雨が降っていた。僕の心を映すように。
窓際の席。古い雑居ビル、ベージュのペンキで塗られた窓枠。
もう
「この場合の解の求め方には、前回の公式を応用するといいですね」
近くの生徒に教えている先生の声がした。
個別指導の学習塾。僕は通路をはさんだ反対側の席に視線を移す。
今日は空席だった。座席表には名前があったから急に休んだらしい。
彼女と知り合ったのもこの塾、この席だった。わずか一か月前だけれど、ずいぶん昔のような気がした。
「
「……はい」
先生の声に、僕はかろうじて不審に思われないだろうタイミングで返事をした。
「はい、いいですね。もう一問、解いてから解説しますね」
先生は次の生徒のところに移る。
彼女は、早々に、名前で呼んでくれたっけ。
『ねえ、
人は誰かを忘れるとき、声から忘れるのだと、どこかで聞いたことがあった。それならまだ、僕は彼女を忘れる心配はないらしい。
彼女の声、本人は堕天使だというけれど、僕には天使のそれのように聞こえる声を、ありありと思い出すことができた。
あの日、彼女はすこし照れくさそうにしていた。
夜の散歩道。
青白い街灯の光を受けて浮かび上がる、彼女の彫りの深い顔、そこに浮かんだ柔らかな微笑み。赤紫の瞳は謎めいた光をたたえていた。
かすかな風に乗って揺れる長い髪(
ちょうど咲き乱れていた、僕が名前を知らない白い花。その香りに交じる、どこかエキゾチックで不思議な匂い。
あのとき、僕は恋に落ちた。
善子さん。
僕の初恋の人。
僕は、自分が彼女の特別な人だと、すっかり思い込んでいた。彼女の優しさに甘えてしまっていた。
でも、そんなことはなかった。
もっと早めに動いていれば――たとえば手をつなぐとか、いっそのこと告白をするとかしていれば、結果は違ったのだろうか。
僕にはわからなかった。
僕の恋は、つい先日、終わりを告げたばかりだった。
◆
彼女と初めて会ったのは、梅雨入り直前、六月のある平日だった。
沼津の中心部の市街地が、住宅街にかわっていくあたりに、塾はあった。中心部からさらに離れた僕の
その日の放課後、いったん帰宅して自転車に乗ることも考えたけれど、僕はそのまま塾に向かった。昼間は夏を思わせる暑さだったが、日没も近くなると涼しくて、散歩にはちょうどよかった。
途中、県道に斜めに交差している緑道へ曲がった。すこし遠回りになるが歩くには気持ちのいい道だ。
住宅街のなかをゆるやかなカーブを描いて伸びているこの緑道は、かつての貨物線の廃線跡らしい。緑道の名にふさわしく緑がゆたかで、いつもなにかの花が咲いていた。
このときも、僕が名前を知らない黄色い花が植込みを
そろそろ緑道から右折しないと、というところで、僕は先を行くひとりの女の子に気づいた。
見覚えのないベージュの制服。背中のなかほどまである、やや青みを帯びた黒い髪は、頭頂部の右側でお団子にまとめられていた。
髪を透かしてセーラー服風の襟が見えていた。おそらく高校生だろう。
彼女は僕が曲がる予定の交差点で見えなくなった。
もしかして、と思いながら僕はあとに続いた。
想像は当たっていたらしい。
彼女は、タイル張りの外壁の、古びた雑居ビルの前に立ち、手にしたメモを眺めていた。
彼女はすっと通った鼻筋の美少女で、その横顔に僕はどきりとした。
彼女はビルのテナント案内の看板へ視線を移した。
僕は彼女の横を通ってビルに入ろうとして――いつもなら絶対にそんなことはしないのに――彼女に声をかけた。第三種接近遭遇だ。
「
彼女は僕に気づいていなかったのだろう、びくっとして僕を見て、いった。
「あ、ありがと」
僕は軽く頭を下げて笑ってみせた。彼女がすこし緊張しているようだったから。
彼女はおずおずと微笑みを返してくれた。
ビルの入り口を通ると狭いエントランスホールだ。彼女はなんとなく、という感じで僕についてきた。
きっと僕も、初めて行った場所で同年代の子を見かけたら、そうしてしまうだろう。ちょっとしたことだけれど、彼女に親近感を覚えた。
塾は三階で、いつもは階段を使うところ、今日はエレベータの呼び出しボタンを押した。
やがてやってきたエレベータに乗ると、想像した通り、彼女とふたりきりになった。
さすがに話しかけることはできなかった。
高校は共学でクラスの女子とも必要に応じて話しているけれど、僕にはそれが精一杯。初対面の女の子に雑談をできるような度胸はなかった。
ましてそれが、クラスの女子の誰よりも可愛い女の子なら。
そう、僕にとっては彼女は、初めて出会った
僕はちらりと彼女の顔を眺めた。彼女は扉の上の階数表示をじっと見つめていた。不思議な、あまりかいだことのない香りがした。
電子音が鳴って扉が開いた。「開」ボタンを押した僕に、彼女は会釈してくれた。
・
受付兼事務室のほうへ行く彼女と別れて、僕は教室へ入った。
教室には机がいくつも並んでいた。ただ、学校とは違い肩の高さくらいの仕切りが隣の机とのあいだに立てられ、座ると視線をさえぎるようになっていた。
つまり、椅子に座ると、見えるのは通路をはさんで座っている生徒一人、ということになる。
座席表で指定される席は、だいたいいつも同じだった。僕は窓際の席だ。
教室には四列、机が並んでいるので窓際になる確率は四分の一。ほんの小さなことだけれど嬉しかった。
高校からまっすぐに来たので、授業まではすこし時間があった。
鞄に入れてある雑誌を取り出そうかと思って、
この塾は最近はめずらしい個人経営の塾だ。「天海」は塾長の名前。ずいぶん前からこの場所にあって、生徒はほとんどが口コミで入塾したらしい。
僕も、知人から紹介されたらしい母に勧められて、高校進学と同時、この四月から通い始めたところだった。
僕のコースでは先生ひとりに生徒二、三人が基本的な構成で、同じ先生の生徒は、固まって座ることになる。
彼女がどこに座るのかはわからなかったが、反対側の席ならいいな、と思った。
このコマでは、僕ともうひとりが、同じ先生から授業を受けていた。だから彼女が近くに座る可能性は十分にあった。
その生徒が来て――僕とは別の高校で、名前もよく覚えていない――最後に先生が、彼女と一緒にやってきた。
彼女は僕に気づいて、硬かった表情を柔らかくした。僕の気のせいでなければ、すこし嬉しそうに。
「あそこに、座ってください」
先生が示したのは僕の期待した通り、反対側の席。
「はい」
彼女はスカートの
いつものように授業が始まった。
この一か月間、授業の合間に見えるのは、窓の外に見えるどこにでもある裏通りだけだった。ときおり猫が通るのがささやかな彩り、というくらい。
それが、女の子を、それもとびきり可愛い女の子を、視線を送るだけで見られるようになったのは僕にとっては喜ばしい事態だった。
もちろん、あまり見ていたら変な奴だし、塾に来ている意味がなくなるので、なるべく気にしないようにしたけれど。
ただ、視線の端に動きがあると――彼女が
先生との話を漏れ聞く感じだと、授業への遅れを取り戻すために、彼女は塾に来たらしかった。学年は僕と同じ一年生。
そして、名前もわかった。津島さん、というらしい。
授業があと五分ほどになり、僕は悩み始めた。
彼女、津島さんに話しかけるべきだろうか。いまのところ悪くない感じだと思った。クラスの女子とも仲良くなれていないけれど、万が一、ということだってあり得た。
第三種接近遭遇のその先に、進むことができたなら、なにが待っているのだろう。
よし、と決めたとき、授業時間の終わりを告げる電子音のチャイムが鳴った。
僕は素早く勉強道具を片付けて椅子から立ち、窓の外を見るふりをしてタイミングを
津島さんが立ち上がり椅子を戻したところで、僕は声をかけた。
「お疲れさまでした」
彼女は僕のほうを見て、くすりと笑った。
「お疲れさまでした」
同じ言葉を面白そうに繰り返す彼女。それしか言葉を思いつかなかったのだから仕方がない。彼女は緊張していたみたいだし、悪くないと思うんだけど。
「次の授業、入ってます?」
他校の生徒、それも女子との距離がわからなくてなんとなく丁寧になってしまった。
「いいえ、今日はこれで終わりです」
「それじゃ」
僕は彼女をうながして歩き出した。狭い通路を歩きながら話した。
「初めて塾に来たんですか?」
「はい。いろいろあって、通うことに」
「わりとアットホームな感じだから、すぐになじむと思いますよ」
「それならいいんですけど」
ホールでエレベータのボタンを押した。
「僕は、中井聡。数学と英語を取ってます」
「私は……」
彼女はいったん言葉を切った。名前を話したのは、早すぎただろうか。
不安に思ったのは一瞬だった。彼女はうなずくと、続けた。
「津島善子です。私も数学と英語ですね」
「津島さん。よろしくお願いします」
エレベータのなかではふたりとも無言だった。
ふたたび「開」ボタンを押した僕に、また彼女は会釈してくれた。
ビルを出ると、来たときよりもさらに涼しい空気が僕を包んだ。すこし寒いくらいだ。
津島さんと目があった。
すっかり日の落ちた暗い通り。エントランスからの白い光が彼女の顔に陰影を投げかけて、整った顔立ちを強調していた。
僕は最初に受けた美少女という印象はそのままに、さらに「神秘的な」という形容を付けたくなった。
「それでは、失礼します」
彼女は両手をそろえて頭を下げた。
「はい。気をつけてください」
僕の言葉に彼女は微笑むと、緑道のほうへ歩いていった。
僕も同じ方向だが、今日はあえて反対側に歩いた。もしかしたら一緒に話しながら帰れるかも、と考えていたのだけれど、彼女の雰囲気が、まだそうするには早すぎる気がした。
それでも、彼女の名前を聞けてよかったと思った。
コースが同じなら、きっとまた一緒になるだろう。
次に塾に来るのが楽しみでならなかった。
・
この日、僕が津島さんに抱いた感想は、上品でおしとやかな子だな、というものだった。まっすぐにそろえた前髪もそれに寄与していた。
それは、次の週に、そしてさらにそのあとで、嬉しい方向に裏切られることになる。
・
翌週。今度は英語の授業を受けに、僕は放課後、塾へ行った。
前回の話の通りなら、今日、津島さんが来る可能性もあった。
教室を入ってすぐのところにある座席表を確認すると、果たして津島さんの名前があった。それも通路をはさんだ反対側だ。
僕はいつもの席についた。津島さんが来るのを期待しながら。
そしてもうひとつ、僕には楽しみがあった。今日は毎月心待ちにしている雑誌の発売日だった。
「月刊マー」。「世界の謎と不思議に挑むハイレゾミステリーマガジン」という触れ込みの雑誌には、毎月、興味深い記事が掲載されていた。
今月も僕はここに来る途中の書店で購入していた。授業までは時間があったので席で開いた。
第一特集は「古代マヤ文明、新たな遺跡に科学調査のメス」と題されていた。
南米からの特派員レポートは興味深かった。いつか行ってみたい所のひとつだ
僕はいつのまにかすっかり記事に夢中になっていた。
「中井君」
だから津島さんの声がしたときには飛び上がらんばかりに驚いた。
「つ、津島さん。こんにちは」
津島さんは僕と同じく制服姿だった。
窓の外は夕日でオレンジ色だし「こんばんは」のほうがよかっただろうか、といってしまってから考えた。ただ、どちらでも関係なかったらしい。
彼女は僕への返事ももどかしい、というようにうなずいて、早口で話した。
「それってもしかして、『月刊マー』?」
「うん、そうだけど」
僕が言うと、彼女は目を見開いて口をパクパクさせた。もしかして興味があるのかな、と僕は続けた。
「読む?」
「えっ!」
明らかに動揺したようすの彼女。まさか勧められるとは思わなかったのだろう。
「……や、
「そう」
僕が友人に勧めたときも、いつもこんな返答だった。だから仕方がないとはいえ、ちょっと残念だった。
ちょうど先生が来て僕たちの会話はそこで途切れた。
・
授業が終わって、僕は津島さんの視線を感じた。なんだろう。「月刊マー」のせいだろうか。それとも今日に限って、僕が変な格好をしているとか。
ちらっと窓ガラスで確認するけれど、どこにでもいそうな高校生が映っているだけだった。
僕が授業道具をしまうまで彼女は席に残っていた。
なにかいいたそうだったので、僕から話しかけることにした。
「津島さんは、もう終わり?」
「ええ。中井君は?」
「僕も」
津島さんはうなずいて教室の出口へ向かい、僕もあとを追った。
教室を出たところで彼女はいった。
「さっきの雑誌、いつも読んでるの?」
「うん、毎月、ずっとね」
「そう」
彼女はぶっきらぼうに答えた。
「マー」で扱っている超常現象や魔術については否定的な人も多い。もちろん、僕も僕なりに
ふたりでエレベータに乗った。
エレベータはゆっくりと下がり、一階で止まる寸前、かすかな浮遊感が僕たちを襲った。
「きゃっ!」
津島さんが小さく驚きの声を上げた。
直後に間の抜けたチャイム音が鳴り、扉が開いた。
「大丈夫、津島さん?」
外に出て僕は声をかけた。
「ええ、大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」
「古いエレベータだから、ときどき止まる寸前、ガクって揺れるんだよね」
「ああ、そうなのね」
彼女は安心したように微笑んだ。僕も笑い返した。
さっきの声は、彼女には悪いけれど、とても可愛らしかったし、いまの笑顔も素敵だった。
僕がなかば見とれていると、彼女は僕の視線をとらえたまま続けた。
「ねえ、中井君。『マー』のことだけど」
僕はうなずいた。
「子供っぽいとか思わない? 魔術とか、この世にあるわけないじゃない」
ああ、と僕は思う。やっぱりだった。津島さんもそういう人なんだ。
でも、そんな人との折り合い方はずっと前に学んでいた。
「僕も、あるわけないと思ってるよ」
そういって肩をすくめてみせた。
彼女はきっと笑顔で同意して、興味本位で僕が読んでいるだけだと思ってくれるだろう。そうしたら、そこでこの話題は打ち切ればいい。
でも、僕のその想像は裏切られた。
「……そうなのね」
彼女は悲しそうに顔を振ったのだ。
僕は方向転換して、可能性にかけるつもりで本音を話すことにした。
「……でも、それが証明されたわけじゃない」
彼女は無言。
「だとしたら、ないって断言することはできない。僕は、もしかしたら、って思う。それが科学的な態度じゃないかな」
「科学的、ね……」
津島さんは初めて耳にした、というように目を見開いた。
「うん。だから、子供っぽいとは思わないよ」
僕が締めくくると彼女は、にこっと笑った。
「面白いこというのね。中井君」
「そうかな。僕は思ってることを、いっただけだけど」
「私には、面白かったわ」
それならよかった。
「『マー』、貸そうか? 次のときに返してくれればいいけど」
すこし残念だけれど彼女が興味を持ってくれたなら、やぶさかではなかった。
彼女はぎくっと体をそらし、そのままたっぷり数秒、固まった。
やがて彼女は大きく息を吐いて、いった。
「……やっぱり、止めておくわ。発売日に、悪いし」
「そう? 別にかまわないけど」
「いいの! やめておくの!」
彼女はぶんぶんと大きく首を振った。いままでのイメージと違ってコミカルな動きだった。
僕が見ているのに気付いたのか、彼女は、はっとしたように居住まいを正した。
「それじゃ、中井君。またね」
「うん、また」
津島さんがエントランスのガラス扉と格闘し始めたので(古いビルなのでとても重いのだ)、僕は手を添えて扉を開けた。
「ありがと」
彼女は最初に会ったときと同じように、でもそのときよりずっと近くで、そういった。
彼女はぺこっと頭を下げてから歩いていった。
点々とともる街灯の光。光の傘のなかにあらわれたり、消えたりしながら、小さくなっていく彼女の背中。
僕は彼女が緑道へ曲がるまで見守った。
今日も一緒についていくにはタイミングが悪かった。でも、今日一日でずいぶん彼女と会話ができたと思う。「マー」に興味を持ってくれたのも意外だった。
それに、いつのまにか――思い返してみれば彼女のほうから、自然に話すことができていた。
彼女のことでわかっているのは、名前だけ。通っている高校も知らない。どんな性格なのかもわからない。
それでも、とても美しい外見のなかには、それにふさわしい魅力的な女性がいる。そんな予感がした。
僕は万が一にも彼女に追いついてしまわないように、反対側の道から帰ることにした。
帰宅して「マー」の続きを読むのが楽しみだった。なにしろ今日が――。
僕は、はっと気づいた。
津島さんは発売日を知っていた。
思わず僕は、ふふっと声に出して笑ってしまった。
第三種接近遭遇のその先は、いまのところ悪くないほうに進んでいるみたいだった。