〈1〉
「どうして来てくれたの?」
希美からのそんな問い掛けに、みぞれは返事をしながら考える。どうして自分はここに居るのだろう。
その経緯を話すのは容易かった。
希美からメッセージが届いたから。そして、何とかしなくちゃと思ったから。
そう答えるのは簡単だ。これ以上ないシンプルな理由と言えただろう。けれど、それは何か少し違うような気がした。
私は、希美の為なら何でも出来る。
希美が求めてくれるならどんな事でもする。
希美さえ居てくれたらそれでいい。
その為になら、例えこの身を、この命を捧げたって、構わない。
そんな風に思っていた。
けれど――
やや間を置いてから、みぞれは希美に、こう告げた。
「希美に、呼ばれたから」
大学の中庭、その端っこにある古びたベンチに腰掛けながら、みぞれは空を見上げていた。既に夕暮れ迫るそこは一面の朱色に塗り上げられていて、それに縁を染められた雲がぽこぽこと歪な形をして浮かんでいる。
雲はいい。
あんな風に一人気ままに空を飛んでいるのに、朝焼けや夕暮れの太陽には簡単にその身を染めさせてしまう。それに大きくなったり小さくなったり、時にはくっついたり離れたり、変幻自在に形を変えて思うがままに飛んでいる。雲は、鳥よりもずっと自由だ。そして、いつも太陽の近くに居る。
羨ましい。
そんなことを考えながら、みぞれはただぼうっと時を過ごしていたのだった。
今日の講義とレッスンも終わり、この後は彼女が所属するオーケストラサークルの練習開始時間を待つばかりだ。オーボエのケースをだらりと膝の前にぶら下げるようにして、みぞれはこれまでのことに思いを馳せていた。
音大に進学してから早いものでもう一年。この間みぞれの生活は、客観的に言えばそれなりに充実したものとなっていた。音楽の勉強。楽器演奏の指導。サークル活動。初めは慣れない環境に一人きりということもあり不安も多かったのだが、いざ入ってみると大学には実に様々な人たちが居た。
優子のように親身に関わってくれる人。自分のように孤独を好む人。努力家な人。上手くはあれど不真面目な人。時には彼女の目から見てさえ理解しがたい奇矯な振る舞いをする人さえも。
そんな諸々の影響もあって、新生活はそれなりに落ち着いたスタートを切ることができ、この一年の間にみぞれは多くの知識と技術を手にしてきたのだった。
だけど。みぞれはふと、校舎の方を見やる。
もう数十年も前に建てられたその外壁は、長い年月を耐えるうちにすっかりくたびれ、そこそこ朽ち始めていた。その外壁を彩る赤茶色のタイル。そこにみぞれは、彼女の姿を見出していた。
きっと、それが似合うと思っていた。
二人並んでその壁の前を歩くことを夢見た時もあった。
けれど今、ここに彼女はいない。みぞれの目の前にではなく、この学校そのものに、彼女は存在していないのだ。
傘木希美。
みぞれにとって彼女は友人であり、恩人であり、憧れであり、尊敬の対象であった。それ以上の存在かも知れない。希美に導かれてみぞれはここまでの道を歩み、そしてその希美の元から羽ばたくように、みぞれは彼女とは別の道を歩むことになった。
――彼女がそれを望むなら。
ふう、と息を吐いて視線を下ろす。
失った時は戻らない。別々に分かたれた道は、それぞれの見ることになる光景をまるで違うものへと塗り替えてしまう。どんなに懐かしんでもあの日々が帰ってくるわけではないのだと、頭では分かっている。それでもみぞれは希美と過ごしたあの尊いひと時を思い出しては、もう一度あの頃を取り戻したい、という鮮烈な欲望に胸を焦がされるのだった。
希美に、会いたい。
もう一度、楽しかったあの時間を、希美と二人で過ごしたい。
そんないたたまれない気持ちに無理やり蓋をするように、みぞれは胸の辺りをぎゅっと握り締める。
「……そろそろ、行かなくちゃ」
ぐちぐち思い悩む自分に発破をかけるように呟き、みぞれは重い腰を上げる。と、丁度その時、ポケットに入れてあった携帯が鳴動した。
大学の同期生たちは自分の気質を理解してくれているのか、些細な用件であれば携帯に連絡を入れて来ることは無い。とすれば何か重要な報せか、それともそれは高校時代の友人である優子からのものだろうか。携帯を取り出し、画面を操作する。そこにはこう記されてあった。
『スポドリ欲しい。あと、アイス』
その文面より何よりまず先に、メッセージを送って来た主の名に、みぞれは目を見開いた。
希美。
高校を卒業してから、いや正しくは高校在学中のコンクール関西大会の少し前あたりから、希美が自分に向けて直接メッセージを送って来ることは久しく無かった。
彼女が何らかの連絡をみぞれにする時、それは同じ吹奏楽部の仲間である優子と夏紀を含めた四人での、グループチャット形式にて送られてくるばかり。その事にみぞれ自身、一抹どころか強烈な寂しさを覚えていたのは事実だ。けれど、それも仕方の無いことだと受け止めつつある自分もそこには居た。
希美にとって、自分はたくさんいる『トモダチ』の一人。
こっちがどれだけ希美を強く思っていても、希美にはそれが伝わらない。
伝えようとしても希美は逃げてしまう。どれだけ思いを込めて伝えようとも、彼女はその言葉を受け止めようとせず離れてしまう一方だった。だから今、逆に希美のほうから自分宛てにメッセージを送ってきてくれたことは到底信じがたくて、まるで夢を見ているような気分ですらあった。
だけど、この文面は何かが少しおかしい。
いきなり希美の欲しいものだけが短文で書かれている。そしてその後に続く筈の理由や動機の文言は、いくら待っても追加されることはなかった。もしかして希美の身に何かあったのか。戸惑いと不安。文字を入力する指先が震えているのが自分でも分かる。
『どうしたの希美、具合悪いの?』
回線の向こうにいるであろう相手を慮るような、そんなメッセージを打ち終えて、みぞれは送信のボタンを押す。
もしそれがただの打ち間違いなら、希美はすぐに訂正のメッセージを送って来るだろう。そう思って少し待ってみても、希美からの返事はおろか既読の表示すら一向につかない。
もしかして本当に、何か大変なことが希美の身に起きているのでは。嫌な予感がみぞれの臓腑をぐるぐると、詰るように痛めつける。
そうだ。優子なら。希美と同じ大学に通う優子なら、何か知っているのでは。そう思って優子とのトーク画面を開きはしたが、しかしそこでみぞれははたと手を止めた。
このメッセージを、希美が、自分だけに送っている。それはつまりもしかして、希美は自分以外にこの事を知らせたくないと思ったからではないのだろうか。
もしそうだとすれば、自分がこの件を優子に尋ねようとするのは、希美に対する裏切りになってしまうかも知れない。そんな風に考えて、そっと優子とのトーク画面を閉じる。そしてみぞれは決意を固めた。
行くしかない。
自分が、直接、希美のところへ。
希美の住まいへはこの三月、彼女が一人暮らしを開始したその日に優子や夏紀と三人で訪れたばかりだった。その所在も行き方も、みぞれはもちろん知っている。
学校からバス停まで歩くことニ十分。そこからバスを乗り継いでおよそ一時間。そこからまた歩いておよそ三十分。今から行けばきっと日が暮れてしまうが、行けない距離ではない。何より希美に呼ばれているのだ。行けない筈が無かった。
道中バスに揺られる間、みぞれはじっと携帯の画面を凝視し続けていた。
『素人でもわかる! 看病のしかた』
まだ希美が具合を悪くしたと決まった訳では無いが、それでも万が一に備えて知識を仕入れておくに越したことは無い。何しろみぞれ自身、大学に入って一人暮らしを始めるより以前から、大きく体調を崩した経験はほぼ皆無であった。
熱を出した人への対処は。動けない時はどうすればいいのか。食事や飲み物は何を選んだらいいのか。そんな生活の基礎知識のようなことですら、みぞれは何一つとして知らなかった。その一つ一つを、モケットシートに座っているこの短い時間の中で、みぞれは恐ろしい速度で脳に刻み込んでいく。
希美の為に。
みぞれの中にあるのは、ただその一心だった。
バスを降りてしばらく歩くと、目の前には一軒のコンビニ。ここの角を曲がってもう十分ほど歩いた先に、希美の住まうアパートがある。
もうすぐだ。
とっぷりと暮れてしまった空を見上げながら、みぞれはほうと溜め息を吐く。ここまでの道中、何度も希美とのトーク画面を開いては、自分のメッセージに既読マークが付いていないことを確認していた。
果たして希美はアパートにいるのだろうか。それとも、あのメッセージはやっぱり希美の打ち間違いだったのか。
どっちでもいい。
みぞれにとって大切だったのは、それが希美からみぞれに何かを求める言葉であった事。そしてそれに自分が応えることなのだ。そのために必要なものをここで用意しよう。決心と共にコンビニの自動ドアをくぐると、耳慣れた電子音が店内に響く。
「らっしゃっせー」
レジの奥に立つ女性が、やる気の無い声で来客を迎える。それには構わず、みぞれは携帯の画面を見つめながら、手に取った買い物かごに次々と商品を放り込んでいった。
希美が欲しがっていたスポーツドリンク。
ストローパック。
レトルトパウチのおかゆ。
食パン。
プリン。
看病の代表的アイテムとして件のサイトに掲示されていたものを、迷いなく搔き集める。体調が良さそうなら栄養ドリンクを、と思って通路を曲がったその先で、みぞれは冷凍コーナーにとある品が置いてあるのを見つけた。
紫芋をあしらったアイス。
そう言えば、希美はアイスも欲しがっていた。それに紫芋のアイスはずっと前、希美が食べていたものだ。みぞれはその事を良く覚えている。いつだったかの学校帰り、希美のおごりでアイスを食べに行った時、彼女が自分用に選んだのはこのアイスだった。
『紫芋のアイス、好きなんだよねー。紫色が好きだからってのもあるかな』
そんな声が頭の中に響くみたいで、みぞれはひとりでにクスリと吐息を洩らす。冷凍コーナーからそのアイスを取り、それもかごの中に入れる。他にも看病に必要になりそうなものを幾つか揃え、お会計のためにレジへと向かった。
「あじゃまーす」
極めて粗雑な返事をした店員は、どう見ても不良といった容貌の若い女性だった。みぞれは昔から、この手の人間があまり得意ではない。何を考えているのか良く解らないし、彼らの放つ言葉一つひとつが他人を威嚇しているような気さえする。出来れば関わりたくない。そうとすら思っていた。
こんなみぞれの心中など知る由もないであろう店員は、かごの中の品をがさがさとスキャナーで一通りチェックし、合計の額を口頭でみぞれに示した。財布からお金を取り出そうとみぞれがもたついている間に店員が品物の袋詰めを手際よくこなし、袋の把手をくるくると巻いてみぞれに差し出す。
「あじゅじゅしたー」
袋を受け取ってみぞれは出口をくぐる。いつも思う事だが、知らない人と関わるのは疲れる。特に相手がああいう人なら尚更だ。
もしも隣に希美が居てくれたら、希美ならどうしただろうか。
きっと愛想よく店員とやり取りをして、スマートに支払いをして、それから「ありがとうございます」と元気よく挨拶をするのだろう。
希美のそういうところを、みぞれは純粋にかっこいいと思っていた。
自分には出来ないことが希美には出来る。それが、羨ましかった。
コンビニを出てすぐの角を曲がり、緩やかな坂の道を上った先。夕闇の帳に包まれたその先に、幾つもの光が灯る二階建てのアパートが姿を現した。
ここに希美は住んでいる。
みぞれは下から希美の部屋のあるところを見上げた。部屋の明かりは点いていない。果たして希美はそこに居るのだろうか。緊張で足が竦むのが分かる。けれど、ここまで来たのだ。せめて希美がいるかいないか、それだけでも確認しよう。
アパートの脇にある階段を一つ一つ、しっかりと踏みしめていく。そしてとうとう二階の一室、希美の部屋の玄関まで辿り着いた。
一つ、息を吸う。緊張のせいで体が熱い。心臓はとくとくと早鐘を打っている。片手には先程の買い物袋と、大学からそのまま持ってきたオーボエの入ったケース。空いたもう片方の手で、みぞれはゆるりと玄関のブザーに手を伸ばした。
ピンポーン。
良くあるチャイムの音がして、すぐに静寂を取り戻す。
希美の返事は無かった。もしかして部屋を間違えてはいないだろうか? 不安に駆られたみぞれは部屋の表札を確認するも、そこに示されていたのは間違いなく、この春訪れたその部屋の番号と同じものだった。
間違ってはいない。ならば希美はどこにいる? もしかして出かけてしまっているのだろうか。
思い切ってドアノブに手を伸ばす。少し揺すってみてもガチャガチャと音が鳴るばかりで、ノブが回る気配は無い。鍵が掛かっているのだ。やっぱり希美は居ないのだろうか。そう思ったタイミングで突如、
「今開ける」
と、中から声がした。希美の声。それを聞き取った自分の耳がふるりと震えるのを感じ取る。
やがて目の前のドアからがちゃりと音がして、その戸はゆっくりと、押し開けられた。
「ごめんねー、わざわざ寄ってもらっ、て……」
いた。希美。
ドアを開けた傘木希美は目の前に居るみぞれを見て、呆けたような顔をしていた。
〈続く〉