鯨が吐きし泡沫を見ず   作:木島後輩

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おっさんとおばさん

「着きました……足元に気をつけてください……」

 

「ありがとアンちゃん……ってかこの呼び方嫌だな、ほかの呼び方ないもんか」

 

 エレベーターを降りると、先程と比べれば格段に綺麗な廊下が続いていた。

 

  塗装の剥がれも錆もない廊下には、どこに続くのか分からない扉がそこかしこに設けられており、迷路のように入り組んだ道はアンについて行くのでやっとだ。

 

  ドクドクと鼓動が激しくなっていく、それは主に、これから会うはずの“船長”に対するある懸念からだった。

 

「……さっき質問最後って言ったけど、またいいかな?」

 

「んっ……私が……答えられる範囲なら……構いませんよ……?」

 

「船長って……怖い人だったりしない?」

 

 先程から頭に浮かぶのは悪い想像ばかりなのだ。

 

 お前は知りすぎた……からの射殺。

 

 君のような勘のいいガキは嫌いだよ……からの撲殺。

 

 お前はやりすぎた、やりすぎたのだ……からの焼殺。

 

  深海でいたいけな少女を働かせてやっていることが慈善事業だとは到底思えない、ここの存在を知ってしまった俺はきっと「いえ……? そんなことはありませんよ……?」

 

「そりゃそうですよねー」

 

 こちらに向き直り、きょとんとした様子でこう答えた少女が嘘をついているようには見えない。

 

  そもそもどこの馬の骨とも知れぬ男を助けてくれた恩人になんてことを思っているのか、今更ながらこの性分を憎むところである。

 

  また1つ右に曲がり、アンは突き当たりにある1つの扉の前で立ち止まった。

 

「ここです……船長、例の人が目覚めましたので……連れてまいりました……」

 

 俺には他の扉との違いが分からないが、アンがここだと言うのだからここなのだろう、まもなく扉の向こうから足音が近づいてきた。

 

  金属を軋ませながら扉が押し開けられ、図らず濃緑の瞳と目が合ってしまう。

 

「思ったより元気そうだな」

 

 そう呟くと、船長は甲高い金属音を響かせながら一気に扉を全開、その偉丈夫っぷりが明らかになる。

 

  180cmを優に超す身長、殴られたら首が飛びそうな隆々の筋肉、それらを黒革のハンティングベストに押し込んだ白髪の男がそこに立っていた。

 

  何より目を引くのは左腕に装着されたガントレットだ、コンクリートブロックも粉々に叩き割りそうな無骨な外見で、その風貌と相まって(いか)めしい雰囲気を醸している。

 

  50代そこそこに見えるがこの白髪は地毛なのだろうか、もしかして自分で脱色しているこの年まで厨二病を引きずった痛い人なのかもしれない───────などと、性懲りもなく失敬な想像が始まって自制する。

 

「とりあえず入るといい、おっと、履物をくれるかいハニー?」

 

 見た目通りのバスボイスが次いで紡いだのは、流暢な日本語だった。

 

  想像していたものとは真逆の穏やかな内容だが、ひとまず海の藻屑になることは無さそうでなによりだ。

 

「その呼び方やめてって何年言ってるのか分かってるのかしら……はいこれ」

 

 奥から出てきたのは絵に描いたかのようなおばさん……ではなく、真っ赤な髪にメリハリのついた体型、端正な顔の女性だった。

 

  真っ白なエプロンを着けたその姿からどことなく漂う風格は、ビッグママと言ったところか。

 

「かれこれ30年、ちなみに今ので33391回目だよハニー」

 

 思い描いていた大麻薬商人のようなイメージはどこへやら、船長はただの愛妻家であった。

 

  遅れて日本の法律に当てはめるならあの女性が少なくとも40代後半であることに度肝を抜かれつつ、ありがたく頂戴したスリッパを引っ掛けて船長室に入る。

 

  船長室の中には黒っぽく変色した絨毯が敷かれ、空き瓶や小物でごった返した棚、おそらくここで初めて見た木製品のデスクが置かれている。

 

  そこかしこに積まれた本といい海図といい、内装はなるほど一種の船長室と言った趣だ。

 

「あぁらやだぁ、流石私の旦那さん……」

 

  年甲斐もなく未だ熱々の夫婦愛に火傷しそうな思いで立ち尽くす、傍らに立つアンをちらと見るが特に止める素振りもないので、どうやらいつもの事らしい。

 

  手持ち無沙汰で部屋を見回して、駱駝色(らくだいろ)のデスクの上に置かれた写真を見つけたところで、ようやく互いの愛を確かめ終えたのか船長の意識がこちらに向いた。

 

「お待たせしてすまない、俺がこの船の船長、ベイカーだ」

 

「助けてくださってどうもありがとうございます、木島吟次と申します」

 

「ここで立ち話もなんだ、奥で話そう……アン、ありがとうな、行っていいぞ」

 

 先程とは打って変わって貫禄漂う語調で話し始める船長改めベイカー船長について部屋の奥に入ると、そこは応接室らしい部屋だった。

 

  無言でソファーを勧めるベイカー船長に会釈しつつ、革製と思われるソファーに腰掛ける。

 

  明らかにこちらの方が寝心地はいいだろうに、どうしてまたあそこに寝かせたのかと内心不平を言いつつ、ベイカー船長が座ったのを見計らって話を切り出した。

 

「本当に助けてくださってありがとうございます……まず、ここがどこにあるのか教えてくださいませんか?」

 

「ここは大西洋フェルム近海約3000mに位置する捕鯨プラント“ピークォド”だ、聞いたことくらいはあるだろう?」

 

「いえ、全く」

 

 フェルムという地名に聞き覚えがない上、3000mと言われても実感が湧かないのが実際のところだが、それ以前に捕鯨はしばらく前から動物愛護の観点から規制されているはずだ。

 

  そもそも深海に捕鯨プラントを造ったところでこんな所に鯨がいないのだから意味が無い。

 

  俺の返答が予想外だったのかベイカー船長は軽く驚いた素振りを見せたが、すぐに濃緑の瞳に理性の光を浮かべて言った。

 

「うーむ、内陸の生まれか……? とにかく3ヶ月に1度の連絡船が海に浮かんでいたお前を引っ張りあげて、ここに置いていったんだが、てっきり死体を掴まされたものかと思ってとりあえず使ってない部屋に置いといたんだ、ここまでいいか?」

 

「……えぇ、まぁ」

 

 まくし立てられて困惑気味だが、死体扱いされていたなら先の扱いもある意味納得ではある。

 

「そしたらよ、家の女房が生きてたらどうするんだってうるさいんでアンを向かわせたら、おっかなびっくりお前が生きてて、ここまでアンが案内したってわけだ」

 

「ちなみに俺、どのくらい寝てたんですかね」

 

「かれこれ6時間とちょっとか、もうすぐ夕飯だ……お前も食べるか?」

 

 今日は本来ならバーベキューもする予定だったので朝食を抜いている、夕飯の言葉に思い出したかのように胃が空腹を訴えだした。

 

「じゃあ、お言葉に甘えて……」

 

 ◇

 

「えっと……腹が減ったとは言いましたけど、流石に食べられるか……」

 

「安心しろ、残したら俺が食う」

 

 船長室からほど近い大食堂のたった1テーブル、その上には挽肉に豆腐のようなものが入った煮込みや唐揚げっぽいなにか、肉団子が浮かぶ謎の汁物等々、所狭しと料理が並べられている。

 

  テーブルを囲うのはベイカー船長とビッグマザー改めリザさん、そしてアンと俺の合わせて4人だけだった。

 

  船長室で見た写真には、かなりの人数の船員が映っていたのだが、今の様子だとほかの船員が姿を見せる様子はない。

 

  食堂の広さに対してこの人数はどう考えても不釣り合いだ。

 

「人ってこれだけなんですか? アンがお姉ちゃんがなんとかって言ってましたけど」

 

 あらかじめ聞いている情報の中でも1人足りない、それにしたって捕鯨船というのはこれだけの人員で回せるものなのか。

 

「あっ……妹は……今船の周りの見回り中なので……いないんです……」

 

「なるほど……ってか妹さん何者だよ」

 

 よっぽど年の離れた姉妹なのか、妹とは何らかの愛称でガチムチのおっさんだったりするのか。

 

「人はこれだけだ、昔はもっといたんだがな……」

 

 急に表情が暗くなるベイカー船長を見て、遅まきながら触れてはならないことに気随気儘にも触れてしまったことに気がついた。

 

「なんか……すみません」

 

「気にしないでいいよぉ、ささ、せっかくのご馳走が冷めちゃうわ」

 

 パンを配り終えたリザさんが気まずい場の空気を切り替えた。

 

「そうだな、補給後のご馳走を味わうとするか」

 

 そう言ってベイカー船長が挽肉豆腐を並々取り皿に取り分けると、美味しそうに頬張り始める。

 

  目の前のご馳走に胃が既に胃酸をドバドバ放出している、辛抱たまらんと両手を合わせて食材及び調理者諸々への感謝を示した。

 

「じゃあ、いただきまーす!」

 

 

 その時一瞬注がれた困惑の目線に、俺は気が付かなかった。

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