彼女は何を恐れるのだろう。
孤独だろうか、離別だろうか、死だろうか。
出自か、性別か、他人か、社会か、星か、宇宙か、それとも───────“火”か。
かつての人に“自由”をもたらしたのは他ならぬ“火”そのものだが、それはあくまでかつての人での話。
「最早誰にも恐れられない」
しかしその熱は、光は、たしかにここに。
「いつからか人は、“火”が自分たちのものであると思い込んでいる」
肌を嘗める鋭い熱に、薄く汗が滲んだ。
「そんな火に殺されるのは屈辱か?」
自分の意識を保つので精一杯の中、不能である心臓の片割れが動き出したような感覚が襲う。
「いいや、むしろ光栄だと思うよ」
俯いていた“彼女”は、顔を上げながら不敵な笑みを浮かべて、そう言ったのだった。
◆
カチカチカチカチカチカチ──────
ぼうっと、ありふれた擬音通りに青白い火が点いた。
立ち上る火の上に、なみなみと水が満たされた手鍋を置くと、火は上へ上へと向かうべくすすけたステンレス性手鍋の底を舐める。
ピンと張ったビニールを伸びっぱなしの人差し指の爪で破り、円形の蓋を4割残しで剥がすと、緑のネギと茶色の謎肉、クリーム色の乾麺の簡素な中身が覗いた。
くたくたと沸き立つ湯を注ぎ、蓋を閉じると、静かに熱を発する鍋底を押し付けながら壁掛けのデジタル時計をちらりと見やる。
2017年7月4日火曜日午後12時03分
「もう昼か」
ひとこと、誰もいない一室で俺は呟いた。
きっかり3分後、部屋の電気もつけずテレビの方を見つめながら、熱い麺を啜る。
『続いてのニュースです、太平洋沿岸部に多数の鯨が現れ、地域の人々に混乱が広がっています。専門家も原因不明として……』
ニュースキャスターの言葉を右から左に流しながら、麺の最後の1本を胃に送り込んだ時、右足首に冷たく湿った感触が走った。
食卓の下に手を伸ばし感触の主を捕まえると、膝の上に抱き抱えてわしゃわしゃと暖かい毛皮を撫でる。
「散歩の時間だったな、忘れてないよ」
きっと言葉はわからないが、意味は通じたのだろう。
尻尾を振りながら、茶色い毛玉がワン!と一声鳴いた。
◇
さんさんと夏の日差しが照りつける住宅街、意気揚々と犬の散歩へと繰り出したのだが。
「さすがに、体感温度40℃越えはきびぃな……」
ただでさえ元が暑いところに、周りはコンクリートジャングル、日本が置かれる気候帯ゆえの高い湿度、これらが合わさることで体感温度は殺人的になっている。
「なんでそんなに元気なのか俺には理解に苦しむよ」
見るからに暑そうな毛皮を纏った俺の愛犬の“うー”───────正式にはてぃーてぃーうーという───────は、暑さをものともせずにせっせと四足を動かしており、どちらが散歩されているのかわからない。
水の中を歩いているかのような主人の足取りにしびれを切らしたのか、うーが突然走りだした。
咄嗟のことに、俺の手からリードが外れ───────
そのあと
そのあと
そのあとは
その直後、俺の視界は真っ黒に塗りつぶされた。
「あぁっ!?……はぁっ……はぁ……」
はね起き、その勢いで髪についていた冷たい汗がタオルケットに細かくシミを作った。
身体中が大量の汗に濡れ、ベッドのマットレスはびしょ濡れだ、心臓もはち切れんばかりに拍動している。
動悸を抑えるように荒い呼吸を繰り返し、剣状突起の左上、心臓の部分を鷲掴みにして5分ほど経ってようやく意識がはっきりとしてくる。
あの日、あいつは死んだ。
一時停止を無視した車が一瞬にしてあいつの小さな身体を轢き潰したのだ。
俺は激情の赴くまま運転手を引きずり出して顔面を複数回殴打、その結果通っていた大学から停学を言い渡された。
出席日数がギリギリだったため無事留年し、俺は24歳学生という大変不名誉な称号を背負って大学4年目の夏を迎えることになったのだった。
◇
さんさんと太陽が照りつける海岸、正しく地方の海水浴場と言った趣で、見回すと海の家が点在するのが見える。
白い砂で目詰まりした灼熱のコンクリートを踏みしめ、喉に少しぬるくなったコーラを流し込む。
「木島あくしろー」
「置いてくぞジンギス」
「こんの……薄情者どもめ……」
最大限の怨嗟を込めながら前を歩く男2人に言い放った。
今日は2018年7月4日水曜日、ちょうどあいつが死んで1年になる。
愛犬の死と停学と留年の三重苦でサンドウィッチどころかホットサンド状態だった俺を励ますためと称し、今日は海水浴にやってきた。
企画したのはガリヒョロもやしの中野とガタイのいい木村、同級生……“元”同級生の幼なじみで、昔からつるんでいるいわば腐れ縁だ。
「そんなんだから留年すんだぞジンギス」
「ジンギスジンギスうっせぇ! このクソ暑い中ジンギスカンなんて想像した日にゃ即刻熱中症だ! てか俺を励ます気ないだろ!?」
先程からジンギス言っているのが中野だ、無言で左手を差し出しコーラを催促してくるので渋々手渡すと、遠慮なく俺のコーラは1口2口と飲み下されていく。
左を見やるとコーラを持っている以外手ぶらの中野に対し、木村がクーラーボックスにパラソルに食材と、ほぼ全ての荷物を不平も言わず運んでいる。
流石に不憫に思い、木村に声をかけた。
「木村、パラソル持とうか?」
「じゃあ本日の主役、頼んだ」
渡された直径5cmに達しようかというパラソルの支柱は、想像以上に重たかった。
「午前中だと言うのにこの暑さ、どうやら地球温暖化は着実に進んでいるみたいですね」
コーラ片手に額の汗を拭いながら、中野が何事か喚いている。
「荷物を運んでから言ってもらいたいな、そのセリフ」
ふっ、と鼻で笑い見せつけるようにコーラを更に飲み下す中野を睨みつけるが、それにしたって暑いのは同感だった、どうにかこの暑さから気を紛らわそうと適当な話題を振る。
「ここって遊泳オーケーなんだよな?」
「お前が泳ぎたい泳ぎたいって必死だったから、わざわざ探したんだろ?」
「……そういやそうでしたね」
身も蓋もない返答に、かえって暑さが増した。
◇
残されていたコーラが許可なく中野の胃にすっかり蓄えられた頃。
砂浜の人が少ないところにパラソルを打ち立てて、こじんまりとした楕円の日陰に俺たちは座っていた。
県内でも有数の人気スポットだが、まだ午前中だからか人はまばらだ、となれば。
「俺、ちょっくら泳いでくるわ」
「……溺れんなよ?」
心配そうな目線を投げかける木村と中野にウィンクまで飛ばしながら、俺は自信満々に
「泳ぐ魚の異名を取った俺だぞ? 水泳始めて何年だと思ってんだ、溺れるわけないだろう?」
もちろん、と言ってはなんだが。
俺は溺れた。
塩辛さが喉を焼く、どんどん体から空気が零れていく感覚。
死が一歩、また一歩と近づいてくる。
まだ死んだことは無いが、本能というのだろうか、分かってしまった。
これは死んだな、と。
前作よりもゆったりと更新していこうと思います、あと前作を改稿してなろうにも投稿する予定なので、それと並行して順次なろうにもこの作品を投稿していきます。
それでは、本作品も宜しくお願い致します。