別に褒められるような、そんな人生を送ってきたつもりはない。
成績だって別段飛び抜けていたわけでもなく、やったら平均より少しだけ上、何をやっても中の上にしかなれない、そんな男だった。
そんな俺が、どうしてこんな
「アンは……“きとうさん”のことが……」
どうしてかしらね?
───────誰だお前は。
折角あの女の子と仲直り出来て、望み通り彼女の妹を治療できるのに。
───────黙れ
どうして
───────黙れ
そんなに
───────黙れ!
残念そうなの?
◆
「っはぁ!……はぁ……」
『だいじょーぶか? あいぼー』
「俺は……そんな……つもりじゃ……」
頭の中に、あの子供とも、女性とも取れる声が木霊する。
どうして
どうして
どうして
あの問いが繰り返される度、朦朧模糊としていた夢が次第に輪郭を帯びていく。
聞き覚えのない単語、見覚えのない光景、そして
「ナシ……? エリカ……? 誰だ……誰なんだ……」
誰が俺の頭を覗いたのだ。
誰が俺の蛇蝎の如きあの思考を、読み取ったのだ。
『あいぼー! あいぼー!……やっべ!』
脳みそを掻き回したい衝動に駆られた、そのとき
「……大丈夫ですか? “きとうさん”」
いつのまにか扉を開いて、こちらを覗いていたアンに声をかけられた。
「ぁ……あぁ、大丈夫、問題ない」
アンがいる手前、たかだか夢の事で悶々としてはいられない。
荒くなる呼吸を無理やり落ち着けて、できる限り気丈に振る舞いながら俺はそう答えた。
「ならいいんですが……」
気まずそうにしながら朴訥な少女は言うと、とことことこちらに歩み寄ってくる。
遅まきながらレミーを隠さなければと下を見たが、そこにあったのは乱れたシーツだけだった、咄嗟に隠れたらしい。
「……アンは、大変なことをしてしまいました。 改めてお詫びを……」
「お詫びは毒を盛らないことと、元通り接してくれるだけでいいよ……盗聴はやめてほしいけど」
包帯が巻かれた右側頭部を擦りながら答えた、アンの渾身のフライパンによる一撃によるもので、一晩経った今も痛む。
「本当に、申し訳が立たないです……」
「もう許し……これ何回目だ?」
昨晩20回は改めてお詫びをされている気がする、幼い少女に謝るくらいならやめておけ、などと言うのも酷である。
なにより、昨日彼女が話した事を思い返すとどうにも怒る気にならないのだ。
───────アンは、そもそもアンドロイド信仰などしていなかった。
物心ついてからずっとこの船で暮らしてきたアンは、一般常識や倫理観のほとんどを彼女の双子の妹が持ってくる本から得ていたらしい。
その中の、牽強付会も甚だしい恋愛教養本から間違った知識を得た彼女は、本の記述にあった“あえて突き放す”を実行したと、そう言った。
信仰が嘘だとすれば船長の話とも辻褄が合うし、合点がいったのだが。
リルナオの話に矛盾が生じる、アンの話から妹が鯨毒に冒された顛末は事実のようだが、アンドロイド信仰に関しては真っ赤な嘘、事実俺はすっかり騙されてしまった。
問題は目的が見えてこないことに尽きるが、現状本人に問いただす他ない。
そして、鯨毒を食事に盛ったことも素直に認めた。
本人曰く
俺が薬を使ってみたところ無事に味覚が元通りになったことと、アンの絶望的といえる不器用さを忖度して、リルナオだったら顔面に一発拳を入れるところをお咎めなしとしたのだが。
───────ほんとに?
頭の奥で、誰かに囁かれた気がした。
◇
「今日の寝癖は……その……なんというか……いつにも増して扇情的です……」
俺の傍らに座り、ベッドの上で左右の足を上機嫌にぷらぷらと揺らすアンが艶っぽい声で言った。
「なんか様子おかしいよね?」
「そうですか? 悪くは変わりあっても良くは変わってないはずです」
最近実感が薄れがちだがここは異世界、創作においてハーレム形成は典型なのだが、俺は過度なハーレム及び鈍感主人公には萎えてしまう人種なのだ。
そんな自分がハーレム街道に片足を突っ込んでいる気がしてならず、杞憂であってくれる事を切に祈るばかりである。
「……まじめな話、してもいいよな?」
「……はい、朝食はいらないと船長にも伝えておきました」
緩んでいた雰囲気がきゅっと引き締まる、先程とは打って変わってアンは真面目な声音で返事をした。
「アン、お前は妹をどうしたい?」
アンが昨日語ったのは、言うなれば妹による厳しい“躾”をされた過去であった。
過去にいた船員との交流は必要最低限に抑制、姉に入るあらゆる情報を検閲し統制、料理を教え込むがそれ以外の仕事は全て自分がこなしていたという。
───────つくづく、不器用な姉妹だ。
「私は……」
「私は……スイが大好きです、愛しています、ですが……同時に、怨んでいます。でも……」
「きっと、やり直せますよね」
「決まりだな、アンがスイとやり直せるよう、俺も……“手伝う”から」
物心ついてからずっと海底3000m、人間関係も希薄だったスイは、きっと唯一の拠り所であるアンを失いたくなかったのだろう。
───────自分の望む姿のままで
「スイは船長にすら心を開かず、私を遠ざけていました……どうにかしないと……」
「なぁに、俺にかかればちょちょいのちょいよ、おそらく」
「そこは自信を持ってください!」
「きっとたぶん」
2人の笑い声が、小さな一室に慎ましやかに響いた。
◇
「ベイカー!」
ピークォドの船長室にはただならぬ雰囲気が漂っていた。
「聞けリルナオ、分かっている、落ち着け」
電子タバコを投げ捨て、電子煙を荒々しく吐きながら船長が諭す。
「何がわかるって? “スイを助ければこの船から出す”っていう約束を忘れたの?」
檄を飛ばすのは黒髪を揺らすアンドロイド───────リルナオだ。
激情のままにリルナオは机を殴りつけ、その上に置かれていたものがバラバラと床に落下する。
「……お前は、この船に必要だ」
「優秀な人材を悉く鯨のエサにした挙句、ろくに求人もせず私を使い潰すつもり? ふざけ「スイはまだ治っていない! 出ていけ!」
「2つ3つ頼みを聞いてくれるなら考えてあげる、聞かないなら居座ってどこぞの“無能”の体たらくを一日中語ってあげるわ」
「……言ってみろ」
「1つ、穀つ……キトウの6日後のエセックス試乗に私を同伴させて。2つ、アンとスイの世話は私とキトウに全て任せて……まぁ、今もあんたは何もやっちゃいないけど」
最後の一言に船長は顔を顰めるが一歩踏みとどまり、無言で頷くと
「最後は、なんだ?」
「キトウの“授業”、私にやらせて」
◇
薄暗い室内に男が1人と女が2人。
採血針と淡く発光する液体をなみなみ湛えた器を持った男───────つまるところ俺は、人生で最初で最後であろう女の子の採血を実行しようとしていた。
「ちょいと失礼して……」
「アンが……やりましょうか?」
「いんや俺がやる、しっかりこの腕で練習したしな」
刺傷が残る左腕を見せながら、そういったものの注射器を握る右手は震えている。
注射器を始めとする医療器具一式はレミーがくすねたものだ、大きないわゆるドクターバッグに入っていたのだが、どうやってくすねたのかは皆目検討がつかない。
スタンドライトを手繰り寄せ、ベッドに横たわる少女───────スイの右腕に過去の採血の記憶を頼りにゴムチューブを縛り付ける。
「手を握らせてくれ」
そう言うと、アンはスイの手のひらに自分の人差し指を握らせた。
やせ細った透けるように真っ白い腕には、探らずとも静脈が浮いて見えている、細心の注意を払いながら俺は採血針を刺して命の水を抜き取っていく。
「大さじ1杯分……っと」
必要量血液が集まり、針を抜くとゴムチューブを解いた。
「アン、今度はここに綿を当てて5分間圧迫してくれ」
「わかりました」
消毒液───────採血用エタノールと書かれていた───────を染み込ませた綿を渡す。
「俺はこいつを……どうしようか」
器に入っている世界に唯一の鯨毒の解毒剤にスイの血液を流し込見ながら呟く。
今回の治療で最大の障害が目前に迫っている、なんとこの薬は“塗り薬”なのだ。
一応人体には無害なので、俺のように体内に取り込んでしまった場合は飲んでも問題ないのだが、スイは肌に浴びてしまったということはつまり───────
「はぁ……はぁ……間に合った……」
扉を勢いよく開き、息も絶え絶えに何者かが言った。
「いい所に来たなリルナオ! 聞きたいことはエベレストだがとりあえず頼みを聞いてくれ」
「もともとそのつもりだよ、穀潰しから性犯罪者になりたいなら私は見てるけど」
「なんで知ってんのかわからんけど、お前も盗聴してたクチか? とりあえず話が早くて助かる……俺、部屋の隅でソロまるばつでもしてるから」
果たしてこの世界にまるばつが存在するのか、そしてあのクソゲーは普及するのか疑問に思いつつも、リルナオに薬を渡す。
「任せて、穀潰し……キトウ」
───────小さな声で付け足された言葉は、木島銀次には聞こえていなかった。