エピローグ
ふんわりした何かが自分を包んでいる。そんな感覚を受けながら、希美はゆるゆると目を開いた。
そこには真っ暗な天井だけが広がっている。どうやらみぞれの演奏を聴くうちに、すっかり眠りこけてしまったようだ。しばらくそのままぼうっとして、それから希美は、目の前の視界が妙に明るいことに気が付く。
「お月さま……?」
体を拭いていた時にはしっかり閉じられていたカーテンが、何故かは知らないが開いているらしい。そこから零れ来る月の光が自分に注がれている。希美はそれを感じ取った。柔らかくて優しい光。自分の全身をすっぽりと包まれている感じがして、希美はふうっと息を吐く。
まだ寝たままではあったけれど、体の不調感はすっかり治まっているみたいだった。これも水分を摂って、アイスを食べて、体を拭いて、ぐっすり眠ったからだろう。熱っぽさも失せているし、これなら明日はどうにか大学に行けそうだ。などと希美は考えて、
「みぞれのお陰だな」
と、誰にともなく呟いた。
みぞれが来てくれなければ、解熱剤を飲むことすら危うかったかも知れない。彼女の甲斐甲斐しい看病があったからこそ、何とか持ち直せた。
本当に助かった。そう思い、希美はすうっと深呼吸をした。
考えてみたら、もしかしてこれが初めてかも知れない。
彼女のお陰だと思えるような、そんな感情を自分がみぞれに抱くのは。
「そう言えばみぞれ、ちゃんと布団敷いたかな」
そう思って首を横に向けた希美は、目の前にあるものを見てギャアと悲鳴を上げそうになった。
黒い塊が、目の前にある。あまりの驚きに口をぱくぱくさせたが、そこから声も、息すらも出てこない。
ややあって、希美ははたと気が付いた。それがみぞれの頭頂部である事に。
「みぞれ?」
身を起こし、みぞれの肩を揺さぶる。みぞれからは何の反応も無い。彼女はどうやらベッドの脇に跪くような姿勢のままで、ベッドに頭をつけ眠りこけているようだった。
「ちょっと、起きなよ。ここでこうしてたらみぞれが風邪引いちゃうって」
「ううん」
もう少し強く揺さぶると、みぞれは呻きながら顔を横に向けた。その唇からはすうすうと、実に気持ちよさそうな吐息が零れている。だめだ、完全に熟睡してしまっている。
ともかくこのまま置いてはおけない。
今からでも布団を敷いて、みぞれを寝かせた方がいいだろうか。せめて何か、毛布くらいは掛けてあげた方がいいのでは。自分がすべき行動が選択肢のカードとなって、希美の脳内をぐるぐると駆け回る。
けれど。
「まあ、いいや」
しばらく逡巡したものの、希美はそれらの選択肢を一切合切かなぐり捨てた。それは単純に面倒くさくなったからだ。寝起きでうまく頭が回らなかったからというのもあるが、そもそももっと簡単な方法がある。今から寝床なんて、わざわざ用意しなくてもいいだろう。
「みぞれ」
そう言って希美は、みぞれの頬をぺちぺちと優しく叩く。大福みたいにもちもちとした彼女の肌は、月明かりに照らされて、仄かに青白く光っていた。ごく軽い力とは言え、流石に違和感を覚えたのだろう。ぴたりと閉じられていたみぞれの瞳が緩やかに持ち上がっていく。
「……希、美?」
まだ寝ぼけているらしく、みぞれの口調は明らかに覚束ないものだった。
「そうしてたら風邪引いちゃうよ」
「うん」
「とにかくホラ、おいで」
希美はそう言いながら、自らが被っていた羽毛布団を手で引き上げた。みぞれはのったりと、緩慢な動きでベッドに這い上がる。そしてもぞもぞと、布団の中に体を埋めた。
「ん、」
温かい寝床に辿り着けて安堵しているのか、みぞれは満足そうな呻き声を洩らした。布団をみぞれの肩に掛け、それから希美は彼女の手を握る。夜の闇に凍えていたその手は、すっかり冷え切っていた。
「ほんと、みぞれは、しょうがないなあ」
朝起きるのは早いくせに、寝起きが弱くていつもメタメタになってたっけ。吹奏楽部時代の合宿の光景を思い出して、希美はくすりと笑みをこぼした。
自分の枕を半分みぞれの方に寄せ、頭を載せてあげる。やがて眼前のみぞれは再びすうすうと、穏やかな呼吸を始めた。その寝顔を眺めながら、希美はぼんやりと考え込む。
みぞれはずるい。
過去、希美はそんな感情をみぞれに抱いていた。いや、正しく言えば、その感情は今も胸の内にある。みぞれを見る度、心に刻まれた生乾きの傷がじりじりと疼くような、そんな気さえもしてしまう。
何もかもを希美の為と、みぞれがそう言ってくれるのが重かった。
みぞれの持つ『才能』という名の翼、それを羽ばたかせるのを「希美と繋がる為」と迷いなく言い切られるのが、辛かった。
――私が死ぬほど欲しいと思っていたのは、そんなちっぽけなものじゃない。
価値観の違い、なんて言い切ってしまえばそれまでの事なのかも知れない。けれど希美にとってそれは、自分自身の存在理由にさえ関わるほどに大きく重く膨れ上がったものなのだ。
だからなのだろう。
自分はいつの頃からか、この子に、みぞれに、嫉妬していた。
窓から差し込む月の光がちょうど雲に遮られ、部屋に暗闇がずぶずぶと沈み込む。それに合わせるように、仄暗い感情が徐々に全身を包み込んでいくのを、希美は感じ取った。
みぞれに対する嫉妬の火は、今も間違いなくこの胸の中で燻り続けている。そのぐらい、みぞれに対する自分の感情は未だ解決を見ていない。高校卒業を機に離れることで互いの関係を、その形を見直すこともあるかとも思ったが、残念ながら自分の心はそれほど単純には出来ていなかったようだ。
みぞれは無垢な寝顔のままだ。こんな感情を目の前の人物が抱いていることを、彼女は知る由も無いだろう。
自分が本当に欲しかったものを、みぞれは持っている。
そして自分がぼんやりと憧れたその道を、みぞれは順調に歩んでいる。
もしも翌朝、みぞれが目覚めた時、その全てがぐるりと反転していたら。
彼女が歩もうとしていた道の続きを、自分が手折ったとしたら。
その時みぞれはどんな表情を浮かべるだろう?
そんなことを考えながら、希美はそっとみぞれの頬に手を這わせる。そして彼女の細い首筋のところで、その手をぴたりと止めた。
首筋に、なにかゴミがついている。
希美はそれをつまみ取り、ぴん、と指先でそのゴミを跳ね飛ばした。
「なんてね」
それまでの自分が少しだけ滑稽になって、希美は一人クツクツと喉を鳴らした。
そんなこと、出来ようはずもない。度胸の問題じゃない。みぞれ本人に何の悪気も無いことを、希美本人が一番良く理解しているからだ。
そう、この子は何も悪くない。みぞれを吹奏楽部に誘ったのも、みぞれに黙って吹奏楽部を去ったのも、そしてまた戻って来たのも、嫉妬の念を抱いたのも、それでも尚『リズと青い鳥』でみぞれの演奏を支えようとしたのも、結局は全て自分が勝手にやっていたことなのだ。
そんな自分の思いは、みぞれ本人の意思とは何の関係も無い。
そしてみぞれが自分を慕ってくれるのも、自分自身の意思とは何の関係もない。
たったそれだけの事じゃないか。そう割り切ることは、この時の希美にはまだ難しかった。けれども今、安らかに寝息を立てるみぞれをじっと見つめていると、今まで抱えてきた沢山のものがパラパラと綻んでいくような気がする。今はそんな自分の気持ちを大事にしたい。
希美は顔だけを窓辺に向けた。雲間からは月が再び、その一片を覗かせている。眩しい、という感触は無い。徐々に雲が過ぎ去り、ちょうど半分だけの月がもう一度、溢れる光で希美の視界を埋め尽くした。
「きれい」
その光に包まれながら、希美はもう一度みぞれを向く。彼女の長い髪は月の光を浴びて、ちょうど夜の川がそうであるようにきらきらと、美しく輝いていた。その髪を指で持ち上げ、くにくにと弄び、そして、
「おやすみ。みぞれ」
希美は彼女の額にそっと、自分の額をくっつけた。
熱っつい。
身体がそれを感知した時、ピピピピ、とどこからか電子音が鳴り響く。自分の目覚ましの音ではない。きっとそれはみぞれの携帯のアラームなのだろう。
希美は目を覚まし、それから音の出どころを探った。電子音はテーブルの辺りから聞こえてくる。布団から這いずるように起き上がり、そしてみぞれの為に布団を掛け直して、それからテーブルの元へそろりと近付く。
時刻は四時半。朝と呼ぶには随分早いが、それでも窓の外は既にかなり明るくなってきている。もうすぐ東の山裾からはお日さまが顔を出すだろう。
携帯の画面をタップして目覚ましを止め、希美は大きく背伸びをした。体は至って快調だ。食事が足りてないせいか少し力の入りにくい感はあるし、腰の痛みも残ってはいるけれど、動くのに支障は無い。
お腹を膨らませるように息を大きく吸い込み、そして一息にふうと吐き出す。額に手のひらを当ててみると、ひやりと冷たい。ゆうべまでカンカンに上がっていた熱も、どうやらすっかり引いてくれたようだ。よし、と気合いを入れて、希美はベッドに向かう。
「みぞれ、起きなよ。目覚まし鳴ったよー」
「んう」
肩を揺すられたみぞれが変な声を上げる。寝ぼすけめ。本当はもう少し寝かせておきたいけれど、みぞれだって大学に行かなければならないのだ。この時間に目覚ましを掛けてあったことを踏まえて考えれば、早く起こしてバスに乗せなければ今日の一限に間に合わないのかも知れない。
「みーぞれ。早く起きないと、デコピンの刑だぞ」
そう言って意地悪く、希美は指でデコピンの形を作る。けれど次にみぞれの口から出てきた言葉に、その指はするりと解けてしまった。
「頭、いたい」
まだデコピンしてないのに。そう思った希美の脳裏に突如、嫌な予感が溢れ出た。解いた手をすぐさまみぞれの額に当て、そしてもう片方の手を自分の額に当てる。
「……熱あるじゃん」
体温計を使うまでも無く、みぞれの熱が自分のそれよりずっと高くなっていることは明白だった。
そう言えばみぞれはゆうべ、きちんと布団に入っていなかった。自分が誘導するまで、みぞれはあの格好のまま寝ていたのだ。一体いつからああしていたのだろう。それに風邪引きの部屋に長く居たことや、みぞれがここまで来たことと自分の看病をしたことによる疲労を思えば、風邪がうつったとしても不思議は無い。
だから言ったのに。
みぞれの顔は微かに苦しみに歪んでいた。自分の風邪と同じものだとすれば、これは相当に辛い。講義への出席は到底無理にしろ、ここから彼女の家まで帰すことも絶望的だろう。
誰か、車運転できる子居なかったっけ。希美は思考を巡らせるが、あいにくと思い浮かぶ顔ぶれの中に免許を持っている友人はいなかった。
「ごめん」
はあはあ、と青息を漏らしながらみぞれが謝る。それは何に対する謝罪なのか。希美の言った通りになってしまった事に対してか、あるいは希美に迷惑を掛けてしまうことを予感しているからなのか。どっちにせよ、そんなの気にしなくったっていいのに。
「仕方ないなぁ」
やれやれ、と息を吐く。それはとても大きな溜め息だった。ひとまずはみぞれがこういう状態であると、誰かに知らせなければいけない。希美はじっと考え込み、そして連絡が取れそうな人物を一人、思い出す。
「そう言えばあの子、みぞれと同じ音大に通ってたんだっけ」
ベッドの端に置いてあった自分の携帯を掴み取り、宛先の人物とのメッセージ画面を開く。さてどういう文面にしようか。希美は悩みつつも、浮かんできた言葉を手早く携帯の画面にタップしていった。
『久しぶり! 朝早くに急に連絡してゴメンね。
実は今みぞれ、私の家に来てるんだけど、ちょっと体調崩しちゃってさ。
私が面倒見るからこっちの心配はいいけど、大学のこととかお願いしてもいいかな?
突然でほんとゴメン。みぞれの事はまた後で連絡するね』
これで良し。書き上げた文章をざっと確認してから、希美は「送信」のボタンを押した。宛先の人物は一学年下の後輩ではあるが、こういう事態への対応力は自分などよりずっと優れている。あの子ならきっと上手くやってくれるだろう。さあ、問題はこっちだ。
みぞれはベッドの上でごほごほと咳をし始めている。顔色はどんどん悪くなる一方で、強い寒気を感じているのか体は微かに震えていた。この分なら熱のピークを迎えるのはもう少し先になる筈だ。
希美は収納棚を開け、手前の邪魔なものを端からポイポイと掻き分けていく。奥にしまってあった毛布を引っ張り出し、それをみぞれの被っている羽毛布団の上に重ね掛けする。こんなものでは気休めにしかならないだろうが、こういう時に少しでも温かくするのは基本中の基本だ。
「さて、どうしましょうかね」
腰に手を当て苦笑しながら、希美はこれからのことを考える。
まずは解熱剤を飲ませて安静に過ごさせよう。食べ物も飲み物も、みぞれが買って来たものを使えばいいから何とかなる。氷嚢代わりの氷水タオルは、見本ついでにきちんと絞ろう。体を拭きたいと言い出したら、それも手伝ってあげなくちゃ。それと、みぞれが好きだったソーダ味のアイスはどこで売ってたっけ。みぞれが食べたいと言い出した時、ちゃんと冷凍庫に用意しておかないと。
こりゃ今日も、大学には行けそうにないな。後で夏紀に知らせておこう。
視線をみぞれから外し、希美は窓辺から外の景色を見やる。
山裾からは、徐々に昇り来る太陽の眩い光。
そしてその光に見送られるように、ぼんやりと姿を薄らげてゆく月影があった。
太陽と月。
二つはその時、確かに一緒に、同じ空に浮かんでいた。