鎧塚みぞれ。
彼女にとって音楽とは、楽器とは、手段だった。
希美と繋がる為。だって音楽だけが、自分と希美を繋ぐものだから。
その出会いがなければきっと、自分には何もなかっただろう。今でもきっと、暗闇の中で一人、縮こまって震えていたに違いない。
希美がそれを救ってくれた。希美の眩しさに、自分は救われた。
自分はあんな風にはなれない。けれど、彼女の傍に居たい。
あの温かさの、光の傍に、ずっと居たかった。
暗闇の空を漂って。そこに留まって。東の山裾からまた光が昇るその時を、ただじっと待って。
まるで虚空に浮かぶ雲のように。
そしてまた太陽と肩を並べて、穏やかな時を過ごしたい。ずっとずっと、一緒に居たい。
そうありたいと、心のどこかで、みぞれは願っていた。
しかし、みぞれは、雲にはなれなかった。
彼女は鳥籠を出でて、大空をたった一人で羽ばたいていく、鳥になった。
悲しくても、寂しくても、そうするしかなかった。
それが他でもない、希美の願いなら。
「前にも言ったかも知れないけど、私、みぞれにそこまでしてもらえるような人間じゃないよ」
希美にそう言われた時、みぞれの喉はグツリと鳴った。
その言葉がショックだったのではない。前にも同じことを言われたことはあったから。けれどその時、みぞれはその意味をもう一つ呑み込むことが出来なかった。
感情的になっていたせいもあるかも知れない。希美に向かって思いの丈を吐き切るだけで、精いっぱいだったからかも知れない。それよりも、いやそれ以上に、自分が希美を思うその感情の方が大きすぎるのだと、そう思い込んでしまっていた。
けれど今、目の前で言われたその一言は、みぞれの頭の中にびょうと鋭い旋風を吹き込んだような感覚があった。
バラバラになっていたパズルのピースがかちりかちりと一つずつ、音を立ててはまっていく。そんな風に、頭の中で組み上がりつつある一つの考えにそっと耳をそばだてるように、みぞれはしばし俯いていた。
やがて、シュルシュルという衣擦れの音が聞こえなくなる。希美が着替えを終えたのだろう。
「こうして看病に来てくれて、ホント助かったって思ってるし、嬉しいけどさ」
「……ほんと?」
希美の柔らかい声色に、みぞれは顔を上げる。
そこにはいつもの温かい希美の微笑み。
それを見た自分の胸の内に、ぱあっと明るい光が差し込む。
「ホントホント」
やにわに伸ばしてきた希美の指が、みぞれの横髪をするすると撫でていく。
きゅるりという心地良い感触。希美の手の甲に頬をくすぐられ、首筋にぞわりと言いしれようのない快感が迸る。
そんな自分を希美には悟られたくなくて、みぞれはすっと首を引っ込ませるように目を伏せながら、咄嗟に誤魔化すような何かを、と口走った。
「同じことを二回言うのは嘘の証拠って、前に優子が言ってた」
「それは疑い過ぎだって。今のは私の正直な気持ち」
くすくすと笑みをこぼす希美を見て、みぞれもまた顔を綻ばせる。
なんだかあの頃に戻れたような、そんな気がする。ずっと帰りたいと思っていたあの時に。この眩しさに、温かさに照らされていた、自分自身に。
その時、自分のお腹から『ぐう』という間の抜けた音が鳴った。
「みぞれ、もしかしてお腹減ってる?」
希美の問いに、みぞれはこくりと頷く。そう言われれば今日は大学から真っすぐこっちに来て、その後はずっと希美の看病をしていたので、食事を摂る暇なんて全然無かった。今さらのように、みぞれはその事を思い出していた。
「それなら、そのおにぎり食べなよ」
「でも、これは希美の分」
「私なら大丈夫。さっきアイス食べてお腹いっぱいだし。それにおにぎり食べたくなったら、お米炊いて自分で作っちゃうから」
「無理はだめ。希美は休まなきゃ」
「だーから、食べたくなるぐらい元気になったら、ってこと」
希美の指先にチョンと鼻先をつつかれ、突然のことに驚いたみぞれはきゅっと瞳を閉じる。
「今うち食材も何も無いし、またコンビニまで買いに行くのも大変でしょ。明日の朝までお腹空きっぱなしなのも辛いだろうし」
え、とみぞれは瞠目する。
「いいの? 泊まっても」
「だって、みぞれがそこまで言うんだもん。しょうがないじゃん」
全くもう、とぼやく希美。
良かった。これで今日はずっと、希美の看病が出来る。その思いに、みぞれは今日一番の笑顔を浮かべていた。
じゃあ私また横になるね、と告げてベッドに入った希美を見届けてから、みぞれはおにぎりの封を開けようとした。
指先がひりひりするせいで、上手く開けられない。見ると、右手の中指と薬指の先端が真っ赤に腫れ上がっている。先ほど誤って熱湯につけてしまった際、すぐ水で冷やせば良かったのかも知れない。けれど、あの時は希美が待っていた。そんなことをしている猶予なんて無かったし、こんな思考さえもあの時の自分からは抜け落ちていた。
みぞれは指先を軽く啄む。大したことない。痛がる自分にそう言い聞かせ、親指と人差し指でおにぎりの封切りをぴりりと引っ張った。
買ってきたおにぎりの具は希美の好物である納豆、ではない。納豆おにぎりはさっきのコンビニには置いておらず、せいぜい納豆巻きがあるぐらいだった。病人食に納豆巻きというのもどうなのか、と思考したみぞれはひとまず紅鮭のおにぎりを買い物かごに入れ、それから希美が食べたいと言い出したときの事も考えて、納豆パックも一つ買ってきておいたのだった。
白い粒々がぎゅっと固められたほぼ正三角形のおにぎり。その先端にかぷりと歯を立てる。みぞれの小さな口では、中に詰められているであろう紅鮭のところまで一口で到達することは出来ない。かぷ、かぷ、と何度も齧りつくうち、ようやく塩気の効いた紅鮭の風味が口の中に広がり始めた。
普段よりずいぶん遅めの食事になってしまったからなのか、それとも気分が高揚しているせいで味覚が鈍っているのか、あんまり味がしない。自炊が苦手なみぞれにとって出来合い食品の味は慣れたものだった筈なのだが、普段よりも美味しくないと感じたそのおにぎりは、一個食べるだけでもう精一杯だった。
希美がこれを食べなくて正解だったかも。
そう思ってみぞれは希美を見た。希美の瞳がぼうっと虚ろになっている。定まらぬ視点は、微かに宙を泳いでいた。
「希美?」
急に不安になって、みぞれは希美の傍に近寄る。希美はそれに、驚いた時みたく体をぴくりと小さく震わせた。
「何か他に、欲しいものある?」
みぞれはあえてそう尋ねた。希美は無言でゆるゆると、首を左右に振る。
ぼんやりとだけれど意識はある。薬が効いて来て苦痛がすっかり和らいだと同時に、それまでの疲労から眠くなっているのだろう。そう判断することが出来て、みぞれは大きな溜め息をついた。
「じゃあ、他にして欲しい事、ある?」
「……布団。使って。大丈夫」
それはもはや、ほとんどうわ言のようなものだった。
布団。みぞれは辺りを見渡す。この部屋の中に布団らしきものは見当たらない。前回この部屋を訪れた時にも、そんなものは無かったと記憶している。みぞれが確認できる布団らしき物は、今目の前にある、希美が寝そべるこのベッドだけだ。
「大丈夫。後でやる」
自分のことは後回しでいい。それよりも希美のこと。
うつらうつらとしている希美を見守りながら、みぞれはじっと息を潜めた。けれどなかなか寝落ちる気配がない。まるで眠気と必死に戦うように、希美は目を閉じかけてはまた開き、そしてこちらを向いて唇をぱくぱくと動かす。
「何?」
何を喋りたがっているのか、うまく聞き取れない。みぞれは希美の口元まで耳を寄せる。ふうふうと漏れ出してくる希美の吐息に耳を愛撫され、みぞれの背筋にはびりりと電気が走った。
「私に出来ることあったら、言って」
みぞれのその一言に、希美の瞳はすうっと大きく開かれた。そして羽毛布団の裾からのそりと手を出して、何かを指差す。その先に置いてあったものは。
「じゃあ、みぞれのオーボエ、聴かせて欲しい。今」
「えっ」
その要求にみぞれは困惑する。こんなに眠そうな希美に向けて、オーボエの音を鳴らしてもいいのだろうか。
それにこの部屋は防音構造になっていない。みぞれは壁掛け時計に目を遣る。深夜と呼ぶには早過ぎるが、宵はだいぶ深まっている。こんな時間帯に楽器を鳴らしたらご近所に迷惑なのではないか。それに家主は自分ではなく希美なのだ。もしも、後で希美が困るようなことになったら。
「この時間ならまだ大丈夫。私も時々フルート吹いてるし」
「だけど」
「好きなの」
囁くように希美の口から放たれたその一言に、みぞれの心臓がずきりと強く跳ね上がる。
目の前の希美は夢心地のようにうっとりと、柔らかな微笑みを湛えていた。
「みぞれのオーボエ」
苦しい、とみぞれは思った。何故こんなにも苦しいと感じるのか、それは分からなかった。
自分は希美のことが好きだ。どこが好きかなんて、一つずつ挙げていったらキリが無い。それこそ日が暮れてしまうほど、それらを全てまとめると『希美の全部が』と言い切れるほど、大好きだった。
希美は『みぞれのオーボエが』好きだと言ってくれる。それは二人で大好きのハグをしたあの時も、そして今も。
音楽は、オーボエは、自分と希美を繋ぐものだった。
そして今、希美はそれを求めてくれている。
「……じゃあ、希美が寝るまで」
とうとう観念して、みぞれは希美にそう告げた。
「うん。私が寝るまで」
希美は今にも眠ってしまいそうだ。急がないと。そう思い、黒いオーボエのケースを白いテーブルの上に置く。そのコントラストはとても強烈で、みぞれの視界をぐねりと幻惑した。
蓋を開いたそこにはいつも通り、分割された自分のオーボエが格納されている。それらを取り出し、一つずつを手早く組み立てていく。ここまではいいとして、問題はダブルリードの用意だ。
みぞれは練習用のリードを一本手に取り、それを迷わずホットタオル用のお湯へ突っ込んだ。本来ならこんなことをするべきではない。けれど今は、時間が惜しかった。
希美が寝てしまわないか心配で、みぞれは何度も希美の様子を窺う。希美は天井を見上げながら、みぞれの演奏を聴くまで寝てたまるかというように、今にも閉じそうになる瞼を必死に持ち上げている。みぞれには、そう見えた。
突貫で進めたリードの支度が終わり、オーボエが組み上がった。軽く音を吹き鳴らそうとした時、また指先にびりっと鋭い痛みが走る。
大丈夫。演奏に支障はない。
それを確認するように目を閉じてから、みぞれは一度息を吸い、そしてオーボエに吹き込む。
何を演奏するかは、もう決めていた。
『夢路より』
アメリカの作曲家であるスティーブン・フォスターがその曲を書き上げたのは、彼の死の数日前だったとも言われる。曲そのものはみぞれ自身も小さい頃から知っていたし、彼が手掛けた曲は他にも『おおスザンナ』や『ケンタッキーの我が家』など、日本人にも耳なじんだものが多い。けれどフォスターの晩年と『夢路より』にまつわる事実をみぞれが知ったのは、ごく最近のことだった。
たった一人で孤独に苦しみ、そして誰も居ないその場所で、不慮の事故によりこの世を去ってしまったフォスター。そんな彼の最期と、希美の弱り果てた姿とが、何故かみぞれの中で重なっていた。
けれど、希美は一人じゃない。
希美には沢山の友達が居る。希美にとって、自分はその中の一人に過ぎないのかも知れない。
自分の温度と希美の温度は違う。その事実を認めること、そして眼前に突き付けられることは、みぞれにとって切ないしやるせないことだった。
でも今は、少なくともこの時だけは、希美の傍にいるのは自分だけだ。
希美に元気になって欲しい。
またあの眩しい笑顔を、その優しさを、温もりを、与えて欲しい。
そんな思いを込めて、みぞれは一つ一つの音を、今の自分が持てる全ての技術で紡いでいった。
「……希美」
演奏を終えて一息ついたみぞれが希美を見た時、彼女はもう眠りに落ちていた。すやすやと寝息を立てるその表情はとても穏やかで、安らぎに満ちていた。
自分の演奏が、希美に何かを与えられたかは分からない。最後まで聞き届けてくれたのかどうかも。
けれど、希美が満足したのなら、良かった。
一つ息を吐いて、みぞれはオーボエの片付けにかかる。今日使ったリードは、もしかしたら破棄しなければならないかも知れない。仕方が無い、とみぞれは思った。希美の為だけに渾身の演奏が出来た。その為に、あらゆる手を尽くす必要があったのだから。
管体の手入れも一通り終えて、オーボエは元通りケースの内側に収まった。みぞれは立ち上がり、リビングの照明スイッチに手を掛ける。ばちん、という音と共に、部屋の中はたちまち真っ暗になってしまった。
閉じていたカーテンをゆるゆると引く。深い紺色に彩られた夜の街はきらきらと、宝石箱のように瞬いていた。その遥か上空に浮かぶ、ぼんやりと滲んだ半月。そこから注がれる柔らかな光が、まるでみぞれの全身にじわりと沁み込んでくるみたいだった。
「きれい」
思わず呟き、そしてみぞれは希美を見やる。月の光に包まれた希美の寝顔が、気持ち良さそうに緩んだのがわかった。
足音を立てぬよう、そろりそろりと希美の枕元まで近付く。月明かりに照らされた希美は今、どんな夢を見ているのだろう。あるいは夢など見ることなく、ただただ疲れ切った自分自身を癒している最中なのだろうか。それを眺めながら、みぞれはぼんやりと考える。
希美は自分にとって、太陽だった。
自分はその傍に居る雲でありたいと思った。
けれど、雲にはなれなかった。
希美もまた、自分の傍から離れて行った。そんな希美のことを自分勝手だと罵ったこともある。
やがて、みぞれは希美の元から飛び立った。それが希美の願いなら。
私達はいつもちぐはぐ。一緒に居られるのはほんのひと時だけ。けれど、今の自分があるのは間違いなく、希美という存在が居てくれたからだ。
希美が私を導いてくれたから。希美が私を照らしてくれたから。
そしてそれは今でもそうだ。希美が自分を照らしてくれるから、今ここに自分が居られる。
まるで月が、沈んだ太陽の光に照らされて、夜の帳の中で輝いているのと同じように。
「月……」
みぞれの頭の中で、何かが、ぱちんと弾けるような感触があった。
「希美が私にとっての太陽なら、私は、月になる」
そんな言葉を、今まさに眠りに就いている希美はきっと知る由もないだろう。けれどそれは、みぞれなりの決意の表れだった。
希美という存在は自分にとってあまりに大きい。重い。自分は希美に照らされている。希美の元を離れたって、どれだけ時が流れたって、みぞれの中でその事実が変わることはきっと無いだろう。
だから。
自分は希美から受けたその光を、また別の何かに注ごう。彼女の優しさを、温かさを、眩しさを、そのまま映すことは無理だとしても。
そして今は、その光で包んであげたいと思う。目の前にいる、傘木希美という人を。
「おやすみ。希美」
ほんの少し汗ばんだ希美の前髪をかき分けて、そこに露わになった額に、みぞれはそっと唇をつけた。まるで眠る我が子に母親がするような、そんな優しいキスだった。
その途端、急に胸に湧き上がる狂おしい感情。自分がしたことの意味を頭が勝手に考えてしまい、その気恥ずかしさが身体に火を点ける。悶えたくなるようなその感情から目を背けるように、みぞれはベッドの淵にぼすりと顔を突っ伏した。
「……私も、自分勝手?」
ひとりごちたその声は、すっかり震えていた。
我ながらとんでもないことをしてしまった。みぞれはシーツの上にぐりぐりと、己の大胆な行動を責めるかのように、顔をなすりつけていた。
〈Wake unto me へ〉