傘木希美。
みぞれにとって彼女の存在とは、太陽そのものだった。
一人ぼっちで暗闇の中に居た自分を、光溢れる世界へと連れ出した人。
寒さに震えていた自分に、温もりをくれた人。
そして自分が何をすべきなのか、それを導いてくれた人。
希美がいなければきっと、今の自分もいなかった。
本人には、実際にそう告げたこともある。果たして彼女がそれをどのように受け止めたかは分からない。ただみぞれは彼女にこう伝えたかっただけだ。
あなたのお陰だと。私は希美に照らされて、今ここにいるのだと。
みぞれが出会った時からずっと、希美は先を歩き続け、フルートを吹き、吹奏楽部に入り、この手を引いてくれた。
中学最後の大会が銀賞に終わり、高校で絶対に金を取ると誓い合った時、嬉しかった。
希美だったから。
希美がそう言ってくれたから。
だからみぞれは希美と同じ高校に入り、そして希美と同じ吹奏楽部に入る道を選んだ。
それまでと同じように、彼女に導かれるがままに。
ずっとそれが当たり前だと思っていた。
だからみぞれは、希美を待ち続けた。
希美が、吹奏楽部を去ってからも。
ずっと。
希美に解熱剤を飲ませ、彼女が再び横になったのを見届けてから、みぞれはすっかり手持ち無沙汰になっていた。
希美の食欲は未だ戻ってはいない。無理に食事をさせても体が受け付けない状態なら却って良くないし、今はとにかく薬が効いて希美の状態が落ち着くのを待つべき。看病サイトの情報を思い出しながら、みぞれはそう判断していた。
けれど薬を飲んでから数十分、先ほどまでに比べると、希美の容態は少し持ち直してきているようだった。
荒かった息遣いが治まり、すう、すう、と静かな呼吸音になってきた。苦しそうに歪んでいた顔付きも今は少し緩んでいる。今のところ、看病は順調と言えそうだ。
開きっぱなしだった窓のカーテンを閉めてテーブルに戻ったみぞれは、おもむろに携帯を取り出す。
『みぞれ? 今日来ないの?』
『鎧塚さん休みです? 何かあったんですか?』
『鎧塚先輩、こっちにも連絡来ました。皆さん心配してましたよ』
そんなメッセージの一つひとつは、学友や後輩から寄せられたものだ。今日のサークル練習を無断で休んでしまったからだろう。その全てに『大丈夫』とだけ短く返信を済ませると、みぞれは携帯の画面を切り替えアプリを起動させる。
リズムゲーム。いわゆる音ゲー。
みぞれは昔からこの手のゲームを良く遊んでいた。しかしその理由について「好きなの?」とか「面白い?」と尋ねられると、みぞれはいつも返答に窮していた。
好きだから、面白いからやっているのではない。ただそれが得意だったから。
遊び慣れているせいもあってか、画面を見ているだけで指が勝手にスルスルと動く。本当にただ何となく、そうしながら時間を潰すことを、みぞれは苦に感じなかった。
だからなのだろうか。考えがうまくまとまらない時や感情の浮き沈みに苛まれた時、みぞれは音ゲーを遊ぶことでそれらから一旦距離を置き、あるいは操作に没頭しつつも考えを巡らせることで、いつも自分の心を整理していた。
さっき薬を探して机の引き出しを開けた時、そこには半分がやさしさで出来ている解熱剤の箱と一緒に、淡いすみれ色の外装を施されたリップクリームがしまわれていた。
希美の、リップクリーム。
きっと普段から使っているであろうそれを目の当たりにした時、みぞれの心中は嵐の只中のように搔き乱された。
手を、伸ばしたくなる。仮にそれをひょいと懐に忍ばせたとしても、希美がその事に気付くことはないかも知れない。それを自分の唇に塗ったならば。そんな妄想は瞬時にして、みぞれの全身を背徳感で染め上げた。
けれど、ダメだ。流石にそれはいけない。
ギリギリのところで残っていた自制心が、その手を薬の方へと運ばせた。
何故そんな気持ちになってしまったのだろう。
希美の私物を掠め取るような、そんな行いが許される訳はない。
自分はここに看病をしに来ているのだ。
希美に迷惑を掛けるようなことをしちゃいけない。
そう頭では分かっているのに、強い衝動に突き動かされかけた己がそこに居たことが、自分でも信じられなかった。
一体、何を考えているんだろう。
どうして私は今、ここに居るんだろう。
ぼんやりとそんなことを考えながら、画面上を滑り落ちる白い玉を無心でタップしていた折、ふと視線を感じてみぞれは横を向く。
ベッドの上で布団に包まっていた希美が、こちらをじっと見つめていた。
「どうしたの?」
「ん、ちょっと食欲出てきたかも」
それは快復の兆候。みぞれの頬が自然と緩む。
希美の体調と好みに合わせたものを。そう考え選んできた品々を、みぞれは一つずつ手に取り希美に示していく。
「食べたいの、ある?」
「うーん、ごめん。今はもうちょっと軽いのがいいかな。アイスはある?」
「ある。勿論」
みぞれはすぐさま立ち上がり、冷蔵庫へ向かった。さっきしまっておいたそのアイスを取り出し、それを希美に見せる。
「うわ、紫芋のアイスじゃん。ちょうど食べたかったやつ」
「希美、これ好きだったから」
ちゃんと覚えてる。忘れてない。
そんな思いを言葉の内に秘めたことに、果たして希美は気が付くのだろうか。みぞれの襟足がチリチリと疼く。
「それ食べたい」
希美がご所望なら。みぞれはそのアイスの蓋を指で剥がす。中にはこんもりと、鮮やかな紫色に染められたアイスがすりきり一杯まで詰められていた。
見るからに甘そうなそのアイスは、しかしみぞれ自身、実際に口にしたことはかつて一度もない。一体どんな味がするのだろう。そんな事を考えつつ、みぞれはアイスの表面にプラスチック製のスプーンをそくりと突き立てる。
冷凍庫に入れてからそれほど時間が経ってなかったからか、アイスは少し緩んでいて、さほど力を込めたわけでもないのに思ったより深くまでスプーンがめり込んだ。
「じゃあ、口開けて」
希美の体力がまだ戻っていないことを考え、みぞれは希美の食事も介助しようと思っていた。希美は瞠目し、それから少し試案するように目を泳がせる。ややあって、彼女はその口元を僅かに綻ばせてから、あ~ん、と大きく開いた。唇の端から覗く、綺麗な白い歯。そして赤い蕾のような舌先。その艶めかしさに、みぞれは思わず生唾を呑み込んだ。
自分の指でスプーンを持ち、アイスを掬って希美の口に運ぶ。それを雛鳥のように啄んだ希美は、
「うんまー」
と、そこで今日初めて、昔と変わらぬ眩いばかりの笑顔を向けてくれた。それが心から嬉しくて、みぞれもまた自然と微笑む。
マスクを掛けているので希美には分からなかっただろうが、それはかつて希美と一緒に過ごしていた頃の自分が良く取っていた、そういう表情だった。
「他に何か、欲しいもの、ある?」
「ううん。アイス食べたから今はもう十分」
「そう」
「あ、そう言えばだいぶ汗かいちゃったから、ちょっと着替えたいかな」
「それなら、体、拭く?」
「それもいいかもねえ」
そう言って希美は、自らの服の裾に突っ込んでいた手を引っこ抜いた。
「じゃあちょっと行ってくるから、みぞれはここで待ってて」
「どこ行くの?」
「お風呂場。体拭いて着替えてくるから」
病人がお風呂。それはいけない。そう思ったみぞれは咄嗟に、己が手を希美の背中に向けて伸ばしていた。着替えを取り出そうとしていた希美はみぞれに動きを止められ、慌てるように身じろぎする。
「だめ」
「だめって、ちょっとお風呂場行ってくるだけじゃん」
「だめ。動くと風邪が悪化する」
「そう言われても」
振り解こうとする希美の動きに、しかしみぞれは手を離さなかった。
せっかく薬が効いてきているのに。少し元気になったところで油断してはダメ、と看病サイトにも書いてあった。ここで無理をさせては絶対にいけない。
「私が拭くから。だから、希美はここで待ってて」
言うが早いか、みぞれは希美から素早く手を離し、もう一枚の乾いたフェイスタオルを取ってぱたぱたと台所へと向かう。こういう時、体を拭くのにはホットタオルが良い。そんな知識もみぞれは予め仕入れてあった。
ホットタオルを作るにはお湯が必要だ。ポットのお湯では足りないかも知れないし、お風呂は沸かしていないだろうからきっと浴槽にもお湯は無い。となると、選択肢はひとつだ。みぞれの視線は自然に、台所の隅に置いてあったヤカンへと向けられる。
みぞれはそれまでヤカンでお湯を沸かしたことがなかった。自分の家ではいつも電気ポットを使っているし、実家では母親が家事をやっていたので自分でお湯を沸かす必要がなかったのだ。うまく出来るかわからない。失敗したらどうしよう。そんな不安に胸をくすぐられたが、これも希美の為だ。やるしかない。
ヤカンの蓋を開け、水を灌ぐ。縁ぎりぎりまで溜められた水をこぼさないように注意しながら、みぞれはヤカンをそっとコンロの上に載せた。
希美の部屋のコンロはビルトインタイプのガスコンロで、左右に動かせるつまみの下に大きなプッシュ式のボタンが付いている。どうすれば火が点くのか分からず、みぞれは試しにつまみを一番左に動かしたり、左右に揺らしてみたり、一番右に持って行ったりする。が、やはり点火の気配は無い。
こっちだろうか。みぞれはゆるりとボタンに指を掛け、ぐいと押し込んだ。カチッチッチッチッという奇妙な音がした、と思った次の瞬間『ごう』とバーナーキャップから勢いよく青炎が噴き出す。その光景にみぞれは一瞬びくりと身を竦めてしまったが、一応きちんと火が点いたことを確認し、大きく息を吐いた。
そのまま少し待っていると、ヤカンからチリチリとむず痒いような音がしてくる。いつまで沸かせばいいのか、これも良く分からない。お風呂ぐらいの温度を目安とすれば、湯気が立つくらいが丁度いいのだろう。そう思い、みぞれは揺らめく炎を眺めながらその時をじっと待った。
シュンシュンシュン。
やがて、ヤカンの口からけたたましい音と白い蒸気が漏れてくる。そろそろいいのだろうか。みぞれはつまみを一番左まで動かし、それで火が消えないことを理解してから、もう一度プッシュボタンを押し込んだ。ぼふ、と間抜けな音と共に、青い火は一瞬でその姿をくらます。
お湯を沸かすのは思っていたよりもずっと簡単だった。今度は家でもお湯を沸かしてお茶を飲んでみよう。などと考えながら、みぞれは一旦リビングに戻る。
「みぞれ、準備出来た?」
「もうちょっと」
退屈そうに携帯をいじっていた希美にそう答え、みぞれは先程氷水に使った桶を手にする。室温に均されたせいか、中の氷はもうほとんど溶けてしまったようだった。
台所のシンクにその水を流し、次にみぞれはヤカンの把手に片手を掛ける。熱い。それに、さっきより重く感じる。もう片方の手を添えてやっとヤカンを持ち上げ、みぞれは桶の中に慎重に、ふつふつと沸き立つお湯を注いでいった。
後はこれにタオルを入れて絞ればいい。そう思ったみぞれがフェイスタオルをお湯につけた瞬間、指先にびしんと鋭い痛みが走る。
「熱っ」
慌てて手を引き上げる。みぞれが想像していたより、お湯の温度はずっと高かった。こんな熱湯で身体を拭いたら希美が火傷してしまう。
みぞれは目の前の蛇口を捻った。じゃぼじゃぼ、とお湯の中に水道の水が混じっていく。少しずつかき混ぜていくうちに、お湯の温度は少し熱めのお風呂ぐらいになった。
水を止め手を引き上げると、先程お湯につけてしまった指先がジンジンしているのが分かる。
これぐらい平気。みぞれは桶を手に今一度、希美の待つリビングへと向かった。
「熱い?」
「ううん、大丈夫」
なんて綺麗なのだろう。看病のために彼女の身体を拭くという己の使命も忘れ、みぞれは眼前の景色に思わず見惚れてしまう。
希美の身長は自分よりは少し高く、なのに体格はほっそりとしている。日頃からも思っていた事だが、そのバランスは極めて整っていて、まるで精巧に作られたガラス細工のようだ。ホットタオルを当てているその少し上には、希美の肩甲骨と思しき二つの突起が浮かんでいる。妖艶な膨らみを指で撫でたら、きっとごつりという固い感触がするだろう。
剥き出しになった希美の背中。こんなに間近に見たことはそれまでに一度も無くて。みぞれの内心ではその背中に顔を埋めてみたいという欲望と、今はそんなことをしている場合ではないという理性とが激しく拮抗していた。
やがて辛うじて勝利を収めた理性に従い、みぞれはゆるゆると背中を拭き始める。
希美の素肌が微かに水を吸い、てかてかと艶やかな輝きを帯びる。きれい。そんな彼女の姿が今はこの狭い部屋の中に閉じ込められ、それを見ることができるのは自分だけであるという優越感も相まって、みぞれの脳を強烈に揺るがしていた。
「次は、腕」
背中を一通り拭き終え、みぞれは希美に促す。前を押さえていた希美の腕が左右に開かれるとき、脇の下でふるん、と肌色の皮膚が揺れるのを、みぞれは確かに認めた。
自分には無いものを、希美はいくつも持っている。
それこそが希美という人間の持つ魅力の証であり、憧れると同時に、羨ましい、とみぞれは思っていた。ずっとずっと昔から。
「ありがとう。後は自分で出来るからさ」
腕を拭き終え、次は前、というところで唐突に希美から声がかかり、みぞれは「え、」と息を止める。
「でも、」
「大丈夫、ここでやるから。それに何て言うか、流石にこれ以上は恥ずかしいし」
「……わかった」
早口でまくし立てる希美に圧倒されるように、みぞれは渋々頷く。
希美がそう言うなら仕方ない。
手にしていたホットタオルを一度桶で洗い、ぎゅうと絞って、希美の伸ばされた手のひらにちょんと載せる。希美はそのホットタオルでごしごしと、身体の前の部分を拭き始めた。
「ところでみぞれ、もう大分遅いでしょ。そろそろ帰りのバスの時間、大丈夫?」
そのままの姿勢で尋ねてきた希美に、みぞれは既に返す言葉を決めていた。
最初から、ここに来ようと思った時から、そうするつもりでいた。
「平気。今日は泊まって看病するから」
「……ナンデスト?」
不可思議な声色と共にこちらを向いた希美の形相は、まるでこの世ならざるものを見たとでも言うかのごとく、びしりと硬直していた。
みぞれは何も言わず、ただその両の瞳で、希美に自分の意思を訴えていた。
希美の為。
それだけじゃない。
私がここに居たいからそうするのだ、と。
〈続く〉