夢見る人は月明かりに照らされて   作:ろっくLWK

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〈2〉

 夢を、見ているみたいだと思った。

 

 それはその時のみぞれ自身の心理、というわけではなかった。

 今こうして現実に目の前に居る希美。彼女は、目の前に映る光景が夢か何かであるかのような、そんな不思議な表情をしていた。

『わざわざ寄ってもらって』

 彼女はそう言っていた。そんなの気にしなくていいのに。

 希美だから。

 それが、希美の為になるのなら。

「いい。大丈夫」

 万感を込め、みぞれは告げる。

 希美は返事をしなかった。体中の機能を停止したかのようにぴくりとも動かない希美と、しばしの間視線が交わる。と、その時、彼女の視線がするりと自分から外れたのを、みぞれはたしかに見た。

 廊下の照明が陰を負わせているせいで、希美の表情は良く解らない。けれどみぞれには、希美の顔は普段に比べてすっかり生気を失ってしまっているように見えた。

「大丈夫?」

 その問い掛けに、希美の肩がぴくんと跳ねる。照れ隠しをするようにくすりと笑みを浮かべながら、希美はまたこちらに視線を向けた。

「何日か前からちょっと体調悪くてさー、今日熱も出ちゃって」

「そう」

 良かった。少ししゃがれた声だけど、ちゃんと希美だ。

 そんな事をみぞれは思っていた。とにかく上がってよ、と希美に促され、みぞれは玄関の内側に一歩足を踏み入れる。それに合わせるように希美が一歩退いた時、胸の奥で鋭利なものがずぐりと突き刺さる。

 気にするようなことじゃない。希美が自分を避けたように見えたのは、ただ玄関が狭いからというだけだ。そう分かっていても勝手に怯えてしまう自分の心を、みぞれにはどうすることも出来なかった。

「お邪魔します?」

 それに頷き、みぞれの横をスルリと抜けるようにして、希美はドアの鍵をガチャンと掛ける。希美のにおい。寝間着と思しき服装の彼女から漂うそれは、いつもよりほんの少しだけ甘ったるい。そんな芳香に、みぞれの鼻腔はくすぐられた。

 靴を脱いで、先を歩く希美の後を追う。今日の希美は髪を下ろしていて、彼女のトレードマークであるポニーテールがぴょこぴょこと左右に跳ねる様を見ることは出来なかった。

 けれど、それもいい。普段見ることの出来ない希美の姿が、今ここにある。その光景を噛み締めるように、みぞれは唇をきゅっとすぼめた。

 希美の暮らしている部屋はいわゆるワンルームタイプというやつで、短い廊下の右手側にそれぞれ洗面所と浴室、トイレ、台所スペースと連なった先に、八帖ほどの洋室が広がっている。ここがリビング兼寝室、という格好だ。三月にここへ遊びに来たときに、この部屋の間取りをみぞれはすっかり記憶していた。

「悪いんだけど、私けっこう今キツいからさ。もうちょっとベッドに入ってるね」

 そう告げる希美の顔色は室内の照明の下で見る限り、かなり良くなさそうだった。みぞれは無言で頷き、希美がベッドに入ったのを見届けて、それからぐるりと室内を一望する。

 前回訪れてからたった二ヶ月しか経っていないので当然と言えばそうなのだが、室内の装いは殆ど変わっていない。ただ、机とベッドによってその大半が塞がれている部屋の僅かなスペースには、可愛い柄のカーペットと折り畳み式の小さな白いテーブルが追加されていた。

 他にテレビやハンガーラックといったものは見当たらない。きっと壁にしつらえた埋め込み式の収納スペースと思われるその扉の中に、希美の衣服などがしまわれているのだろう。

 そして机の上には黒いハードケース。みぞれの前腕ほどの長さがあるであろうその細長いケースの内側にはきっと、希美が使っていたフルートが納まっている筈だ。

 懐かしい。希美のフルートの音。

 最後にそれを聴いたのは高校三年生の秋、植物園での演奏会の事だったろうか。

 もう一度聴きたい。

 そんな衝動を、しかし、今は抑え込まなくてはならない。自分が何の為にここに来たのかを、みぞれは忘れるわけにはいかなかった。テーブルの前に座り、その脇にオーボエのケースを置く。そして買い物袋からスポーツドリンクを一本取り出した。

「ちゃんと買って来た。希美の欲しいもの」

「ありがと」

 弱々しく笑顔を浮かべる希美。その表情に、みぞれの胸は締め付けられる。

 本当に具合を悪くしていたんだ。

 希美は『何日か前から』と言っていた。その間ここで、希美はずっと一人で耐えていたのだろうか。希美が苦しむ姿を思い浮かべると、それだけで胸が苦しい。

 もう大丈夫。希美は、私がきちんと看病する。

 みぞれは意を決した。と、ベッドからげほ、げほ、と苦しそうな咳の音。みぞれはすぐさま希美の元へと身を寄せる。

「大丈夫?」

「へーきへーき、ちょっと噎せちゃって……って、あんまり近付いたらうつるよ」

「平気。うつってもいい」

「そんなわけに行かないでしょ。みぞれだって大学忙しいんだし、この風邪けっこう辛いからうつったらヤバいって」

「大丈夫。希美の風邪なら、いい」

 みぞれは心からそう思っていた。

 風邪は人にうつせば治るという。本当かどうかは知らないけれど、それで希美の風邪が治るのなら、自分にうつしてくれたって構わない。

「またそんなこと言ってー。もしみぞれに風邪がうつったら、私の方が気に病んじゃうよ」

「気にしなくていい」

「だから、そんなわけにいかないってば」

 げほん、と、そこでまた希美が小さく咳き込む。他にどうしようもなくて、みぞれは希美の肩にそっと自分の手を添えた。じわりと感じる熱気。どうやら希美の熱は相当高くなっているらしい。

「とにかく、ダメなものはダメ。何か頼みたいことあったら呼ぶから、それまで離れてて。ね?」

 そこまで言われたら仕方ない。みぞれは身を引き、一旦テーブルの位置まで下がる。でもそれで介護を諦めた訳では無い。「こんな事もあろうかと」とばかり、さっき買って来たばかりの品を買い物袋からガサゴソと取り出した。

 衛生マスク。

 さっき車中で見ていた項目の中にこんな記述があったことも、みぞれはしっかり記憶していた。

『風邪を引いた人の看病をするときは、自分に風邪がうつらないよう気をつけましょう! 自分の身体が大事ということもありますし、何より、看病された側の人にかえって迷惑を掛けてしまうことにもなりかねません』

 希美になら風邪をうつされてもいい、と本気で思っていたことは事実だが、かと言ってそれが希美にとって迷惑だったら良くない。そう考えたみぞれは買い物の際、このマスクもかごの中に入れておいたのだった。

 封を切り、透明な袋に入った白い布地のマスクを目の前で広げ、ゴムの輪っかを二つの耳にかける。普段使い慣れないせいで少々耳の裏が痛い。けれど希美のことを思えば、こんな痛みはへっちゃらだ。

 次にスポーツドリンクの蓋を開け、ボトルの中にストローを一本挿し込む。これもついさっき蓄えたばかりの、看病の豆知識である。

「みぞれ、何その顔」

「希美が言うから、うつらないようにした。……飲む?」

 そう告げて、みぞれはスポーツドリンクのボトルを希美の前に差し出した。

 

 

 

「冷え冷えシートとかあるといいんだけど」

 

 希美がそう言い出したとき、みぞれはちょっとだけ落ち込んでいた。

 立ち寄ったコンビニで、勿論みぞれは冷え冷えシートも買うつもりでいた。しかしあいにくながら、全ての棚をくまなく巡ってみても、さっきの店に目的の品は置いていなかったのだ。

 携帯で地図情報を見る限り、少し歩けばドラッグストアがあるらしい。けれどそこへ寄って買い物をしてから希美のアパートに行くとなれば、到着時刻がかなり遅くなってしまう。

 今は一刻も早く希美の元に行きたい。何か、他に、冷え冷えシートの代わりになるものはないか。そう思案した時、みぞれはふと看病情報のサイトにこんな一文もあった事を思い出した。

『冷え冷えシートがお家に無い時は、昔ながらの方法ですが、氷水で絞ったタオルを使いましょう……』

 これだ。そう思いついたみぞれはコンビニでフェイスタオルを二枚買って来ていた。希美の所望に応えるべく、みぞれはそのフェイスタオル一枚を手に廊下へと向かう。

 まずは桶。これは浴室に置いてあったものを拝借することにした。次に氷水。水自体は水道さえあれば幾らでも賄えるだろうが、問題は氷だ。冷凍庫に氷が無かったらどうしよう。そう思いながら、みぞれは台所の脇に置いてある小さな冷蔵庫の上段に手を伸ばす。

 ガチャ。みぞれの顔にぶわりと冷気が吹きかかった。目の前の白いペールには、粉砂糖をまぶしたみたいに白濁した四角い氷がたくさん入っている。良かった。氷はちゃんとあった。

 ペールに付いていたプラスチックのスコップでガシャガシャと氷を掬い、それを桶の中に入れる。蛇口をひねって桶に水を灌ぐと、急激な温度変化のせいで氷はバキバキと苦しそうな悲鳴を上げた。こうして出来上がった氷水にフェイスタオルを浸し、みぞれはその桶を手に部屋へと戻る。

 未だ変わらずベッドの上で布団に包まっている希美は微動だにしなかった。心なしか、さっきより顔色が悪くなっているような気がする。急がないと。そう思い、テーブルの上に置いた桶の氷水からフェイスタオルを引き上げ、ぎゅうと絞る。

 ところで絞り加減はこれでいいのだろうか? 唐突に湧き上がった疑問に、みぞれははたと手を止める。

 サイトにはそんな細かい事はこれっぽっちも書いていなかった。あまり絞り過ぎたらタオルはカラカラになって、氷水に浸した意味が無くなってしまうような気がする。それなら絞り過ぎない方がいいかも知れない。そう考えて、みぞれはぐっちょりと水気が残ったフェイスタオルを手に希美の傍に寄った。

「冷たっ」

 タオルを額の上に載せた途端、希美は短く呻いた。冷えれば冷えるほどいい、と思って多めに氷を入れたのが裏目に出てしまったのだろうか。ごめん、とみぞれが謝罪の言葉を口にすると、希美は小さく首を振り、こう言ってくれた。

「でも気持ちいいよ。ありがと」

 良かった。何とかうまくこなせた事に、みぞれは安堵の吐息を洩らした。

 少しの間、二人の間に無言の時が訪れる。タオルを額に載せた希美は目を閉じたまま、ふうふうと浅く息をついていた。

 いつでも元気だった希美。弾けるような笑顔が眩しかった希美。その希美がいま、こんなにも弱っている。そんな彼女の姿をこうして見ていると、みぞれは何かをしてあげなければ、という強い念に駆られた。希美に対してそんな思いを抱いたのは、これが初めてかも知れない。

 だって今まではずっと、希美に求めるばかりだったから。

 

 あの時だって、そうだった。

 高校三年生、最後の夏。

 希美は、希美を求めるみぞれに、向き合ってくれなかった。

 そんな希美のことを『勝手』だとみぞれは罵った。

 本当は、罵りたかったわけじゃない。ただ、ありがとうと言いたかっただけだ。

 その言葉を、みぞれは、うまく紡ぐことが出来なかった。

 だって、相手が希美だから。

 希美という存在は自分にとってあまりに大きい。重い。

 希美の姿を見る時、それはみぞれにはいつも、あまりに眩し過ぎた。

 二つの目で直視することが出来ない存在。すぐ傍に居るはずなのに、いつも遠い存在。

 そんな風に感じていた。

 

 私にとって、希美は、太陽だ。

 いつの間にか希美のことを、みぞれはそう捉えるようになっていた。

 

 

「どうして来てくれたの?」

「希美に、呼ばれたから」

 希美からの問い掛けに、みぞれはそう告げた。その言葉はきっと、高校生だった自分が問われたとしても同じように告げたことだろう。けれどその言葉の持つ意味はきっと、昔の自分が抱いていたそれとは違うものだ。

 みぞれはこの時、自分の中でずっとうずくまっていた自分自身の感情と、初めて向き合おうとしていたのかも知れなかった。

 

 

 

〈続く〉

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