞれが丹念に腕を拭き取り終わったところで、希美はみぞれに声を掛けた。

「ありがと。後は自分で出来るからさ」

「え、でも、」

「大丈夫、ここでやるから。それに何て言うか、流石にこれ以上は恥ずかしいし」

 それは紛れもなく希美の本音だった。これ以上みぞれの手で体を拭かれたら。想像するだけで変な気持ちになる。いくら同性とは言え、流石にまずいものはまずい。それにこの時はあまり、みぞれに自分の身体をまじまじと見られたくはなかった。何故そんなことを思うのかは、希美自身にも分からなかった。

 合宿のお風呂でだって、別に見られて気にするなんてことは無かったのに。

「……わかった」

 しばらくの間逡巡していたらしいみぞれも、ようやく手を下ろしてくれた。希美が開いた手のひらに、みぞれがホットタオルをちょんと載せる。それを受け取って、残りの範囲をゴシゴシと自分で拭きながら、希美はみぞれに尋ねた。

「ところでみぞれ、もう大分遅いでしょ。そろそろ帰りのバスの時間、大丈夫?」

 この位置から時計は確認できなかったが、既に陽が落ちてからそれなりの時間が経っている。日中ならともかく夜も更ければバスの本数はぐっと減ってしまうし、乗り継ぎにも支障がある。それにここからバス停、バス停から彼女の家まで歩くことを考えれば、到着はかなり遅い時刻となってしまう筈だ。そんな時間帯の街を、みぞれを一人で歩かせたくはない。そう思うのは希美の良心が半分。もう半分は『自分のせいで』がその一因に書き加えられることを恐れる、言わば自己保身の念によるものだった。

 ただ単に安全に帰り着くだけなら、今日のところは電車で実家に向かってもいいだろう。けれど実家からみぞれの通う音大までは、あまりに距離があり過ぎる。翌朝のことを考えればこれもあまり良い手とは言えない。

 いずれにしろ踏ん切りをつけるなら今だ。そう考えて、希美はみぞれに水を向けたのだった。

「平気」

 みぞれが首をふるふると振る。何が、と希美は訝しんだ。

 もしかしてこの子、ここから家までタクシーで帰るつもりなのだろうか? いくら家が金持ちだと言ってもそれは容認しがたい。それはみぞれ自身のことを考えてと言うよりは、単純に今またみぞれと自分との間にある格差を見せつけられるのが嫌だったからだ。

 果たしてみぞれはどうする気なのか。彼女が小さく息を吸う音が自分の耳をくすぐるのを、希美は確かに感じた。

「今日は、泊まって看病するから」

 その一言は、希美の思考を一撃で破壊するのに十分な響きを持っていた。

「……ナンデスト?」

 思わず片言で聞き返した希美に、みぞれはただじっと希美を覗き込んでくる。

 彼女の瞳はまるで一切の迷いなんて無いとでも言わんばかりに、どこまでも澄み渡る湖面のようだった。

 

 

 

〈続く〉

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