夢見る人は月明かりに照らされて   作:ろっくLWK

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〈4〉

 傘木希美。

 彼女は本当に音楽が、フルートが好きだった。

 一人で吹いている時間も楽しい。風が震えるようなその音で、美しいメロディを紡ぎ出すのがたまらなく良い。

 幾つもの楽器が集まって一つの音楽を奏でるのも素晴らしい。その中に自分の音もあって、全員が理想の音を作っていくために頑張る事、これがまた美しい。

 そう思っていた。

 だから中学最後のコンクールの時、皆で作った良い音が銀賞という結果に終わってしまったことは、心の底から悔しかった。

 

 高校に進学した時も、希美はそれが出来ると信じて疑わなかった。

 それが出来ないと知った時、心から絶望した。

 音楽そのものを嫌いになる前に。そう思って吹奏楽部を辞める決断をした時、自分がみぞれを誘わなかったことを、心の中に居るもう一人の自分が『当然だ』と囁いていた。

 

 あの子は私とは違う。

 みぞれには、私の気持ちなんてきっと分からない。

 だって、みぞれは――

 

 

 

「ちょ、泊まるって。明日学校どうすんの?」

「平気、朝は早く出る。多分、希美の寝てるうちに」

「それは良いけど、いや良くないよ。明日の講義の準備とかあるでしょ」

「それは、何とかする」

「何とかするって……」

 開いた口が塞がらない、とはこの事だった。

 どう見ても優先順位を履き違えてる。まだ自分には療養が必要だとして、もう飲食物は足りてるし、薬も飲んだし、体も拭いた。後はぐっすり寝るだけだ。みぞれの看病をこれ以上受ける必要なんてない。それなのにみぞれはまだ看病を続けるという。何故だ。どうしてみぞれはそこまでするんだ。

 とにかく先に着替えてしまおう。そう思い、希美は用意していた着替えに手を伸ばす。

「オーボエは持って来てあるから、大丈夫」

 みぞれのしなやかな指が、オーボエのケースをつつっと撫でる。

 だからそういう問題じゃないだろう、と希美は心の中で突っ込みを入れる。平日、学校が終わってからここまで来るだけでも大変だった筈なのに、明日の朝早く家を出るなんてもっと大変だろうに、どうしてみぞれはそれを厭わないんだ。

 それが、希美の為ならば。みぞれは平気でそう言うのだろう。

 わかってない。

 みぞれは何も。

 それを言われた側が、何を思っているかなんて。

「前にも言ったかも知れないけど、私、みぞれにそこまでしてもらえるような人間じゃないよ」

 その言葉に、みぞれが息を呑むような気配がする。言葉が途切れたその合間に希美はスルスルと着替えを済ませ、そしてみぞれの方を向いた。

「こうして看病に来てくれて、ホント助かったって思ってるし、嬉しいけどさ」

 みぞれはきっと泣きそうな顔をしている、と希美は思った。けれど振り返った時、意に反してみぞれは少し下を向いて何かを考え込むような表情をしていただけだった。

 以前の自分なら、そんな様子のみぞれに何か思うところもあったかも知れない。けれど今の自分は、少しホッとしてさえいた。

「……ほんと?」

「ホントホント」

 顔を上げたみぞれのその黒く艶やかな横髪を、希美はそっと指で撫で下ろす。

「同じことを二回言うのは嘘の証拠って、前に優子が言ってた」

「それは疑い過ぎだって。今のは私の正直な気持ち」

 子供じみた言い回しをするみぞれに、希美は思わず苦笑してしまう。嘘も何も、みぞれが来てくれて助かったと思っているのは紛れもない事実だ。それが夏紀でなかったことは予定外だったとは言え、みぞれが献身的に介護をしてくれたことで、体調はかなり回復してきている。

 それにこうして二人きりの時間を過ごせたお陰で、自分の中に巻き付いていた何かが一つずつ、するりするりと解けていくような感覚があるのも確かだった。それが何なのかまでは、この時の希美には分からなかったが。

 

 今のこの気持ちはイヤじゃない。みぞれに対しても、自分自身についても。

 

 

 みぞれがここまで頑固に『泊まる』と言っている以上、後のことはもはやみぞれ本人に任せるしかない。そう思い至った希美がやむなく宿泊を許可すると、みぞれはまた嬉しそうに目を細めた。全くもう、などとぼやきつつも、不思議と悪い気がしなかった。

 こんな風に思えるようになったのは、果たして自分が成長したからだろうか。

 それとも、成長しているのは実はみぞれの方なのか。

 引き続きベッドに寝そべりながら、希美はみぞれを見やる。ご飯を済ませていなかったらしいみぞれは、希美の為にと買って来たコンビニのおにぎりにかぶりついていた。小さな口でおにぎりを頬張るみぞれの姿をぼうっと眺めながら、希美はかつての自分達を思い出す。

 

 『リズと青い鳥』

 それが高校三年生、自分達にとって最後のコンクールの年に選ばれた自由曲だった。

 フルートとオーボエ、それぞれのソロによる協奏が取り入れられた、美しくも儚い曲。

 あの日、あの時のみぞれの演奏を境に、二人の立場はまるで逆転してしまった。

 

 あの時より以前、夢見ていた将来。

 あの時より以後、歩んでいる現在。

 立っていたいと思ったその場所にいま立っているのは、自分ではなくて。

 本当に欲しいと思っていたものを持っていたのは、あの子の方で。

 それは希美にとって、堪えがたいほど悔しい事だった。

 自分自身を恥ずかしいとすら思っていた。

 けれど、自分はそんな自分と、向き合おうと決意した。

 自分は自分の中にある醜い部分から、目を逸らさない人間でありたい。

 そう思って、あの日から今日までを歩んできた。

 

 みぞれはどうなのだろう?

 人が変わるのに、二年という時間は短いかも知れない。

 けれども十分な時間でもある。

 もしも自分がこの二年の間に変われたというなら、それはみぞれにとっても何かが変わったかも知れない、ということだ。

 みぞれへの嫉妬が自分勝手なものであったとしても、それ以外にも自分とみぞれには幾つもの『違い』が横たわっていた。

 環境も、能力も、性質も、互いの感情でさえも。

 けれどもしそれが、もっと長い時間の中で少しずつ変わり続けて、やがて溶け去ったならば。

 

 

 その時、自分とみぞれは、一つになれるのだろうか。

 

 

 

 

「希美」

 目の前にみぞれの顔があることに気付いて、希美はハッと我に返る。寝ていた訳ではない。考えるのに夢中になり過ぎて、そこにみぞれが居たことを忘れてしまっていた。

「何か他に、欲しいものある?」

 みぞれにそう問われても、もう食べたいものもないし、飲み物も十分にある。ううん、と希美は緩やかに首を振った。

「じゃあ、他にして欲しい事、ある?」

 して欲しい事。これも特には思いつかない。強いて言うなら、みぞれの寝床を用意するのを忘れていた。突然の来客に備えて買い足しておいた敷布団一式。それは収納棚の奥深くに鎮座している。春の独立記念日では四人ともボードゲームやら談笑やらに夢中になって、結局日の目を見ることのなかったものだ。

 布団、使ってよ。私はもう大丈夫だから。そんなようなことを、みぞれに向かってぼそぼそと呟く。

「大丈夫。後でやる」

 さっき飲んだ薬がだいぶ効いてきたのか、それとも体調が回復してきているからなのか、さっきまでに比べて意識が朦朧としている。

 身体が強く、眠気に囚われている。何かを喋ろうと思っても口がうまく回らない、そんな感覚があった。

「私に出来る事あったら、言って」

 みぞれがそこまで言うのなら。希美は布団の裾から手を出し、そしてテーブルのあたりに置いてある黒いケースを指差した。

「じゃあ、みぞれのオーボエ、聴かせて欲しい。今」

「えっ」

 僅かながら、みぞれが狼狽えたような表情を浮かべる。その事に、希美はほんの少しの愉悦を覚えた。

 先に言い出したのはみぞれの方だ。自分には我儘を言う権利がある。

「でも、近所迷惑」

「この時間ならまだ大丈夫。私も時々フルート吹いてるし」

「だけど」

「好きなの」

 眠気に任せるように。あるいはそっと紛れ込ませるように。

 希美はこれ以上ない自分の本心を、みぞれに告げる。

「みぞれのオーボエ」

 その言葉に、みぞれは心の底から困ったような表情を浮かべた。

 ありったけの嗜虐心に少しだけ混ぜ込んだ、みぞれに甘えてみたいという、希美の想い。こんな時でなかったら、それをみぞれに曝け出すことはなかっただろう。

 それも良い。昔の自分なら、そしていつもの自分なら、絶対に出来なかったことだ。

 こんな時だからこそ。

 そんな希美の思惑を知ってか知らずか、みぞれはつぐんでいた口をついに開き、

「……じゃあ、希美が寝るまで」

 と、立ち上がった。

「うん、私が寝るまで」

 みぞれの言葉をオウム返しにした希美は、布団をかぶり直す。

 カチャカチャ、とオーボエを組み立てる音。懐かしい。普段あまり器用でないみぞれが、楽器をいじるその時だけは実に滑らかな手際を見せる。そういうところも好きだったと、今ならば言える。

 準備を終えたみぞれが楽器を構える気配がする。そこまでを見届けた希美は、そっと目を瞑った。

 

 やがて希美の耳に、心地良いオーボエの調べが響いてくる。

 みぞれの奏でるその曲の名は『夢路より』。

 アメリカの作曲家、スティーブン・フォスターが手掛けたその曲は、彼の死後に発表されたために遺作とも言われている。晩年にはひどい貧困に苛まれ、酒浸りの生活に陥る中で書かれたと推測されるその旋律は、夜の闇にぼわりと浮かぶ月の光のように、どこまでも優しく美しい。

 みぞれの音は昔よりも、遥かに磨きがかかっていた。音大生の演奏とはこういうものなのか。

 卒業式の日だったか、その日の朝に『みぞれはプロになりそうな気がする』と述べる夏紀に向かって返した自分の発言を、希美は思い返していた。

『そうかな。やっぱ、音楽で食べていくって難しいと思うし』

 あの時の自分の、あの言葉は、きっとささやかな反発だった。

 みぞれという存在に、そしてそれに対する自分自身の醜い心に向き合うつもりでいた筈なのに、どこかでそれを認め切れない自分が居た。そんな自分の中にある最後の意地が、あんなことを言わせたのだろう。

 今こうして自分の為だけに独奏をしてくれているみぞれの音を聴いていると、そんな事を言っていた自分自身がまた恥ずかしくも思えた。

 やっぱりみぞれの音は良い。みぞれ自身に対してどんな感情を抱こうとも、自分はみぞれの奏でるオーボエの、この音が、好きなんだ。

 夢心地の意識に滔々と響き渡る音色に、希美は頭の中だけで歌詞を載せていく。まるで子守歌のようなゆるやかな曲調とは裏腹に、この曲に添えられた歌詞は、それを聞かせている者の目覚めを祈っている。辛く苦しい現実を過去のものにして夢の世界をたゆたうその人に、目覚めよ、目覚めよと告げる歌なのだ。

 自分が眠るまでの曲として、目覚めを祈る曲を吹く。それはちぐはぐなような気もするし、けれどこれ以上なく相応しいような気もするのだった。

 

 そして歌詞の締めには、こう綴られている。

 

『我が為に目覚めよ。我が為に目覚めよ』

 

 なんだか、みぞれらしい。

 そんな事をふと思いついたものの、はて何がどうしてみぞれらしいのか、その根拠に思い至ることはできなかった。

 まるで月明かりのように、どこまでも心地良く自分を包むみぞれのオーボエの音色に身を委ね、希美はまどろみの淵へと降りていった。

 

 

 ――やっぱり、みぞれは、ずるい。

 

 

 

〈Side:Lull'd by the moonlight へ〉

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